ずる。ずるずる。
手を伸ばしても、とても届きそうにない夜空だった。その夜空の遙か足元。地面をそれは這っていた。通りすがった残業帰りとも飲み会帰りとも分からない男性は、それの存在が見えていないかのように歩み寄り、そして何事もなく通り抜ける。
それを見つけた少女は住宅地のなかでポツンと屋根の上に立ち、片手に握った紙切れを見つめてはため息をついた。その様子は誰かが見つけてしまったのなら「異様」の一言に尽きるのだろうが、丑三つ時、近所にコンビニがあったりするわけでもないその場所では、通行人は居なかった。
しばらくして正面からだった風向きが横からの風変わると、少女は手にしていた紙切れに息を吹きかけ、それを空中へと放った。それは紙なのだから、普通風に流されてしまいそうなものだが、放たれた紙は風を切る音を立てて空中を滑るように走りだした。
「今日のお仕事、終わりだよ。帰ろうか」
少女は空中に向かってそう呟くと、風に運ばれるようにしてどこかへ移動していった。鳥でもないのに空をとぶ姿は、やはり「異様」としか言いようのない光景であった。
【 仮想百鬼夜行 犬神奇譚 01 】
梔子剣は今年で小学六年生の男の子である。
剣の通う小学校では、おかしな話でもちきりであった。五年生の女の子が気味悪い、というもので、剣も詳細は聞いたことがなかったが、狗谷ミヤという少女が周囲から嫌われているということだけは知っていた。
だからこそ、
「げ…」
縦割り清掃の組み合わせが変わった後、やってきた五年生の女子が「狗谷」という名札をつけていたら驚くことくらいするというものだ。
「何でしょうか」
あからさまに嫌な顔をされたのに、怒るでも無く嫌な顔を返してくるでもなく、彼女はただ無表情のままにこちらに問いかけてくる。
大人っぽい物腰の狗谷に、剣は腰を抜かしそうなくらいに驚いた。なんだか子供に見えないのだ。まるでドラマで見る強盗犯を相手にしている時のようなプレッシャーを感じる。蛇に睨まれた蛙とはこういうことか、とついさっき終えてきた国語の授業を思い出しつつ、剣はどうにか箒を彼女に手渡した。
「おれたちの掃除場所は体育館。お前は舞台の上と舞台袖の掃き掃除な」
「分かりました。」
剣から箒を受け取った狗谷はくるりと振り返ると、赤みがかった黒髪をふんわりとなびかせて歩き出す。まるでスロー再生されたかのように、その仕草が脳内に焼き付いていくのを感じる。
箒を片手に狗谷が行ってしまうと、剣は知らず知らず止めていたらしい息をほうっと吐き出した。まるで床に寝転がって布団を大量に乗せられたような息苦しさだった。どうして子供からそんなプレッシャーを感じるのか。他の同級生には分からずとも、剣には1つだけ想像することができた。
彼女は妖怪なのではないだろうか?
剣はそんなことを考えながら、モップを両手でぐっと握ると、体育館の片隅から駈け出した。時折水でも落ちているのかスピードが出せずイライラしながら走っていると、舞台の上で掃き掃除をしている狗谷の姿が嫌でも目に入る。
彼女は時折ぱくぱくと口を動かしていて、何か暗記の宿題でもしているかのようだった。
「駄目だよ。学校でそんなことしたら、怒られちゃう。別に人間なんてどうでもいいけど、自分から嫌われにいくなんて面倒」
何を言っているんだ、こいつは。
五年生の教科書にそんな内容なかったぞ?と無いと自覚している頭をフル回転させるも、狗谷が何でそんなことを言っているのか理解することは出来なかった。
剣の理解を超えた行動をする後輩は、次の掃除の時にも同じようにごにょごにょと口を動かしていた。廊下ですれ違ったときには右斜め上を見上げて穏やかに微笑んでいた。本当に彼女の行動は謎だらけだ。
気にしていれば廊下ですれ違ったことにもよく気づくもので、彼女との遭遇率はそれなりに高い。もちろん、剣のいる6年生が校舎の1階に教室があり、登下校する生徒がよく見えるということもあるだろう。
「あのね、常磐。今日は蓮根でキンピラ作りたいの。スーパー寄って帰ってもいいかな?」
