風間木賊は人生で二度目の困惑というものをしていた。一度目は言わずもがな、絢音と樹音の拉致依頼から結婚に至った時だ。あの時は後にも先にもこんな衝撃は一度きりだろうと思っていにも関わらず、今こうしてぽかんと口を半開きにしてしまいそうな事態に陥っている。人生には上り下りの坂のみならず、「まさか」というものがあるとは正にこのことである。
「待て、今……なんと…」
「何度でも言いますわよ、絢音様がおめでたです。」
【 仮想大江戸 お伽話 親世代編03「錚々たる一族」 】
身体は男、心は女という医者は絢音の布団を挟んで木賊の反対側に座っており、にこにこと穏やかに微笑んで言い放った。
「産まれるのは、来年の初夏でしょうな。妊婦には辛い時期を冬に迎えるのですから、旦那であり父である若君が支えるのですよ」
季節は秋も終わりに近づき、絢音との散歩も寒さで中断することがあるくらいだ。錦の双子の更に下の子や、それと同じくらいの幼い子供たちは枯れ葉を踏みつけてはパリパリという音を楽しんでいる。大人たちも落葉を掃除するついでに焼き芋やらなにやらと、季節の行事を楽しんでいるだろう。
木賊も仕事着を少し暖かいものに変えたし、絢音も他のくノ一と同じような格好でいることはなくなった。少し前にあった錦双子の弟が怪我をした任務の時には焦ったが、お腹の子が無事だったというのは喜ぶべきことのはずだ。
しかしながら、木賊としてはまさか自分が父になるとは、これぞ「まさか」から転がり落ちるような思いだ。
「ちょうど長としてお父上の後を継がれるうえに、跡取りが産まれるかもしれない。いやぁ、これはおめでたいことですわ!」
「あぁ……ありがとう、礼を言おう」
今日はちょうど木賊も仕事の依頼が入っておらず、いつも以上に気合を入れて昼食を作るのだと張り切っていた絢音は、昼前に台所で倒れてしまった。朝から多少顔色が良くないとは思っていたが、まさか体調不良の原因がこれとは。木賊が手伝いを申し出ようとしたその目の前で突如倒れた時は何事かと思ったが、今の絢音は二人の会話もどこ吹く風ですやすやと眠っている。
いつぞや、錦双子の父親と共に任務にあたった時には、「嫁や子供が元気で家に居てくれるから仕事ができる。必ず生きて戻ろうという気になる」のだと言っていたが、まさにその通りだ。万が一にも今日何か任務の依頼があったとしても、絢音が倒れた原因が分からないままで家を出れたかと聞かれれば、答えに困ってしまう。困窮するということも、絢音がこの家にやってきてから知ったことだ。
いつの間にやら木賊の父であり、明日明後日にも「先代」となるであろう風魔小太郎とも良い関係を築き、里の人間にも溶け込んでいる。絢音が行った努力は推し量ることしかできないが、木賊は今の里の状態が好きだと思えた。絢音が来たことで変化しつつある里の状況が、とても素晴らしいものだと思えた。
もちろん、良いことだと思う木賊のような人間が居ると同時に、先日絢音を蹴り飛ばした男性たちのような変化を受け入れられない人間も居ることはわかりきっている。それをどうにか収束させるのが長となる者の責務であろう。木賊自身の行動によって絢音が暮らしやすくなるのなら、それはとても嬉しいことだ。
「若、まるで里の人間じゃないみたいよ、その顔」
医者の穏やかな声に、木賊は慌てて顔を引き締めた。
「あっはは!そうやって笑顔になったり焦ったり。最初は他所の人間を嫁にするなんて言うから、私たちは一体どうなることやらって思ってたのよ。どうせ上手くいくはずがないってね。」
「…この里の人間であれば、当然の反応だろうな」
「でも、誤解だったみたいね。絢音様、他所の女性たちになんて呼ばれてるか聞きました?お嬢ですって!そりゃもともと良いとこのお嬢様なんだから、立ち振舞が優雅だったりするのは分かるの。でもそれだけじゃお嬢だなんて呼び方にはならないでしょう?」
医者はまるで自分のことのように嬉しそうな顔をして、絢音の方へと視線を落とした。倒れた時よりも幾分は楽そうな顔になった絢音は、これだけ近くで話していても目覚める気配はない。
「きっと、彼女なりに色んな場所で色んな人と話をして、里の内外の違いを否定するんじゃなくて、受け入れて楽しんでいたのね。そして問われれば里の外のことを嫌味にならないように教えるだけの能力もあった。私も実際に、パウンドケーキの作り方を教わったりして。」
「そんなことまでしていたのか。」
「そうよ。若に心配かけまいとして、あまりその日あったことを話そうとしないのかもしれないけど、絢音様は色んなことをしてた。家事で手が離せない母親が多いと知れば、自分がいち早く家事を終えて子どもたちの面倒を見る。それが外では当たり前だったから、って。自分も子供が産まれたら近所の子供たちに遊んでもらいたいから、お互い様なんですって。……だからね、若」
穏やかだった表情のままでこちらを見た医者は、すっと目を細めて言った。
「絢音様は、きっと若が思っている以上に若のことを思っている。あなたのために里に馴染もうとしてる。本当は本人の口から聞くべきなのでしょうけど、絢音様は所謂ツンデレってやつだから」
「ツンデレ?異国の文化か?」
「目覚めたら聞いてみたら良いわ、『お前はツンデレなのか?』って」
妙に楽しそうに笑いながら鎮痛剤と魔除けの呪いを置くと、医者はいつもどおりお金は要らないのだと言って去っていった。後は手伝いに来ている家の者が、必要ならば何か手渡すだろう。
木賊は絢音の頭をそっと撫でると、せっかくの休日なのだから側に居ようと布団に潜り込んで横になった。無意識なのか軽くこちらを向いた絢音の顔から前髪を退ける。まるで里の外の人間のようだと思いながら、木賊は目を閉じた。
◇ ◇ ◇
絢音はその冬、特に体調を崩すこともなく順調に大きくなっていくお腹を嬉しく思いながら過ごした。医者には身体を鍛えていて良かったと言われ、その時はじめて無理に薙刀やら体術を習わせていた両親に感謝した。樹音と比較されながらも続けた甲斐があったようだ。
更に、絢音が安定期に入ったからということで、木賊が正式に風魔小太郎を襲名した。絢音は大きくなってきたお腹のことを考えて儀式には参列しなかったが、後から聞いた話では「一族の人間以外が出る行事ではない」と錦双子が言われたそうで、夫の晴れ舞台を拝めなかったのは残念だが胎教には良かったのかもしれない。
春になるころには既に家事をこなすことは難しく、そこは気を利かせた錦双子とその母親が何かと世話をやきにきてくれた。木賊の母が既に居ないということもあってか、もともと里の女性たちは「跡取りの世話ができる!」と意気込んでいたようだ。
子供の存在によってより里の女性たちに馴染んだ頃、ちょうど新緑も青々と茂り空には時折小さな入道雲が浮かぶ初夏。絢音がはじめて抱いた自分の子供は男の子だった。
「名前をお聞かせください!こう見えて書道が得意ですので、ぜひ一枚書かせていただきたいのです!」
「おめでとうございます、長、それに絢音様も。よろしければこちらを使ってください」
新しい長に子供が産まれたこと、しかもそれが男の子であるとなれば、例え里の中と言えども噂好きは女性の特権であることにかわりなく。瞬く間に話は広まり、任務で居ない者を除く多くの女性が我先にとお祝いを述べに来た。流石に身内にも挨拶が済んでいないうえ産後の間もない時期だからと、お祝いを置いていくだけのものがほとんどだったが、錦の双子だけは木賊が気を利かせて部屋へと招き入れてくれた。絢音もこの二人にはなかなか話す機会が無かったので嬉しく思い、身支度を簡単に整えると子供を抱いて二人を迎えた。
木賊と絢音の寝室のすぐ側にある部屋で、4人で簡単にお茶をした。絢音は相変わらず穏やかな表情をしている二人を見ると、なんだか日常が帰ってきたような気がして嬉しかった。
「お久しぶりです、絢音様」
「お子様も絢音様も、お元気そうでなによりです。」
双子は丁寧に頭を下げると、お祝いだと言って可愛らしい柄のガーゼタオルを渡してくれた。来られない母の気持ちだそうだ。
絢音はそれをありがたく受け取りつつ、双子を見て涙が零れそうになった。絢音自身も腹を蹴られ流産の恐怖からすっかり忘れていたが、任務で失敗したというあの日から双子を見分けるには十分すぎるほどの違いが生まれていた。弟の方は、あの任務で左腕の肘から先を失っていた。
「ごめんなさい、嫌なことを聞くかもしれないけれど、あなた、腕は…あの時に?」
そこではじめて、絢音は二人の下の名前を知らないことにも気づいた。こんなにも助けて貰っている相手なのに、名前すら聞いていなかった自分にも驚いた。
錦の弟は特に気にする様子もなく軽く微笑んだ。
「はい、あの日の任務で伊賀のものに。無力ぶりが目に見えてしまってお恥ずかしい限りですが、今は諜報任務を中心に行っております。」
「そうだったの…ごめんなさい、私ったら何も知らずに……」
「いえ、絢音様。長のお子を授かったのですから、他所のことに気兼ねしている場合ではなかったのです。弟のことを伝えずにいてくださった長には感謝しております。」
兄の方のセリフに木賊を見やれば、小さくすまないと言われ、絢音は何やらもどかしくてため息をついた。心遣いは嬉しいのだが、やはり蚊帳の外という感じがしてしまう。
「そうだ、今まで聞いていなかったのだけれど、二人の名前を聞いても良いかしら。今更になって申し訳ないけれど…」
「……絢音様、申し訳ございません」
「僕たちには、名乗る名前が無いのです」
双子の言葉に、絢音はしまったと思った。他所の血が混じっているという双子の家系は、何かとこの里で不便をしているはずだ。まさか名前も、とまでは予想できなかったが、予め木賊に話を聞いてから問えば良かったようだ。
絢音のそんな感情が顔に出ていたのか、双子は申し訳無さそうな顔をして続けた。
「錦の家は、元より里の外の人間です。例え里の中で生まれ育っても、風魔の人間として名前を授けることは出来ないのそうです」
「というのも、先々代の風魔小太郎であった方の発言だそうで、今後はどうなることやらといった状況ですが」
双子はちらりと木賊を見やると、すぐに視線を絢音へと戻した。それから絢音が抱いていた子供を見ると目元を緩めて言った。