「大丈夫だよ、私は常磐と一緒なのが一番うれしいから、人間にどう思われようと構わない。」
「え?しょうがないなぁ…じゃぁ今週末はお仕事入れないようにするね。常磐と一緒に居ようかな」
剣が約2週間に及ぶ観察を行った結果、分かったことがある。やはり彼女は自分が人間でないように振る舞うことと、何やら他の人には見えない人物と会話をしているということだ。正直なところ剣自身も「何でアイツを観察しているんだ」と立ちくらみを起こしそうになったこともあった。
剣はあの狗谷とういう少女が何を考えて行動しているのか気にしながら帰宅し、ランドセルを重たく感じながら家の扉を開いた。
「ただいまー」
まだ両親は帰っていないようで、返事はない。靴を脱ぎ散らかしてキッチンへ入ると、冷蔵庫に「おやつ食べてね」と母親の字でメモが貼られている。冷蔵庫を開けると手作りらしいプリンが入っていた。
弟の徹が帰ってきてから一緒に食べようかと一度扉を閉め、子供部屋へとランドセルを置きに向かう。
にゃあ
足元で飼い猫が鳴いた。
「ただいま、カイリ」
「あんた、良くない匂いがする」
剣は20cm程床から飛び上がったのではないかという程に驚き、飼い猫のカイリから距離をとった。今、確かに、カイリが喋ったのだ。
カイリは優雅に毛づくろいをはじめてしまい、剣は恐る恐るカイリに近づいた。
「剣、あんた誰に関わってるんだい?」
「喋った」
「そりゃ、私くらいの猫になれば喋れるさ」
「まじか」
「結構まじ」
カイリは丹念な毛づくろいを終わらせると、にゃあと1つ鳴いてこちらへと寄ってきた。剣が小さい頃からずっと飼っている猫だ。特に怖いとは感じられない。
「私は海里。梔子の家がずっと住まわせてくれてる猫又ってやつさ」
「猫又?」
「そうだよ。あんたが友達を家に呼んだ時、私はいつも隠れなくちゃならない。見る力のない子供には見えないからね」
「父さんや母さんは?見えてるのか?」
「見えてるよ、あんたの父親である重蔵はね。母親は力がないようで見えないらしいが…私が住んでることに反対はしてない」
剣はぱちくりとまばたきをすると、いつものように海里の喉を撫でてやった。ぐるぐると心地よさそうにする海里の様子はいつもと変わらず、猫又だと言われても正直実感は沸かない。けれど確かに今、彼女はしゃべっていた。
そもそも、猫又とはなんだっただろうか。剣は必死に夏場にやっていた怪談話を思い出した。山に住んでいる二本の尻尾を持つ猫だとか、飼い猫が長生きして尻尾が増えるだとか、確かそんなことを言っていた気がする。つまり海里は、飼い猫が長生きしたから猫又なのだろうか?
「で、あんたはここ最近、嫌な匂いをさせて帰ってくるんだけれど…一体何をしているんだい?」
「え?おれは…普通に学校行ってるだけだけど…」
「それだけじゃぁ、そんな匂いはつかないさ。最近変わったことが会ったんじゃないのかい?ここ半月くらいで、転校生が来ただとか仲良くする友達が増えただとか。あとはそうだねぇ、捨て猫の世話をはじめたとかっ!!私以外の猫に手を出すとはなんと不埒な行為!」
「え、ごめんなさい!!」
海里のきしゃーっという威嚇に思わず土下座してから、剣ははっと顔をあげた。心当たりならあるではないか。丁度半月ほど前から変わったことが。
「そうだ、2週間くらい前から、学校で知り合った奴が居る」
「知り合った?」
「そう、狗谷ミヤっていう…」
狗谷という名前を出した途端、海里の毛並みはぶわりと逆だった。
何かまずいことを言ってしまったらしい。剣が焦った時には既に手遅れで、海里は苛立たしげに柔らかな肉球を床にたたきつけた。ペチペチと可愛らしい音がしているものの、海里の剣幕は本気で怒った時の父親を連想させた。
「よりによって!!あの狗谷!?信じられません!!剣!いいですか、今すぐ縁を切りなさい!」
「え?なんで…どうしてですか」
思わず敬語で言い返せば、床を叩いていた肉球がばしりと剣の太ももを叩いた。
「狗谷という家の恐ろしさをあんたは知らないからそんなことが言えるのさ!まして今生きている狗谷の人間といえば、あの常磐を連れてる娘っ子!あーおぞましい!」
「ときわ?」
「そう!あの忌まわしき犬っころ!」
海里がもう一度床をペシペシしようとしたところで、ガチャリと玄関が開いた。この時間に帰ってくるということは、両親ではなく弟の方だろう。剣は海里のことをそのままにはしておけないと意味もなく両手をぱたぱたと動かした。
案の定、子供部屋の前に座り込んでいた剣の元へ、茶色いランドセルを背負った徹がやってきた。剣と海里を交互に見やると不思議そうな顔で小首を傾げ、それから海里の顎をそっとなでた。
「海里ちゃん、兄ちゃんとお話したん?」
「あぁ、そうさ。こいつがあんまり鈍いものだから…」
徹はあろうことか海里がしゃべることに驚きもせず、昔から知っていましたというふうに会話を楽しんでいる。
「最近言ってた、変な匂いの話したん?」
「狗谷っていう家があるんだけどね、あの家は代々呪術師なんだ。祓い屋は私達妖かしと手を組んで悪霊を追い払うけど、あいつら呪術師は妖かしを道具にしか思っちゃいない。その呪術師一族を束ねるのが狗谷の家ってわけさ。」
あーやだやだ。と可愛らしい手を左右に振ってみせる海里に、徹はくすっと笑った。剣はなんだか一人置いて行かれたような気持ちで二人を見つめるしかなかった。弟である徹とも海里ともずっとまえから家族であるはずなのに、どうしてか疎外感があったのだ。
そして、あの狗谷という少女がことあるごとに「ときわ」という単語を言っていたなぁと思い出しながら、どこか遠くに海里の声を聞いていた。
「何はともあれ、狗谷なんかに近づかないことだよ」
ずる。ずるる。
ずるずるずるずる、ずる。
赤黒いそれを引きずって、その妖かしは歩いていた。
妖かしが通った後には乾きかけたそれから血が滴り、目印のように地面に線を引いている。通りすがりの子どもたちが、妖かしの身体を突き抜けていった。妖かしは人間には見えない、喋れない。
『ほしい。ほしい。…おれ、ひとり。あの子、ほしい』
つぶやいた妖かしの言葉は、誰にも拾われることはなく静かに路地に消えていった。
翌週。剣はいつもどおりに登校すると、赤いランドセルを背負った見慣れた姿を発見した。狗谷だ。先日の海里の言葉が蘇って、剣は慌てて歩調を遅くした。関わってはいけない。そう言うのは海里だけではなく、海里が言うのだから従ったほうが良いと徹までもが言うのだ。
剣がそう思いながら見つめていると、くるりと狗谷が振り向いた。通学路に人は少ないとはいえ、敏感に人間の存在を察知したというのだろうか。
「おはようございます。」
「お、おっす」
狗谷は剣に小さく挨拶をすると、その場に立ち止まったまま剣を--剣の背後をじっと見つめはじめた。そして手のひらをこちらに向けて腕を伸ばすと、小さく何かつぶやいた。
途端、何か剣の後ろで空気がはじけたような衝撃があった。背中から音もなく空気に押し出されるような感覚があり、すこしだけつんのめる。
驚いて後ろを振り返るも、特に何があったわけでもない。ただ遠く後ろの方から同じ小学校の子供が歩いてくるだけだ。
「お前、何したんだ?」
「さぁ。なんでしょう」
無表情にそれだけ言った狗谷は、いつものように斜め上に向かって話しかけながら学校へと歩き始めた。
ずるずる
ふと、何かが聞こえた気がした。ゆっくりと狗谷が振り返る。
その目はこの2週間で見たことがないほどに輝いていて、まで徹がはじめて母親からお使いを言い渡された時のような顔だった。役目を与えられて喜んでいる顔だ。
「だから、言ったでしょ?私と、常磐の邪魔をしないでって。」
狗谷はまたもや剣の背後に目を向けると、ポケットを探って一枚の紙切れを取り出した。墨字のようなもので漢字とも外国語とも分からないものが書き綴られたそれを、狗谷はきゅっと握っている。
「え?だってそうでしょう。この街は私と常磐が守ると決めた場所。そこで悪事を働くんだもの、消滅させたっていいのに、今まで随分猶予をあげたじゃない。でも今日で終わり。」