「ところで、絢音様のお子様の名前は決まっているのですか?」
「里の皆には口外しませんので、お聞かせください」
「…この子は、千歳。末永く幸せに生きてほしいっていう先代様の願いと、それから木賊の名前や私の生家が色に関するものだったから、この子も色にちなんで、ね」
絢音が心苦しくなりながら言うと、双子たちは小さく「千歳」と呟いて、忘れまいとしているようだった。それからまだ綺麗な黒をしている髪の毛と、うっすら開いたところから見える青い瞳を褒め称え、風魔の人間らしからぬほど喜んでみせた。
まるで自分たちの弟か甥っ子が出来たようだと言う二人に、絢音はふと思い立った。
「木賊、筆と紙があるはずだから、取ってもらえるかしら」
きょとんとした木賊に差し出されたそれを受け取ると、絢音は樹音と共に習わされていた書道の授業を思い出しながら、出来る限り丁寧に筆を滑らせた。
「もしも、二人が良いと言ってくれるのであれば…名乗ることがあればこれを使いなさい。」
「「えっ?」」
「私は本来一色家の…二色家を含む一色一門の当主となるはずだった者。そこから外れた者同士、呼び名の候補を贈りたいのよ」
絢音がさっさと書き上げた文字を見て、双子たちは目を輝かせて身を乗り出してきた。
「二色 檜皮」「二色 朽葉」
先ほど言ったばかりなので彼らにもわかったのだろう。木賊の名前は緑色の一種だ。そして千歳も同じように緑色の和名からとっており、もちろん二人にと考えた檜皮(ひわだ)と朽葉(くちば)も同様だ。
「檜皮は、檜皮葺というものがあるように、家の屋根となるものよ。兄ならば家を継ぐことになるでしょうから、家族を守る殿方となれるように。朽葉は大地、万物を育てるもの。あなたが今やっている任務にも誇りを持てるよう、家族の地盤を支えるのはあなたの仕事よ」
二人は絢音が書いた紙を手に取ると、大事そうに持って絢音へと頭を下げた。そしてすぐに木賊を見やり、どうかこの名前を名乗らせて欲しいのだと頭を下げた。錦の家の者として名乗れずとも良いから、絢音の考えたこの名前を自分たちのものと、名乗れずとも自分たちのものとして思いたいのだと。
木賊は驚いたという顔をしていたが、すぐに穏やかな表情に戻ると二人の頭に手を載せて頷いた。
「お前たちが辛い仕打ちを受けていることは知っている。長となった以上、あれを続けさせるつもりもない。家名の文字は今までどおりのものを、名前は今絢音が書いたものを使うと良い。何か言われたら俺が言ったのだと、後ろ盾にしろ。」
「「ありがとうございます!」」
「もっとも、すぐに後ろ盾など要らぬほど成長するやもしれぬがな」
もとより木賊にも絢音にも懐いていたうえに、長としてという言葉が効いたのか、二人は嬉しそうに紙をたたむとこれまた丁寧に懐へしまいこんだ。先に立ち上がった兄に手を貸されながら弟も立ち上がると、二人は少し下がった場所でまた頭を下げた。
「長様、絢音様、本当にありがとうございます。」
「この誉れ、我が母にも伝えたく、失礼ながらこれにてお暇させていただきます」
「あぁ、気をつけて帰れ。お前たちははしゃぐと周囲が見えなくなる。良いな、檜皮、朽葉。」
「「はい!」」
双子--檜皮と朽葉はまだきらきらとした顔のままで、それでも丁寧にお礼を言うことは忘れずに去っていった。いつもは静かな足音も今だけはパタパタと聞こえてきて、恐らく帰ったら錦の母親に怒られるのだろうなと絢音は苦笑いした。
足音が聞こえなくなると、絢音は木賊へ向き直って頭を下げた。
「勝手なことをして申し訳ございません、木賊」
「構わん。錦の家のことは里に軋轢を生む。早々に俺が囲い込めばあの二人も、檜皮と朽葉も辛い思いをせずにすむだろうし、これは打算的と言われてもしょうがないが俺の株も上がる。お互い悪いことはないだろう」
先ほど双子にしたように、絢音の頭の上にも木賊の手が乗った。なんだか久々にされたような気がして、絢音は心地よくなり目を閉じた。やはり産後で疲れがとれきっていないのだろうか、頭を撫でられているうちにどんどんと眠くなってくる。
千歳もうつらうつらと船を漕ぎ始めた絢音につられて眠くなったのか、既に目を閉じて寝息をたてている。
「あまり無理をするな。体力も戻らぬうちから気を張りすぎると、体を壊すぞ」
「えぇ、そうします。今日はこれで、休ませていただきますね」
「運んでやる、じっとしていろ」
千歳ごと抱き上げられて、揺れを心地よく感じているうちに、すぐに布団の感触がやってきた。木賊が千歳を子守カゴに寝かせたのを見届けると、絢音もまた目を閉じた。「おやすみ」という声が耳元で聞こえ、穏やかな気持ちで眠りについたその夜は、不思議な夢を見たような気がした。
目覚めた時に覚えていたのは、どこか自分と似ている赤毛の少女が少し木賊に似た少年と一緒にいたことだけだた。少女の歌を穏やかな顔で聞いている少年の表情は、なんとなく檜皮と朽葉に似ているように思えた。
終。
もくじへ戻る
2015/03/30 今昔
親世代編、まだしばらく続きます。
絢音の後は樹音のお話を少し。そこから桑染と宍戸の家のお話へ……続くと良いな。
2015年3月30日月曜日
2015年3月27日金曜日
【仮想大江戸】番外編 親世代編02「純血なる一族」
風が心地よい。
絢音が暮らしていた一色一族の暮らす土地はそれなりに都会で、産業が発展してきたこのご時世では流行の最先端でもある場所だった。しかしそれに伴って川は汚れ空気は淀んでいたように思う。もちろん、各種工業を営む一色家とて対策を行っていなかったわけではないが、この風魔の里には遠く及ばないことは確かだ。
庭の端にある物干し竿にシーツやら着物やらが揺れる様子を少し眺めると、よし!と絢音は気合を入れてカゴを持つと立ち上がった。洗濯物が終わったところで、そろそろ昼食の支度にとりかからねばならない。慣れない主婦の仕事をこなすなかで良かったと思うのは、この家に姑が居ないことだろうか。口出しされるとやる気を無くす、という自分でも子供っぽいと分かる一面を持つ樹音としては、寂しい反面嬉しい気持ちもあるのだった。
【 仮想大江戸 お伽話 親世代編02「純血なる一族」 】
世間の喧騒から離れて風魔の里へと入ってから、すでに10ヶ月が経過しようとしていた。絢音は義務感こそあれ、一人の男性を相手にするのと同じように木賊と接していたし、彼もまた絢音を嫁として大切に扱ってくれていた。樹音が夢見ていたような甘く優しい新婚生活とは全く違うだろうが、絢音はこれも1つの幸せだと感じている。今では二人で少し寒くなってきた里の周りを散歩するのが楽しみだ。
風魔の忍びを率いる風魔小太郎、つまりはこの里の長である者の家は周囲より少しだけ大きく、また里の奥まった場所にあった。その反対側である里の入り口には、代々長の腹心でもある桑染という家の邸宅があり、それに挟まれるようにして数々の家が建っている。
絢音は時折やってくる風魔の一族から野菜を貰ったり、元気な子どもたちの相手をしながら次期長の新妻としての日々を過ごしていた。樹音だけを家に戻したことは後悔していない。むしろ、この里の若者たちが「己の鍛錬のためでもある」と入念に護衛をしてくれている。
不満なことがあるとすれば、里の者は感情が希薄で、女性よりも男性の方がそれが顕著だということだ。
「ごめんください」
台所で昼餉の用意をはじめたところで、玄関から声がかかった。絢音は一旦鍋の火を弱めると、エプロンを外しながら玄関へ駆ける。最近は少し体調が悪いのか、走ろうとするとめまいがする。それでも、留守を預かる嫁として妻として、そんな義務感で足を動かした。
「はーい、ただいま」
叫び返しながら玄関を覗くと、見覚えの無い青年が立っていた。風魔独特の白髪に灰色の瞳。両腕で1つの米俵を抱えており、細い腕なのにどこからあんな力が出るのか不思議でならない。
青年は風魔一族の成人の儀を終えているはずなのに、それにしては豊かな表情をこちらへ向けた。軽く口角があがり、目が細まる。
「こんにちは、奥様。僕は錦の家のものです、母に言われてこれを届けに参りました。」
「あら、ありがとうございます。夫にもしかと伝えますと、お母様にお伝え下さいね」
「はい。お昼時に申し訳ないです」
「良いのよ、どうせ任務で遅いのだろうから…あ、そうだ。良かったら金平糖を持って行ってくださらない?私の実家が送ってくれたのだけれど、どうにも量が多くって」
「よろしいのですか!ありがとうございます」
錦の家の者だと名乗った青年は嬉しそうに笑うと、絢音が玄関先に小分けにしておいておいた金平糖を受け取ってじっくりと眺めた。この里では外との交流が少ないためか、こうしたお菓子や若者が好むようなものが少ない。初めて見たとつぶやく青年に、絢音はまた無くなったらお出でというと、それこそ昼時に他所の子を引き止められないなと慌てて帰るように促した。
その日はどうにも錦という子のことが気になった。絢音と同い年くらいの人間は、誰もが無表情が標準装備されている。風魔の人間として任務をこなすということは、当然人も殺すことになるだろうし、感情が希薄になるのは分かる。木賊(とくさ)からも成人として認められるのは感情を殺す術を得たものだけだと聞いたことがある。
そんなとりとめもないことを考えながら義父と共に食事をし、家事をこなしているうちに一日はあっという間に終わってしまった。代わり映えしない一日で終わるはずだったのに、布団へ入ってもまだ錦のことは頭から離れなかった。
こんなことでは同じ布団で寝るようになった木賊に申し訳ないと思う。仕事を終えて帰宅した旦那に食事を出し、風呂を用意し、そして床での安らぎを与えるのが妻の努めだ。絢音の心が他所を向いていることなんて、木賊はすぐに気づいてしまうだろう。
風呂あがりの木賊が寝室へ来るのを待っている間に先日贈られた櫛で髪を梳いていると、背後の障子が静かに開かれた。気配を読もうとしなくとも、屋敷のこの部屋に入れるのは木賊と絢音だけだ。
「さっそく使っているのか」
「ええ、木賊からの頂きものですもの。大切に使わなくては」
そう返されたのがお気に召したのか、木賊は座っていた絢音を後ろから抱えるように腰を下ろした。絢音も櫛を枕元へ置くと、木賊の胸元へと背もたれる。
「今日、錦の家の者だという男の子がお米を持ってきてくださったの」
「……錦の家がか。もしや、妙に笑う男か?」
「あら、ご存知なの?」
どんな子がとも言っていないのにあの子のことだろうと思われる発言をした木賊に、絢音は複雑な気持ちになった。やはり、あのように表情豊かであることは里では異端児なのだろうか。
「錦の家には双子が居る。兄は仕事の出来る奴だが、弟の方はてんで出来ない。弟は人殺しよりも小鳥や草花を愛でる方が向いている」
「…えぇ、そういう穏やかなことが似合う子でしたわ。金平糖をさし上げたのですけれど、とても喜んでくれて。あんな子も里に居るのだと…少し驚きました」
「珍しいことではある。人を殺せない忍びなど、なんの役に立てようか。」
そういう木賊はどこか寂しそうで、絢音を抱いていた腕にも少しだけ力が入ったように思う。確かに感情が読みにくい相手ではあるけれど、しっかりと側に居れば気持ちも汲み取れるようになる。錦ももしかしたら、里の中でイレギュラーだったとしても、いつか理解してくれる相手が現れるかもしれない。
絢音は錦のことを考えるうち、自分が木賊の拠り所にならなくては、いやなりたいのだ。と強く思った。木賊の方へ向き直ると首に腕を回し、自分の体重を使って布団へ横になる。そのまま頭を撫でながら小さな声で子守唄を歌ってみることにした。
「 ゆりかごのうたを かなりやが歌うよ 」
絢音は自分の背中に回された腕に自分も眠気を感じながら、自分の意識が途絶えるまで知っている限りの子守唄を歌い続けた。様々な重圧を感じるであろう一族の跡取りが、少しでも安らかに眠れるように、と。
翌朝、いつもより機嫌の良さそうな木賊を見送りに自宅の門まで出て行くと、今日の仕事に同行するらしい里の忍びたちが何人かやってきていた。皆一様に口を覆う布をつけているが、一人だけ太陽の光を目一杯反射するような灰色の瞳を見つけ、絢音は思わず小さく声をあげてしまった。
錦もまた絢音が出てきていることには気づいていたようで、小さく目礼をしてくれる。顔をあげたところでにっこりと微笑めば、あちらも目が細まり微笑んでくれたようだ。
「絢音、今日は一色家の護衛に入る」
「あら、そうですか。」
「詳細は聞かぬのか?」
「既に風間に嫁いだ身ですもの。生家は確かに心配ですけれど、木賊が向かうのでしたら心配はありませんわ」
「…そうか。嘉萩家との会食の護衛になる。早々に戻るはずだ」
「えぇ、家のことはお任せください。」
1つ頷いた木賊たちが里の外へと向かうのを見送るうち、絢音は少しだけ違和感を感じた。何がとは言えない程度のもので、わざわざ引き止めるのも気が引けたので絢音は今日も洗濯物から終わらせなくてはと自宅へと戻った。
いつもと同じように家事をこなすうち、日が暮れて夕食の支度でも始めようかという頃になってからだった。全身が静電気をもらったかのようにビリリとしびれたのだ。菜箸が床に転がった音で我に帰ると、絢音は変なこともあるものだと首をかしげた。菜箸を綺麗に洗って別の菜箸で料理を再開すると、今度は家の外から悲鳴やら何やらが聞こえてきた。
煮物も味が整ったので火を止めると、絢音はエプロンを外して家の外を覗いてみた。誰かが任務で怪我をしたとしても騒ぎになんてならないだろうし、そもそも騒ぎになったとしてもこんな里の奥まで喧騒が届くことはありえない。
では一体何が?という不安でソワソワとする手のひらにぎゅっと爪を立てて門の外まで小走りにでていくと、ちょうど木賊が戻ってきたところだった。一緒に任務に出ていた者も居るようで、更にその身内と思われる者も集まってきている。
「木賊!」
「絢音、近寄るな。血がつく」
言われて見てみれば、木賊は血まみれの何かを抱えていた。その何かが小さく震えたかと思うと灰色の何かが見え、少ししてからそれが目だと分かった。
灰色の瞳に気づいた途端、抱えられているのが人間で、その左足が無いこと、両腕が力なく垂れていることに気づいてしまい、絢音は口元へ手を持っていった。気持ち悪いわけではない、ただ驚いた。
「錦の家か!!これだから余所者は良くないと言っている!!」
しわがれた声で叫ぶ男性に、周囲に居た人間は一斉に黙り込んだ。
静かになった広場に、木賊たちがやってきた方、里の入り口の方から一人の青年が歩いてきた。錦にそっくりなその青年は舗装されていない里の道で足音を立てることもなく、しずしずと歩いている。その青年に気づいていないのか、叫んだ男性は更に続けた。
「錦の小僧はいつか問題を起こすと思っていた!見てみろ!若と一緒の任務で不祥事とは情けない!里の恥さらしが!!」
「弟がご迷惑をお掛けいたしました」
そこで初めて錦のそっくりさんに気づいたらしい男性は、目を見開いて彼を見た。恐らく今やってきた静かな彼が錦の双子の兄なのだろう。
「ですがどうか、曾祖母を悪く言うのは辞めていただきたい」
「はっ!誰が余所者の言うことなど聞き入れるものか!里の端に家を追いやられた意味を考えろ、愚か者め。最近じゃ余所者同士でつるんでるらしいじゃないか。まんまと長の家にもぐりこんだ雌狐と手を組んで、里を壊すつもりなのだろうに」
ジトッとした男の目線が、絢音を貫いた。
衝撃を受けるはずもない。絢音はふんと鼻で男性を笑うと、つかつかと歩みよった。自分の一族を守るという目的を果たすためにこの里へ嫁いだのだ。雌狐だなんだと悪く言われることなど百も承知でここへ来たのだ。
「木賊、錦の弟くんが助かる見込みは?」
「ある」
「じゃぁ早く運んであげてちょうだいな」
背後で木賊が部下に錦を預けたのを見届けると、絢音は絢音や錦を余所者と言い放った男性を見据えた。こちらが臨戦態勢なのを察しているのか、あちらもだいぶ構えている。しかし絢音は警戒されているという事実を誇らしく感じた。相手が自分を警戒しているのは、己に危害を及ぼす可能性があると認められているからだ。
その通りにしてくれよう、とニィっと口の端を持ち上げた。
「どうも、余所者の新妻ですわ」
「自覚があるようでなによりだな」
「あなたは自分が老害であるという自覚がないようですわね、名も知らぬお方」
背後で絢音と井戸端会議を繰り広げる奥様たちがくすくすと笑ったのが聞こえた。
「で?錦の家の何が気に食わないのかしら」
「雌狐め、貴様は知らぬやもしれぬが、この一族は他所の血を入れぬ純血を保ってきた。それが誇りだ」
「それで数が少ないという、ホコリやチリみたいな因習ですわね。存じておりますわ」
「黙れ!錦の家は4代前に外からの捕虜との間に子供を作った。その末裔があの双子だ。他所の血をもった、しかも畜生腹の子どもたちだ。里に良い影響を与えるはずがなかろう!」
全くその通りだ!と言いたげに頷いた男性が何人か居るのを見て、絢音は盛大にため息をついた。絢音はそれだけで済ませることが出来たものの、背後に何人か居る女性たちからは怒りの雰囲気すら感じる。元より捕虜の女性に子供を産ませるなど、いくら忍びとはいえ女性が受け入れられるはずもない。
まして徳川が世を治めていたような時代ならいざしらず、今どき女性だというだけで地獄へ落ちるだなんて信じている者もごくごく少数だ。絢音とてこのご時世に双子を貶めるような言い方をする人間が居るとは今この耳で聞くまで信じられなかったほどである。この里の女性たちが怒るのもしょうがないだろう。
「貴様もあの双子とは親戚になるのだろうな、なにせ二色の家のものを捕虜にしたのだから」
「あぁ、私の生家の親戚ですか。それは教えて頂いてどうもありがとうございます。今度からあの双子にもお菓子をお裾分けしなくては」
「畜生腹の次は雌狐!!しかもとんだ淫乱だな!身内が辱められて動じもしないとは!」
「あら、だって…わたくし既に風間の家の人間ですもの。あまり生家…しかも遠縁にこだわるだなんて、嫁として恥ずかしいですわ」
「余所者の分際で若の嫁と名乗るのか!跡取りも埋めぬような出来損ないが!!」
自分もだいぶ古めかしいことを言っている自覚はあったが、絢音はゆったりと歩み寄ると男性の首を片手で掴むとグッと腕を上へと伸ばした。思ったよりも簡単に首を絞めることに成功して驚いたと同時に、どんどんと口が軽くなっていく。
「随分と古めかしい考え方をされているのですね、名も知らぬお方。わたくしの生家も、わたくし自身のことも、好きに貶すが良い。ですが、それ相応の復讐はさせていただきますわよ」
「このアマァ!!」
絢音が持ち上げた男性と同意見らしい別の男性がこちらへクナイを振りかざし駆けて来たのを見て、妙に冷静に腕を下ろした。慌てて刃物を引っ込めた相手の上に男性を落とすと、更に後ろから危害を加えようとやってきた男性の蹴りをしゃがんで回避し、足の付根を蹴りあげて転ばせる。背後から寄ってきた男に蹴りを入れて女性陣の方へ跳ね返せば、その男はくノ一として一線で活躍していた彼女たちに袋叩きにされている。
寄ってくる人間は全て相手になってやる。余所者だからと、女だからと舐められるわけにはいかないのだ。絢音は殴ろうとした相手の手を掴み、別の相手の刃物を受け止めるとその両方を利き足で蹴飛ばした。
妙に体が軽い。先日からの体調不良が嘘のようにさらにもう一人を殴って沈めると、どうしてもがら空きになってしまっていた下腹部に衝撃を感じた。
「ハハッ、見ろよ…血なんて吐いてるぞ。汚ねぇな、土地を余所者の血で汚す気かよ!」
絢音の腹を蹴りとばした男性に言われて口元へ手を持っていけば、ぬるりと生ぬるい液体が付着した。べとっと地面へ垂れるそれを目で追うと、口からだけでなく、どうやら下腹部からも血が出ているらしい。月のめぐりで出るようなどす黒い色の血ではなく、口からも下腹部からも鮮血が垂れていた。
腹を蹴った男と他数人は下衆な笑いをあげていたが、女性たちと一部の男性からはため息とも何ともつかない悲鳴のようななにかがあがった。
「アンタたち、お嬢になんてことするの!」
「長、制裁の許可をください!!あんな連中、風魔の男じゃありません!」
そう叫ぶ女性の声がどこか遠くに聞こえた。
そういえば、来ても良いはずの月のものはきていない。元より定期的ではない方だとはいえ、今回はあまりにも遅い。ここのところ体調も悪かった。