「ミヤ、あまり時間をかけるな。遅刻するぞ」
いつも狗谷が見上げているあたりから、男性の低い声がした。剣がそこへ目線を投げれば、うっすらながら「何か」が居ることだけが分かった。常磐だ。意味もなくそう感じた。
ふとその名前で、狗谷に近づくなと言っていた海里の言葉が思い出され、慌てて周囲を見回した。走って学校まで行ってしまおうと思い立ったのだが、周囲はなにかオカシイ。いつもと色合いが違うのだ。古びた写真の中にいるような、昔のビデオテープを見ているような、そんな加工が視界にされているようで世界が鮮明に見えないのだ。
「なんだ…これ」
「俺が張っている結界の中だ。少年、しばし待て。結界の外にお前のお守りも来ているようだから安心しろ」
「海里が!?」
問いには応えず、狗谷はそっと手にしていた紙切れを持ち上げた。
「夜芸速(やぎはや)の 十拳剣(とつかのつるぎ) 此れ火産霊(ほむすび)と成り」
途端、目に痛いほど真っ赤な何かが視界を覆った。暗記用の赤いシートを被せたような視界は一瞬で元の古びた視界に戻り、その時には既に剣の背後で轟々と炎があがっていた。
何が起きたのか全く理解は出来なかったが、兎にも角にも狗谷がこの炎を発生させたことだけは分かった。その炎が何か剣には見えないものを焼きつくす様子をじっと見つめていると、徐々に視界は見慣れたものへと戻っていった。
「迦具土之命(かぐつちのかみ)の力を借りれるとは…なかなか恐ろしい娘っ子に育ったじゃないか。常磐、相変わらず気持ち悪い」
「海里ちゃん、あんまり怖いこと言わんといた方がええよ?一応兄ちゃんのこと、守ってくれたんやし…」
炎が消えた向こう側には、徹と徹に抱かれた海里が居た。二人とも今の様子は見えていたのか、驚いたり不思議がったりしている様子はない。
「ガキの言うとおりだ。うるさいぞ、ちびモフモフ。梔子の家の人間が大切なら、もう少しちゃんと行動しろ。あの程度の妖かしならば、お前一人で消せただろう」
「お生憎様。私は身内を斬るなんてことはしない主義なんで。剣を食べれるほど、いまの妖かしは強くなかっただろう?」
「それはミヤが時折、警告と称して霊力を吸い上げていたからだ。それがなければこんな小僧、一飲みだ」
海里とやりとりしている声がする方へ視線を戻すも、剣にはやはり何も見えない。それに気づいたらしい狗谷は、何かが居るのであろう空間で服の裾を引くようにチョイチョイと手を動かした。すると、その場に深い青色の何かが見え始め、それから白いような灰色のようなモフモフ。綺麗な緑色の瞳が認識できた時点で、そこに人が居るのだとわかった。
突如として現れた深い青色の着物を来た男性は、狗谷の頭を大切そうになでた。その様子は、なんだか剣自身が海里を撫でる時に似ていて、彼と狗谷に近づくなと言われていたことはすっかり頭から抜け落ちた。
「うるさい。呪術師ごときが祓い屋の真似事をして…」
「治安を維持しているだけ。それ以上常磐に暴言言うなら、いくら海里さんでも消し去ります」
狗谷は隣に立っていた男性----常磐と呼ばれているその人物に抱きつくと、彼の腰辺りから伸びているモフモフとした尻尾を撫でた。心地よさげに揺れる尻尾と、よくよく見てみれば常磐と呼ばれる彼の頭には、ひょこっと耳が生えている。もちろん人間のような耳、という意味ではなく、犬や狼のようなそれだ。
ふわふわと揺れるその白灰色の毛に、剣は改めて自分の目を疑った。
「え、犬?」
「はい、常磐は私に憑いている狗神です。わんこです」
「おいミヤ、俺は決して犬ころではな
「おすわり」
「わん」
「………」
剣は目の前で男性に「お座り」をさせてみせた年下の少女、狗谷ミヤを見て盛大なため息を付くとともに、厄介なことに巻き込まれてしまったのだろうということを認識した。これから先のことを見通す力などは生憎と持ち合わせていないが、それでも「面倒だ」ということだけははっきりとわかった。
終。
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