あぁ、何故気付かなかったのだろう。あぁ、自分はなんてことをしてしまったのだろう。絢音とて一族の頂点にたつ家系へ生まれた身、跡取りの重要性はよくよく分かっているというのに。自分が迂闊すぎたのだ。失敗した。これは妻として、嫁として、あるまじき姿だ。
ごめんなさい。
そう口が勝手に動いたのは分かったが、耳に届いたのはかすかに唇をこすった空気の音だけだった。
後頭部がじんじんと痛くなり、手のひらはうまく動かない。呼吸も自覚できるほどに浅くなり、思考は働かない。
なによりも、嫁いだ身、人質としても身でありながらというよりも、木賊と居たかもしれないお腹の子への罪悪感で涙も出ない。
「騒ぐな」
木賊の低い声に、周囲が一層静まった。
歩み寄ってきた木賊に抱きしめられ、少しだけ呼吸は楽になったが、それでもまだまともに話すことはできなさそうだ。
「絢音について思うところがある者も多いだろう。他所の血を入れるのかと、風魔の誇りはどうなるのだと。俺はそんなことはどうでもよい。」
「若!何をおっしゃるか!!」
「問題は、血族として近すぎる者どうしが子をなすことで、より体の弱いものが増えたことだ。それを説明し、長の許可も得た上で俺は絢音を迎えた。気が済まぬという者は絢音と対戦し、全員敗れて納得したと思っていたが?」
木賊が周囲を見回すと、絢音に手をあげようとしていた男性たちは気まずそうに顔をそむけたり、逆に文句があると言いたげにこちらを見返したりしている。
「それでもまだ納得できないという者を治められないのは俺の責任だ。彼女に手あげるのは間違っているし、里の女衆に制裁を加えさせるわけにもいかぬ。文句があれば俺にけしかけろ。正面からでもそうでなくとも構わない。ただ、これ以上自分の妻を貶されて黙っていられるほど、俺は馬鹿でもなければ無頓着でもない」
今度こそ、絢音は堪え切れずに木賊の胸元へ縋り付いた。次期当主の嫁たる自分が人前で弱みを見せるなどあってはならない。そう思い続けていたのに、過呼吸になるほどの涙は押さえつけられなかった。
そのままボンヤリとしてきた頭で把握できたのは、背後から錦の兄が飛び出してきて、絢音の腹を蹴った男の顎下へ、膝を入れたことだけだった。
◇ ◇ ◇
錦の片割れが男を沈めた途端、女性陣から拍手が巻き起こった。本当はこんな大袈裟なことにはしたくなかったのだが、どこかこうして人前で絢音を庇えたことはとても意味があるように思える。木賊は泣きつかれたのか気を失った絢音を抱き上げると、周囲の女性たちを見渡した。
誰もがスッキリしたような笑顔を浮かべつつも、口々に絢音を心配するような声をかけてくる。いつの間に里に馴染んだのか不思議であると同時、共に過ごす季節も3つ目ともなればこのくらいなのだろうかとも思える。
「若!お嬢の体が最優先です!」
「早くお医者様に見せなくてどうするのですか!」
「お嬢はずっと、若のお子を産むのだと意気込んで…いえ、喜んでいらっしゃったのに!最近はお体が辛そうなのに無理して家事もこなして…」
「錦の子のことも、身内と知らずに優しく接していたのですよ。なんて優しい子!まだこんなに若いのに!」
口々に言う女衆に謝罪と礼を返していると、錦の兄がこちらへとやってきた。どうやら女性たちが引くのを待っているようだったので視線を投げれば、気を利かせた女性たちが騒いだ男たちの制裁に向かったため、錦は苦笑いしてよってきた。
こうして見ると、弟とよく似ている上に、風魔という一族の中ではかなり表情豊かだ。絢音は年下に惹かれる女性ではないが、この里に居ればこうした世間的な感覚を持った人間と関われるのは貴重な時間だっただろう。
「若、我が身内の任務失敗、大変申し訳ございません。」
丁寧に頭をさげた錦はすぐに頭をあげると、手のひらで木賊の自宅の方をさして戻るように促してきた。妙に気が回るところも、どうにも一族らしくはないと思うが、それを違和感に感じることはない。
先ほどの男たちのように気味悪く思う連中も居るのだろうが、木賊はむしろこういった態度は好感が持てた。
「後日、俺からお見舞いを届けさせてください。」
「気遣い感謝する、お前たちならば絢音も喜ぶだろう」
それだけ言うと木賊は女性たちに咎められる前にと、錦に医者へ走るよう頼んで自宅へと戻った。
その後、錦に呼ばれた医者は目出度いやら許せないやら、ともかく勇んでやってきて診察をしていった。「女の体になにをするんだ」と終始男への文句を言っていた医者は、体が男で心が女なのだと、連れてきた錦に言われて知った。
錦も仲が良いらしいその医者に礼を言って玄関先においてあった金平糖を持たせて見送ると、木賊は眠ることなく絢音の隣に座り続けた。なんとなく、隣に寝てはいけない気がしたのだ。
自分からこの家へ嫁ぐと宣言したあの時には驚いたが、今日まで嫁であらねばと思う一方で自然とこちらへ好意を傾けてくれていた。共に過ごす時間が長いせいか急激に近づいた距離に、お互い戸惑いはもっていた。それでも、絢音はあのように、不特定多数の他人が居る前で「風間の嫁である」ということを誇りに思うと言い放ってくれたのだ。それがどれほどに嬉しいことか、彼女はきっと分かっては居ない。
この里では極力血が遠い者同士を結ばせ、ほとんどが婚姻統制によって子をなしている。感情が希薄な者が多いこの里ではそれが当たり前だったはずなのに、長となる自分は相手に思われ相手を思って子をなそうとしている。これがどれほど希少なことか。
布団のうえから絢音の腹に手をのせると、木賊は申し訳無さで胸がいっぱいになるのを感じた。幸いにも絢音の身体に怪我は無いとのことで、子供も里の医者に言わせれば無事な可能性もあると。心配しすぎたらしい部下の女性が、母子の安全を守るのだというお呪いをしにもきた。木賊も大丈夫だと信じているが、心配でならない。
「ありがとう」
木賊はそう小さく告げると、絢音が以前歌っていた子守唄を覚えている限りで口ずさんだ。少しでも気を張りすぎる可愛らしい嫁が、ぐっすりと休めるようにと。
終。
もくじへ戻る
2015/03/27 今昔
絢音が暮らしていた一色一族の暮らす土地はそれなりに都会で、産業が発展してきたこのご時世では流行の最先端でもある場所だった。しかしそれに伴って川は汚れ空気は淀んでいたように思う。もちろん、各種工業を営む一色家とて対策を行っていなかったわけではないが、この風魔の里には遠く及ばないことは確かだ。
庭の端にある物干し竿にシーツやら着物やらが揺れる様子を少し眺めると、よし!と絢音は気合を入れてカゴを持つと立ち上がった。洗濯物が終わったところで、そろそろ昼食の支度にとりかからねばならない。慣れない主婦の仕事をこなすなかで良かったと思うのは、この家に姑が居ないことだろうか。口出しされるとやる気を無くす、という自分でも子供っぽいと分かる一面を持つ樹音としては、寂しい反面嬉しい気持ちもあるのだった。
【 仮想大江戸 お伽話 親世代編02「純血なる一族」 】
世間の喧騒から離れて風魔の里へと入ってから、すでに10ヶ月が経過しようとしていた。絢音は義務感こそあれ、一人の男性を相手にするのと同じように木賊と接していたし、彼もまた絢音を嫁として大切に扱ってくれていた。樹音が夢見ていたような甘く優しい新婚生活とは全く違うだろうが、絢音はこれも1つの幸せだと感じている。今では二人で少し寒くなってきた里の周りを散歩するのが楽しみだ。
風魔の忍びを率いる風魔小太郎、つまりはこの里の長である者の家は周囲より少しだけ大きく、また里の奥まった場所にあった。その反対側である里の入り口には、代々長の腹心でもある桑染という家の邸宅があり、それに挟まれるようにして数々の家が建っている。
絢音は時折やってくる風魔の一族から野菜を貰ったり、元気な子どもたちの相手をしながら次期長の新妻としての日々を過ごしていた。樹音だけを家に戻したことは後悔していない。むしろ、この里の若者たちが「己の鍛錬のためでもある」と入念に護衛をしてくれている。
不満なことがあるとすれば、里の者は感情が希薄で、女性よりも男性の方がそれが顕著だということだ。
「ごめんください」
台所で昼餉の用意をはじめたところで、玄関から声がかかった。絢音は一旦鍋の火を弱めると、エプロンを外しながら玄関へ駆ける。最近は少し体調が悪いのか、走ろうとするとめまいがする。それでも、留守を預かる嫁として妻として、そんな義務感で足を動かした。
「はーい、ただいま」
叫び返しながら玄関を覗くと、見覚えの無い青年が立っていた。風魔独特の白髪に灰色の瞳。両腕で1つの米俵を抱えており、細い腕なのにどこからあんな力が出るのか不思議でならない。
青年は風魔一族の成人の儀を終えているはずなのに、それにしては豊かな表情をこちらへ向けた。軽く口角があがり、目が細まる。
「こんにちは、奥様。僕は錦の家のものです、母に言われてこれを届けに参りました。」
「あら、ありがとうございます。夫にもしかと伝えますと、お母様にお伝え下さいね」
「はい。お昼時に申し訳ないです」
「良いのよ、どうせ任務で遅いのだろうから…あ、そうだ。良かったら金平糖を持って行ってくださらない?私の実家が送ってくれたのだけれど、どうにも量が多くって」
「よろしいのですか!ありがとうございます」
錦の家の者だと名乗った青年は嬉しそうに笑うと、絢音が玄関先に小分けにしておいておいた金平糖を受け取ってじっくりと眺めた。この里では外との交流が少ないためか、こうしたお菓子や若者が好むようなものが少ない。初めて見たとつぶやく青年に、絢音はまた無くなったらお出でというと、それこそ昼時に他所の子を引き止められないなと慌てて帰るように促した。
その日はどうにも錦という子のことが気になった。絢音と同い年くらいの人間は、誰もが無表情が標準装備されている。風魔の人間として任務をこなすということは、当然人も殺すことになるだろうし、感情が希薄になるのは分かる。木賊(とくさ)からも成人として認められるのは感情を殺す術を得たものだけだと聞いたことがある。
そんなとりとめもないことを考えながら義父と共に食事をし、家事をこなしているうちに一日はあっという間に終わってしまった。代わり映えしない一日で終わるはずだったのに、布団へ入ってもまだ錦のことは頭から離れなかった。
こんなことでは同じ布団で寝るようになった木賊に申し訳ないと思う。仕事を終えて帰宅した旦那に食事を出し、風呂を用意し、そして床での安らぎを与えるのが妻の努めだ。絢音の心が他所を向いていることなんて、木賊はすぐに気づいてしまうだろう。
風呂あがりの木賊が寝室へ来るのを待っている間に先日贈られた櫛で髪を梳いていると、背後の障子が静かに開かれた。気配を読もうとしなくとも、屋敷のこの部屋に入れるのは木賊と絢音だけだ。
「さっそく使っているのか」
「ええ、木賊からの頂きものですもの。大切に使わなくては」
そう返されたのがお気に召したのか、木賊は座っていた絢音を後ろから抱えるように腰を下ろした。絢音も櫛を枕元へ置くと、木賊の胸元へと背もたれる。
「今日、錦の家の者だという男の子がお米を持ってきてくださったの」
「……錦の家がか。もしや、妙に笑う男か?」
「あら、ご存知なの?」
どんな子がとも言っていないのにあの子のことだろうと思われる発言をした木賊に、絢音は複雑な気持ちになった。やはり、あのように表情豊かであることは里では異端児なのだろうか。
「錦の家には双子が居る。兄は仕事の出来る奴だが、弟の方はてんで出来ない。弟は人殺しよりも小鳥や草花を愛でる方が向いている」
「…えぇ、そういう穏やかなことが似合う子でしたわ。金平糖をさし上げたのですけれど、とても喜んでくれて。あんな子も里に居るのだと…少し驚きました」
「珍しいことではある。人を殺せない忍びなど、なんの役に立てようか。」
そういう木賊はどこか寂しそうで、絢音を抱いていた腕にも少しだけ力が入ったように思う。確かに感情が読みにくい相手ではあるけれど、しっかりと側に居れば気持ちも汲み取れるようになる。錦ももしかしたら、里の中でイレギュラーだったとしても、いつか理解してくれる相手が現れるかもしれない。
絢音は錦のことを考えるうち、自分が木賊の拠り所にならなくては、いやなりたいのだ。と強く思った。木賊の方へ向き直ると首に腕を回し、自分の体重を使って布団へ横になる。そのまま頭を撫でながら小さな声で子守唄を歌ってみることにした。
「 ゆりかごのうたを かなりやが歌うよ 」
絢音は自分の背中に回された腕に自分も眠気を感じながら、自分の意識が途絶えるまで知っている限りの子守唄を歌い続けた。様々な重圧を感じるであろう一族の跡取りが、少しでも安らかに眠れるように、と。
翌朝、いつもより機嫌の良さそうな木賊を見送りに自宅の門まで出て行くと、今日の仕事に同行するらしい里の忍びたちが何人かやってきていた。皆一様に口を覆う布をつけているが、一人だけ太陽の光を目一杯反射するような灰色の瞳を見つけ、絢音は思わず小さく声をあげてしまった。
錦もまた絢音が出てきていることには気づいていたようで、小さく目礼をしてくれる。顔をあげたところでにっこりと微笑めば、あちらも目が細まり微笑んでくれたようだ。
「絢音、今日は一色家の護衛に入る」
「あら、そうですか。」
「詳細は聞かぬのか?」
「既に風間に嫁いだ身ですもの。生家は確かに心配ですけれど、木賊が向かうのでしたら心配はありませんわ」
「…そうか。嘉萩家との会食の護衛になる。早々に戻るはずだ」
「えぇ、家のことはお任せください。」
1つ頷いた木賊たちが里の外へと向かうのを見送るうち、絢音は少しだけ違和感を感じた。何がとは言えない程度のもので、わざわざ引き止めるのも気が引けたので絢音は今日も洗濯物から終わらせなくてはと自宅へと戻った。
いつもと同じように家事をこなすうち、日が暮れて夕食の支度でも始めようかという頃になってからだった。全身が静電気をもらったかのようにビリリとしびれたのだ。菜箸が床に転がった音で我に帰ると、絢音は変なこともあるものだと首をかしげた。菜箸を綺麗に洗って別の菜箸で料理を再開すると、今度は家の外から悲鳴やら何やらが聞こえてきた。
煮物も味が整ったので火を止めると、絢音はエプロンを外して家の外を覗いてみた。誰かが任務で怪我をしたとしても騒ぎになんてならないだろうし、そもそも騒ぎになったとしてもこんな里の奥まで喧騒が届くことはありえない。
では一体何が?という不安でソワソワとする手のひらにぎゅっと爪を立てて門の外まで小走りにでていくと、ちょうど木賊が戻ってきたところだった。一緒に任務に出ていた者も居るようで、更にその身内と思われる者も集まってきている。
「木賊!」
「絢音、近寄るな。血がつく」
言われて見てみれば、木賊は血まみれの何かを抱えていた。その何かが小さく震えたかと思うと灰色の何かが見え、少ししてからそれが目だと分かった。
灰色の瞳に気づいた途端、抱えられているのが人間で、その左足が無いこと、両腕が力なく垂れていることに気づいてしまい、絢音は口元へ手を持っていった。気持ち悪いわけではない、ただ驚いた。
「錦の家か!!これだから余所者は良くないと言っている!!」
しわがれた声で叫ぶ男性に、周囲に居た人間は一斉に黙り込んだ。
静かになった広場に、木賊たちがやってきた方、里の入り口の方から一人の青年が歩いてきた。錦にそっくりなその青年は舗装されていない里の道で足音を立てることもなく、しずしずと歩いている。その青年に気づいていないのか、叫んだ男性は更に続けた。
「錦の小僧はいつか問題を起こすと思っていた!見てみろ!若と一緒の任務で不祥事とは情けない!里の恥さらしが!!」
「弟がご迷惑をお掛けいたしました」
そこで初めて錦のそっくりさんに気づいたらしい男性は、目を見開いて彼を見た。恐らく今やってきた静かな彼が錦の双子の兄なのだろう。
「ですがどうか、曾祖母を悪く言うのは辞めていただきたい」
「はっ!誰が余所者の言うことなど聞き入れるものか!里の端に家を追いやられた意味を考えろ、愚か者め。最近じゃ余所者同士でつるんでるらしいじゃないか。まんまと長の家にもぐりこんだ雌狐と手を組んで、里を壊すつもりなのだろうに」
ジトッとした男の目線が、絢音を貫いた。
衝撃を受けるはずもない。絢音はふんと鼻で男性を笑うと、つかつかと歩みよった。自分の一族を守るという目的を果たすためにこの里へ嫁いだのだ。雌狐だなんだと悪く言われることなど百も承知でここへ来たのだ。
「木賊、錦の弟くんが助かる見込みは?」
「ある」
「じゃぁ早く運んであげてちょうだいな」
背後で木賊が部下に錦を預けたのを見届けると、絢音は絢音や錦を余所者と言い放った男性を見据えた。こちらが臨戦態勢なのを察しているのか、あちらもだいぶ構えている。しかし絢音は警戒されているという事実を誇らしく感じた。相手が自分を警戒しているのは、己に危害を及ぼす可能性があると認められているからだ。
その通りにしてくれよう、とニィっと口の端を持ち上げた。
「どうも、余所者の新妻ですわ」
「自覚があるようでなによりだな」
「あなたは自分が老害であるという自覚がないようですわね、名も知らぬお方」
背後で絢音と井戸端会議を繰り広げる奥様たちがくすくすと笑ったのが聞こえた。
「で?錦の家の何が気に食わないのかしら」
「雌狐め、貴様は知らぬやもしれぬが、この一族は他所の血を入れぬ純血を保ってきた。それが誇りだ」
「それで数が少ないという、ホコリやチリみたいな因習ですわね。存じておりますわ」
「黙れ!錦の家は4代前に外からの捕虜との間に子供を作った。その末裔があの双子だ。他所の血をもった、しかも畜生腹の子どもたちだ。里に良い影響を与えるはずがなかろう!」
全くその通りだ!と言いたげに頷いた男性が何人か居るのを見て、絢音は盛大にため息をついた。絢音はそれだけで済ませることが出来たものの、背後に何人か居る女性たちからは怒りの雰囲気すら感じる。元より捕虜の女性に子供を産ませるなど、いくら忍びとはいえ女性が受け入れられるはずもない。
まして徳川が世を治めていたような時代ならいざしらず、今どき女性だというだけで地獄へ落ちるだなんて信じている者もごくごく少数だ。絢音とてこのご時世に双子を貶めるような言い方をする人間が居るとは今この耳で聞くまで信じられなかったほどである。この里の女性たちが怒るのもしょうがないだろう。
「貴様もあの双子とは親戚になるのだろうな、なにせ二色の家のものを捕虜にしたのだから」
「あぁ、私の生家の親戚ですか。それは教えて頂いてどうもありがとうございます。今度からあの双子にもお菓子をお裾分けしなくては」
「畜生腹の次は雌狐!!しかもとんだ淫乱だな!身内が辱められて動じもしないとは!」
「あら、だって…わたくし既に風間の家の人間ですもの。あまり生家…しかも遠縁にこだわるだなんて、嫁として恥ずかしいですわ」
「余所者の分際で若の嫁と名乗るのか!跡取りも埋めぬような出来損ないが!!」
自分もだいぶ古めかしいことを言っている自覚はあったが、絢音はゆったりと歩み寄ると男性の首を片手で掴むとグッと腕を上へと伸ばした。思ったよりも簡単に首を絞めることに成功して驚いたと同時に、どんどんと口が軽くなっていく。
「随分と古めかしい考え方をされているのですね、名も知らぬお方。わたくしの生家も、わたくし自身のことも、好きに貶すが良い。ですが、それ相応の復讐はさせていただきますわよ」
「このアマァ!!」
絢音が持ち上げた男性と同意見らしい別の男性がこちらへクナイを振りかざし駆けて来たのを見て、妙に冷静に腕を下ろした。慌てて刃物を引っ込めた相手の上に男性を落とすと、更に後ろから危害を加えようとやってきた男性の蹴りをしゃがんで回避し、足の付根を蹴りあげて転ばせる。背後から寄ってきた男に蹴りを入れて女性陣の方へ跳ね返せば、その男はくノ一として一線で活躍していた彼女たちに袋叩きにされている。
寄ってくる人間は全て相手になってやる。余所者だからと、女だからと舐められるわけにはいかないのだ。絢音は殴ろうとした相手の手を掴み、別の相手の刃物を受け止めるとその両方を利き足で蹴飛ばした。
妙に体が軽い。先日からの体調不良が嘘のようにさらにもう一人を殴って沈めると、どうしてもがら空きになってしまっていた下腹部に衝撃を感じた。
「ハハッ、見ろよ…血なんて吐いてるぞ。汚ねぇな、土地を余所者の血で汚す気かよ!」
絢音の腹を蹴りとばした男性に言われて口元へ手を持っていけば、ぬるりと生ぬるい液体が付着した。べとっと地面へ垂れるそれを目で追うと、口からだけでなく、どうやら下腹部からも血が出ているらしい。月のめぐりで出るようなどす黒い色の血ではなく、口からも下腹部からも鮮血が垂れていた。
腹を蹴った男と他数人は下衆な笑いをあげていたが、女性たちと一部の男性からはため息とも何ともつかない悲鳴のようななにかがあがった。
「アンタたち、お嬢になんてことするの!」
「長、制裁の許可をください!!あんな連中、風魔の男じゃありません!」
そう叫ぶ女性の声がどこか遠くに聞こえた。
そういえば、来ても良いはずの月のものはきていない。元より定期的ではない方だとはいえ、今回はあまりにも遅い。ここのところ体調も悪かった。
あぁ、何故気付かなかったのだろう。あぁ、自分はなんてことをしてしまったのだろう。絢音とて一族の頂点にたつ家系へ生まれた身、跡取りの重要性はよくよく分かっているというのに。自分が迂闊すぎたのだ。失敗した。これは妻として、嫁として、あるまじき姿だ。
ごめんなさい。
そう口が勝手に動いたのは分かったが、耳に届いたのはかすかに唇をこすった空気の音だけだった。
後頭部がじんじんと痛くなり、手のひらはうまく動かない。呼吸も自覚できるほどに浅くなり、思考は働かない。
なによりも、嫁いだ身、人質としても身でありながらというよりも、木賊と居たかもしれないお腹の子への罪悪感で涙も出ない。
「騒ぐな」
木賊の低い声に、周囲が一層静まった。
歩み寄ってきた木賊に抱きしめられ、少しだけ呼吸は楽になったが、それでもまだまともに話すことはできなさそうだ。
「絢音について思うところがある者も多いだろう。他所の血を入れるのかと、風魔の誇りはどうなるのだと。俺はそんなことはどうでもよい。」
「若!何をおっしゃるか!!」
「問題は、血族として近すぎる者どうしが子をなすことで、より体の弱いものが増えたことだ。それを説明し、長の許可も得た上で俺は絢音を迎えた。気が済まぬという者は絢音と対戦し、全員敗れて納得したと思っていたが?」
木賊が周囲を見回すと、絢音に手をあげようとしていた男性たちは気まずそうに顔をそむけたり、逆に文句があると言いたげにこちらを見返したりしている。
「それでもまだ納得できないという者を治められないのは俺の責任だ。彼女に手あげるのは間違っているし、里の女衆に制裁を加えさせるわけにもいかぬ。文句があれば俺にけしかけろ。正面からでもそうでなくとも構わない。ただ、これ以上自分の妻を貶されて黙っていられるほど、俺は馬鹿でもなければ無頓着でもない」
今度こそ、絢音は堪え切れずに木賊の胸元へ縋り付いた。次期当主の嫁たる自分が人前で弱みを見せるなどあってはならない。そう思い続けていたのに、過呼吸になるほどの涙は押さえつけられなかった。
そのままボンヤリとしてきた頭で把握できたのは、背後から錦の兄が飛び出してきて、絢音の腹を蹴った男の顎下へ、膝を入れたことだけだった。
◇ ◇ ◇
錦の片割れが男を沈めた途端、女性陣から拍手が巻き起こった。本当はこんな大袈裟なことにはしたくなかったのだが、どこかこうして人前で絢音を庇えたことはとても意味があるように思える。木賊は泣きつかれたのか気を失った絢音を抱き上げると、周囲の女性たちを見渡した。
誰もがスッキリしたような笑顔を浮かべつつも、口々に絢音を心配するような声をかけてくる。いつの間に里に馴染んだのか不思議であると同時、共に過ごす季節も3つ目ともなればこのくらいなのだろうかとも思える。
「若!お嬢の体が最優先です!」
「早くお医者様に見せなくてどうするのですか!」
「お嬢はずっと、若のお子を産むのだと意気込んで…いえ、喜んでいらっしゃったのに!最近はお体が辛そうなのに無理して家事もこなして…」
「錦の子のことも、身内と知らずに優しく接していたのですよ。なんて優しい子!まだこんなに若いのに!」
口々に言う女衆に謝罪と礼を返していると、錦の兄がこちらへとやってきた。どうやら女性たちが引くのを待っているようだったので視線を投げれば、気を利かせた女性たちが騒いだ男たちの制裁に向かったため、錦は苦笑いしてよってきた。
こうして見ると、弟とよく似ている上に、風魔という一族の中ではかなり表情豊かだ。絢音は年下に惹かれる女性ではないが、この里に居ればこうした世間的な感覚を持った人間と関われるのは貴重な時間だっただろう。
「若、我が身内の任務失敗、大変申し訳ございません。」
丁寧に頭をさげた錦はすぐに頭をあげると、手のひらで木賊の自宅の方をさして戻るように促してきた。妙に気が回るところも、どうにも一族らしくはないと思うが、それを違和感に感じることはない。
先ほどの男たちのように気味悪く思う連中も居るのだろうが、木賊はむしろこういった態度は好感が持てた。
「後日、俺からお見舞いを届けさせてください。」
「気遣い感謝する、お前たちならば絢音も喜ぶだろう」
それだけ言うと木賊は女性たちに咎められる前にと、錦に医者へ走るよう頼んで自宅へと戻った。
その後、錦に呼ばれた医者は目出度いやら許せないやら、ともかく勇んでやってきて診察をしていった。「女の体になにをするんだ」と終始男への文句を言っていた医者は、体が男で心が女なのだと、連れてきた錦に言われて知った。
錦も仲が良いらしいその医者に礼を言って玄関先においてあった金平糖を持たせて見送ると、木賊は眠ることなく絢音の隣に座り続けた。なんとなく、隣に寝てはいけない気がしたのだ。
自分からこの家へ嫁ぐと宣言したあの時には驚いたが、今日まで嫁であらねばと思う一方で自然とこちらへ好意を傾けてくれていた。共に過ごす時間が長いせいか急激に近づいた距離に、お互い戸惑いはもっていた。それでも、絢音はあのように、不特定多数の他人が居る前で「風間の嫁である」ということを誇りに思うと言い放ってくれたのだ。それがどれほどに嬉しいことか、彼女はきっと分かっては居ない。
この里では極力血が遠い者同士を結ばせ、ほとんどが婚姻統制によって子をなしている。感情が希薄な者が多いこの里ではそれが当たり前だったはずなのに、長となる自分は相手に思われ相手を思って子をなそうとしている。これがどれほど希少なことか。
布団のうえから絢音の腹に手をのせると、木賊は申し訳無さで胸がいっぱいになるのを感じた。幸いにも絢音の身体に怪我は無いとのことで、子供も里の医者に言わせれば無事な可能性もあると。心配しすぎたらしい部下の女性が、母子の安全を守るのだというお呪いをしにもきた。木賊も大丈夫だと信じているが、心配でならない。
「ありがとう」
木賊はそう小さく告げると、絢音が以前歌っていた子守唄を覚えている限りで口ずさんだ。少しでも気を張りすぎる可愛らしい嫁が、ぐっすりと休めるようにと。
終。
もくじへ戻る
2015/03/27 今昔
2015年3月5日木曜日
【仮想百鬼夜行】犬神奇譚 第06話
狗谷ミヤは春になれば三年生へと進級する。今は卒業式の準備やら何やらで二年生はやたらと忙しい時期であり、ミヤもまた何故かなってしまった委員会の仕事で走り回っていた。学校内には折り紙の輪っかで作った飾りがつけられ、卒業おめでとう!と書かれた画用紙製の飾りもぶらさがっている。
こうした掲示物や学校新聞を発行するのがミヤの所属している広報委員会の仕事であり、卒業する三年生のために記念となる学校新聞を作るのが、次の委員長に指名されてしまったミヤの仕事だ。
現在の広報委員長は独特な人物で、ミヤの周りで不思議なことが起こるならなおのことミヤを委員長にしたいと言い出したのだ。なんでも面白い記事がかけると思っているらしい。
「デジ一はちょっと嬉しい。できればキャノンが欲しかったけど」
卒業新聞のために、デジタル一眼レフを持って学校内の写真を撮影していく。三年生が使っている昇降口、部員数の多かった陸上部の部室付近、三年生の教室。職員室前にある大きな額縁に入った絵は、美術部員が地方大会で優勝した作品だそうだ。
次は四階の音楽室へ行ってこようと階段を登っていると、ふと重心が後ろに傾いた。
「…っ!」
近くに人間の気配があることには気づいていたが、それでも今は放課後だ。部活をしている人間が居てもおかしくないと思っていたために、どうやら認識が遅れたらしい。足払いされた勢いのまま、ミヤは背中から落下した。
【 仮想百鬼夜行 犬神奇譚 06 】
剣と珊瑚が卒業式まで今日を入れてあと3日という日に登校していくと、教室がいつもよりザワツイていた。何か面白いことでもあったのかと思ったが、そうではなく皆一様に暗い顔をしている。
剣はうわさ話の事情に詳しいであろう女子に話を聞こうと、クラスメイトの天宮カヨを呼び止めた。
「天宮、今日なんかあったのか?」
呼び止められたカヨは驚いた顔を見せたが、それでも相手が剣と珊瑚だと分かると安心したように微笑んだ。
「あのね、1こ年下の狗谷さんって居るでしょ?」
「あぁ、狗谷ミヤな」
「あの子、階段から突き落とされて入院してるんだって」
カヨはヒソヒソ話をするようにささやくと、とんでも無いことする人が居るもんだねー!とわざとらしく震えてみせた。
剣は酷いことを思っていると自覚しながらも、一瞬考えてしまった。虐めの末に入院させられるようなことになれば、狗谷ミヤは報復を考えるのではないだろうか。特にミヤにはその能力がある。
妖かしたちを使って何かしでかしはしないだろうか、もしくはもう何かあった後なのだろうか。
「それで、その狗谷さんがどうしたの?それだけで皆そんな顔してるの?」
「戒愁くん、それは甘いな。実は、狗谷さんが病院送りになったのが昨夜なんだけど、その後…学校で色々起きてるんだよ…広報委員長が自分でカメラ持って走り回るレベルで!」
「おい、何があったんだ!」
剣が思わずカヨの両肩を掴んで問いただすと、彼女は怒る風でもなく真剣に言ってみせた。
「まず、突き落とした犯人であろう生徒が居る二年四組の教室が、嵐でも来たみたいにグチャグチャになってた。あとは二年生の廊下が水浸しになってて、二年生の昇降口は人が入り込めないくらいに壊れてるらしいよ」
「え?でも朝はそんな騒ぎには…」
「三年とは昇降口が東西で逆じゃない。二年生は校舎も違うから大丈夫だとは思うけど、狗谷さんの呪いがこっちにもくるんじゃないかって噂なの」
剣は腹の底からどす黒いものがうずを巻いて沸き上がってくるのを感じた。もちろん、同級生を階段から突き落とすのはどうかと思う。しかし学校を壊して回って良いはずがない。階段から落ちた程度なら打撲で済むだろうが、教室や昇降口が半壊するようなことをするなんて命に関わる問題だ。
祓い屋衆と呼ばれる人たちのように、人間のために妖かしと一緒に働く人が居るというのに、狗谷ミヤは勝手すぎる。
「大丈夫だよ、梔子。今警察が来て調べてるって先生が言ってたし」
「そうか…警察が来てるのか……」
調べるのはここじゃない。病院に行って狗谷ミヤを問い詰めるべきだ。
剣はそう思い立つと教室を飛び出した。自分が何度も妖かし絡みの危ない目にあっているからこそ、他人がそれに巻き込まれることは許せそうにない。
「ちょっと梔子!どこ行くの!」
後ろから珊瑚とカヨが呼び止める声が聞こえたが、剣は無視して職員室へ向かうべく階段を駆け下りた。
もつれそうになる足でバタバタと階段を降りて行き、廊下へ出たところで誰かと衝突した。教室へ向かう職員だろうか。
「す、すみません!」
「あれ?剣くん?」
聞いたことのある声に顔をあげると、そこにはスーツ姿の清白千草と、同じくスーツを着た麗奈が居た。麗奈は以前剣が犬神に取り憑かれた時と同じように、長い髪の毛を低い位置で結んでいる。
はじめて千草のスーツ姿を見たので、一瞬剣は彼が千草であると認識できなかったが、麗奈ににっこりと微笑まれてはっと我に返った。
「廊下は走ったら駄目だろう?」
「すみません…ちょっと急いで……そうだ!千草さんなら分かりますよね!」
驚く千草に構わず寄っていくと、千草は困ったように微笑んだ。
「もしかして、狗谷ミヤさんのことを言いたいのかい?だったら大丈夫だよ、オレたちは警察の協力要請で祓い屋衆から派遣されてきたんだ。」
「良かった、じゃぁ狗谷はもう監視されているんですよね?」
「それはまだだよ。もちろん、オレの式が見張ろうとしているけれど、彼女の周囲に居る妖かしたちが自主的に排除しているようなんだ」
「じゃあ、あいつは今も野放しなんですか!!」
千草の背後で麗奈が眉間にシワをよせたのが見えた。どうやらお気に召さないらしい。しかし剣はそれも無視して言い募った。
「あいつが虐められたし返しに校舎壊してるんですよ!絶対そうです!今度はけが人が出るかもしれない!妖かしのせいで誰かが怪我するなんて駄目ですよね!!」
「剣くん。少し、落ち着こうか。」
「落ち着いてます!」
「じゃあ聞くよ、今回の校舎を壊した犯人は本当に狗谷ミヤだと言い切れるのかい?」
「それ以外に誰が居るんですか?」
「さっきも言っただろう、狗谷ミヤの指示がなくても動く妖かしが居るんだ。彼女を慕う妖かしは多い。特に犬神の類…つまりイヌ科の動物が妖怪となった者たちだね。四国の形部狸たちも狗谷に従うと言われているくらいだ。」
剣は千草のスーツにシワがよるのも気にせずぎゅっと握りしめた。どうして彼女を慕うのだろう。あんな人間離れした存在の、何が良くて妖かしは狗谷ミヤに付き従うのだろう。まして彼女の指示がなくても、周囲から害と思われるものを取り除くくらいに心酔してしまうのだろう。
「剣さん、我々妖かしは、何よりも自由を愛する生き物です」
今まで黙って見ているだけだった麗奈の言葉に、剣は手の力をゆるめて視線をなげた。
「しかし、自分よりも強い相手には従うこともするのですよ。強い者の下に居るほうが、自由な振る舞いが出来ますし。何より、狗谷ミヤという存在は古くから我々妖かしの中では有名です。」
「有名?」
「ええ。狗谷という家は妖術師として名高く、人間を快く思っていない連中に好かれています。更に狗谷ミヤという個人については、歴史を裏で操っていたとも言われる大妖怪、常磐が取り憑いたことで有名になりました」
麗奈の口から聞かされたのは、日本がまだ地方領主どうしで争っていたような平安と呼ばれる時代の話であった。常磐は狗谷の家が幕府の味方をしていたことから、幕府に逆らう者を裏で始末するような仕事をしていたというのだ。
「ですから、証拠も無しに狗谷ミヤを悪く言うのは、あなたの危害が及ぶかもしれません。やめておいたほうが利口ですよ」
「麗奈、止める必要はないよ。納得できないのなら着いてくれば良い。先生にはオレが誤魔化すから。」
「ですが…」
「狗谷さんのこと気に入っているんだろう?だったら剣くんにも彼女のことを分かってもらいたいじゃないか」
剣は、二人のやりとりに妙に苛立った。子供扱いされているような気がしたし、何より危機感が無いのだ。狗谷ミヤがどれほど恐ろしいことをやってのけるか、千草たちは考えたことがないに違いない。あの白い霧の世界を作り出した腐れ神の時だって、恐ろしい妖かしを自分の祖父にどうにかさせると言っていた。
身内にすらそんな扱いをするような人間が、他人にどんな仕打ちをするだろう。考えただけでもおぞましい。
そう思うとじっとしていられなくなって、剣は千草がまだ何か言おうとしているのも無視して、ここまで来た時と同じくらいの早さで教室へと駆け戻った。背後から呼び止める千草の声が聞こえたが、知ったことではない。
息を切らせて教室へ戻ると、臨時の職員会議があるからと一時間目は自習になったのだと黒板に書かれている。
「梔子!どこ行ってたの?」
教室の入り口で息を整える剣に、珊瑚とカヨは自習のプリントを放り出すと、教室が決して静かではないのを良いことに剣に駆け寄ってきた。
「警察とかが来てるんだけど…あーもう!説明するからこっち来い!」
「ちょっと剣!服が伸びちゃうよ!」
剣は自分たちの教室のすぐとなりにある空き教室へ入り込むと、念の為にと鍵をしめた。
「いいか、よく聞いてくれ。狗谷ミヤは、人間じゃないんだ」
◇ ◇ ◇
千草は式たちに集めさせた霊力の痕跡を見比べながら、深くため息をついた。どうやらこの校舎破壊の犯人は複数居るらしい。壊されたという二年生の教室には大きな爪あとのようなものが残っているし、水は水道水ではなく床から湧きでたようにこぼれている。正確には、今もまだ床からすこしずつ湧き出してきているようだ。
それらを見ながら、千草はこの土地に伝わる伝承について考えた。
「主、この辺りを歩いていた妖かしに話を聞けました。どうやらここは、昔から土鬼の領土だった場所。学校を建設されたことが気に食わないのか、河童たちを率いて、ここ最近は校舎を荒らして回っていたようです」
「なるほど。その中でも大きなイタズラと狗谷ミヤの怪我が重なったからこうなっちゃったのか。」
妖かしに聞いた話をメモしていたらしい手帳を見ながら、麗奈はつらつらと述べた。手帳を抱え直すと、次の指示を待ってこちらを見ている。
千草は彼女の従順さに心地よさを覚えながらも、どうしたものかとまたため息をついた。
土鬼は、仮にも鬼と呼ばれる妖かしだ。それなりに力も強く、この土地を守っていたとなれば、その中でも力がある者なのだろう。そんな相手に戦いを挑みたくはないし、かといって話が通じるかと言われれば分からない。
妖かしは自由を愛すると同時に誇り高い者が多い。自分の守護する土地を奪われたからと事件を起こしているのなら、話し合いに応じてくれるかどうかも危うい。
「困ったな、一度その土鬼と話をしたいんだが…」
「土地神に口を効けるほどの存在ですか…とすると、神主や住職、はたまた常磐のような力を持った者であれば確実ですね」
「麗奈じゃ無理かな?」
「生憎と私はここ数百年の間祓い屋と行動を共にしています。人間側についていることが知れ渡っていますので」
「となると…まずは校長先生にお願いしてみるしかないか。土鬼に相応の供物を与えてイタズラは辞めてもらおう」
「承知しました」
千草が荒れた教室を出ると、廊下はまたしても水浸しになっていた。誰が片付けると思ってるんだ、と愚痴を零しながら、千草は祭壇を作って供物を捧げる許可をとるべく校長室へと向かった。
こんなことなら、水を扱うことに長けている妖かしを式として連れてくればよかったかもしれない。
「片付けが面倒だ…」
「あら、得意ではありませんか、片付け」
「捨てるのは得意だよ、でも整理整頓は好きじゃないからなぁ」
千草と麗奈が廊下の水を避けながら歩いていくと、ちょうど階段を階下から登ってくる人物と出くわした。初老というにはまだ若いというくらいの男性で、その見覚えのある顔に千草は眉間にしわを寄せてしまうのを隠しきれなかった。
男性は優雅に会釈してみせると、丁寧な礼をする麗奈には視線を一切向けずに言い放った。
「清白の坊やがここの担当になるとはね、副校長として屈辱だよ」
「お久しぶりです、梔子重蔵さん。奥様はお元気ですか?最近はなかなかご挨拶にも伺えず、申し訳ございません」
慇懃無礼ともとれるように言えば、梔子重蔵は眉間にシワを寄せてみせた。ただ、それも千草の反応を見るための演出なのだろう。そうは分かっていても苛立つのは致し方ないというものだ。
重蔵はこの学校の副校長であり、妻は県の役員。なんとも豪勢な組み合わせで有名な夫婦であり、かつ祓い屋衆への出資も大量に行っていることで千草もよく知っていた。
「いやはや、今回の件も妖かし絡みなのだろう?嫌だねぇ、こうして妖かしが街をのさばっているというのは。」
重蔵はわざとらしく周囲に居る妖かしをチラチラと探すように視線を動かした。彼に妖かしを見る能力は無いのだろう、見えていたとしたらこの廊下だけでも大量の妖かしが行き来している様子に耐えられるはずもない。
「人間の世界を侵食している連中を、さっさと片付けてくれないか」
「えぇ、そのために、今から校長に許可をいただきに行こうと思っていたところですよ。」
千草がそう言い放つと、重蔵は忌々しげに顔をしかめてみせた。仕事が出来ない祓い屋は怒鳴りつけるし、逆に仕事が出来ても気に食わないらしい。妖かしに関わるものは皆全て、汚らわしいと思っているに違いない。だからこそ、麗奈が何をしようとも気にも留めずに、ただ千草にだけ声をかけるのだ。
孫まで居るような年齢になって大人げないと思うこともあるが、確かに目に見えない何かに襲われる恐怖に気づいてしまえば、こう卑屈にもなるだろう。麗奈もそれはわかっているのか、不機嫌そうではあるものの重蔵に一泡吹かせようとは思っていないらしい。
「ふん、せいぜいやってみたら良いさ。若造がどこまでやれるのか、見ものだよ」
「えぇ、お任せ下さい」
「ところで、この校舎を壊した連中は…あー、あれかね?猫の妖かしだったりするのか?」
「いえ…鬼と犬神の仕業と思われます。」
「そうか…ならば校長にお話しても問題あるまい。」
重蔵はそれだけ言うと、意味ありげに微笑んで見せてからどこかへと立ち去ってしまった。おおよそ、千草で遊ぶためだけに来たのだろう。面倒な人が権力を持っているものだと、千草は深くため息をついた。
「ため息をつくと幸せが逃げると言いますよ」
「もう逃げるような幸せも無いと思うよ」
その発言に、今度は麗奈がため息をついたことに気づかぬまま、千草は校長室へと向かうのだった。
◇ ◇ ◇
「狗谷ミヤが人間じゃないって、どういうこと?」
珊瑚のごもっともな問いかけに、剣はイライラしながら下唇を噛み締めた。正直に話したところで信じてもらえるとは思えない。何より、妖かしを見たこともないだろう彼らを、自分が体験したあの恐ろしい世界へ巻き込むのは気が引ける。
けれどこれもあの狗谷ミヤからの攻撃に対処するためなのだ、と剣は自分に言い聞かせて口を開いた。
「あいつは犬神憑きなんだ。」
「…妖怪ってこと?狗谷ミヤは妖怪なの?」
「狗谷さんが妖怪って…でも、犬神憑きってご先祖様が犬神使いだったからってことだろう?本人は関係ないんじゃ…」
「狗谷ミヤも、使うんだよ。怪しい魔法みたいなのを…妖術って言ってた。おれさ、妖かしに襲われたことがあって、その時に助けてもらったんだよ、祓い屋って人に」
「祓い屋ってエクソシストってこと?じゃぁ人間の味方だね、その人は」
「その祓い屋が今学校に調査しに来てて、言ってたんだ。狗谷ミヤの周りに居る妖かしが校舎を壊してるんだろうって」
剣がぎゅっと拳を作って言うと、それ以上に隣に居たカヨが反応を示した。息を呑んだかと思うと、まるで小さい子供が食べられない野菜を見た時のような、もしくは麗奈が常磐と出くわした時のような顔をしてみせた。忌々しいと言いたげな顔に、剣も珊瑚も目を見開くほどの表情で、カヨは制服のポケットから紙切れを取り出した。
紙はA4ほどの大きさで、横長にして置いた時、上部中央に鳥居のマークが。その下にはひらがなの五十音表と数字がずらりと書いてある。これは剣も知っていた。こっくりさんだ。
「人間じゃない奴なんて滅びるべきだよ。」
言ってのけた勢いで、カヨは10円玉を鳥居のマークに置いた。ほら早く!と言いたげに剣と珊瑚を見るものだから、剣はついつい10円に指を載せてしまった。珊瑚はそのことを信じられないという顔でこちらを見てきたが、カヨに睨まれると諦めたのか指を載せた。
「人間じゃないものでもね、こっくりさんは神様なの。だから大丈夫。でも妖怪は駄目。」
「コックリさんって神様なの?」
「そう。神様なの。迷った時に色々教えてくれる。今日は3人居るからきっといつも以上に色々教えてくれるはず」
カヨが10円玉に指を載せたまま目を閉じると、うっすらと体が光ったように見えた。剣はそれが、千草が妖術を使った時と同じだと気づくと、このコックリさんが妙に信ぴょう性のあるものに思えた。
「コックリさん、コックリさん。おいでください」
カヨがそう言った途端、光は一瞬強くなり、10円玉が微かに動いた。
「おい小娘、その紙の書き方間違ってるだろう」
聞いたことのある声に顔をあげると、そこには白髪に緑色の瞳、着流し姿に耳がぴょこっと見えている、剣が見慣れた妖かしの姿が浮いていた。。不機嫌なのか、彼の尻尾はビシビシと壁を叩いている。
「げ、常磐!!!」
「『げ』とはなんだ、犬。」
「犬じゃねぇよ!犬はお前だろう!」
「犬ではない。狼だ。いや、今は狗神代理だな。」
うっかり10円玉から指を離しそうになりながら、剣は盛大に吠えた。両隣の珊瑚やカヨにも常磐の姿は見えているようで、二人とも目を見開いて常磐を見ていた。次第にカヨは嬉しそうな表情になり、それから用紙を見てしょんぼりと眉を下げた。
紙の内容が間違っていると言われたのがショックだったのだろうが、剣からしてみれば常磐の言葉に耳を貸す必要など全くない。
「で、何が知りたいんだ、小娘よ」
常磐が側に居ない方が狗谷ミヤは悪さが出来ないのだろうかとか、側に居ないことで拗ねて何かしでかさないかだとか。そういったことが頭の中でぐるぐると回って整理できない。
ニンマリと笑ってみせた常磐に、剣は一抹の不安を感じながらもカヨの言葉を待つしか無かった。
2015/03/05 今昔
こうした掲示物や学校新聞を発行するのがミヤの所属している広報委員会の仕事であり、卒業する三年生のために記念となる学校新聞を作るのが、次の委員長に指名されてしまったミヤの仕事だ。
現在の広報委員長は独特な人物で、ミヤの周りで不思議なことが起こるならなおのことミヤを委員長にしたいと言い出したのだ。なんでも面白い記事がかけると思っているらしい。
「デジ一はちょっと嬉しい。できればキャノンが欲しかったけど」
卒業新聞のために、デジタル一眼レフを持って学校内の写真を撮影していく。三年生が使っている昇降口、部員数の多かった陸上部の部室付近、三年生の教室。職員室前にある大きな額縁に入った絵は、美術部員が地方大会で優勝した作品だそうだ。
次は四階の音楽室へ行ってこようと階段を登っていると、ふと重心が後ろに傾いた。
「…っ!」
近くに人間の気配があることには気づいていたが、それでも今は放課後だ。部活をしている人間が居てもおかしくないと思っていたために、どうやら認識が遅れたらしい。足払いされた勢いのまま、ミヤは背中から落下した。
【 仮想百鬼夜行 犬神奇譚 06 】
剣と珊瑚が卒業式まで今日を入れてあと3日という日に登校していくと、教室がいつもよりザワツイていた。何か面白いことでもあったのかと思ったが、そうではなく皆一様に暗い顔をしている。
剣はうわさ話の事情に詳しいであろう女子に話を聞こうと、クラスメイトの天宮カヨを呼び止めた。
「天宮、今日なんかあったのか?」
呼び止められたカヨは驚いた顔を見せたが、それでも相手が剣と珊瑚だと分かると安心したように微笑んだ。
「あのね、1こ年下の狗谷さんって居るでしょ?」
「あぁ、狗谷ミヤな」
「あの子、階段から突き落とされて入院してるんだって」
カヨはヒソヒソ話をするようにささやくと、とんでも無いことする人が居るもんだねー!とわざとらしく震えてみせた。
剣は酷いことを思っていると自覚しながらも、一瞬考えてしまった。虐めの末に入院させられるようなことになれば、狗谷ミヤは報復を考えるのではないだろうか。特にミヤにはその能力がある。
妖かしたちを使って何かしでかしはしないだろうか、もしくはもう何かあった後なのだろうか。
「それで、その狗谷さんがどうしたの?それだけで皆そんな顔してるの?」
「戒愁くん、それは甘いな。実は、狗谷さんが病院送りになったのが昨夜なんだけど、その後…学校で色々起きてるんだよ…広報委員長が自分でカメラ持って走り回るレベルで!」
「おい、何があったんだ!」
剣が思わずカヨの両肩を掴んで問いただすと、彼女は怒る風でもなく真剣に言ってみせた。
「まず、突き落とした犯人であろう生徒が居る二年四組の教室が、嵐でも来たみたいにグチャグチャになってた。あとは二年生の廊下が水浸しになってて、二年生の昇降口は人が入り込めないくらいに壊れてるらしいよ」
「え?でも朝はそんな騒ぎには…」
「三年とは昇降口が東西で逆じゃない。二年生は校舎も違うから大丈夫だとは思うけど、狗谷さんの呪いがこっちにもくるんじゃないかって噂なの」
剣は腹の底からどす黒いものがうずを巻いて沸き上がってくるのを感じた。もちろん、同級生を階段から突き落とすのはどうかと思う。しかし学校を壊して回って良いはずがない。階段から落ちた程度なら打撲で済むだろうが、教室や昇降口が半壊するようなことをするなんて命に関わる問題だ。
祓い屋衆と呼ばれる人たちのように、人間のために妖かしと一緒に働く人が居るというのに、狗谷ミヤは勝手すぎる。
「大丈夫だよ、梔子。今警察が来て調べてるって先生が言ってたし」
「そうか…警察が来てるのか……」
調べるのはここじゃない。病院に行って狗谷ミヤを問い詰めるべきだ。
剣はそう思い立つと教室を飛び出した。自分が何度も妖かし絡みの危ない目にあっているからこそ、他人がそれに巻き込まれることは許せそうにない。
「ちょっと梔子!どこ行くの!」
後ろから珊瑚とカヨが呼び止める声が聞こえたが、剣は無視して職員室へ向かうべく階段を駆け下りた。
もつれそうになる足でバタバタと階段を降りて行き、廊下へ出たところで誰かと衝突した。教室へ向かう職員だろうか。
「す、すみません!」
「あれ?剣くん?」
聞いたことのある声に顔をあげると、そこにはスーツ姿の清白千草と、同じくスーツを着た麗奈が居た。麗奈は以前剣が犬神に取り憑かれた時と同じように、長い髪の毛を低い位置で結んでいる。
はじめて千草のスーツ姿を見たので、一瞬剣は彼が千草であると認識できなかったが、麗奈ににっこりと微笑まれてはっと我に返った。
「廊下は走ったら駄目だろう?」
「すみません…ちょっと急いで……そうだ!千草さんなら分かりますよね!」
驚く千草に構わず寄っていくと、千草は困ったように微笑んだ。
「もしかして、狗谷ミヤさんのことを言いたいのかい?だったら大丈夫だよ、オレたちは警察の協力要請で祓い屋衆から派遣されてきたんだ。」
「良かった、じゃぁ狗谷はもう監視されているんですよね?」
「それはまだだよ。もちろん、オレの式が見張ろうとしているけれど、彼女の周囲に居る妖かしたちが自主的に排除しているようなんだ」
「じゃあ、あいつは今も野放しなんですか!!」
千草の背後で麗奈が眉間にシワをよせたのが見えた。どうやらお気に召さないらしい。しかし剣はそれも無視して言い募った。
「あいつが虐められたし返しに校舎壊してるんですよ!絶対そうです!今度はけが人が出るかもしれない!妖かしのせいで誰かが怪我するなんて駄目ですよね!!」
「剣くん。少し、落ち着こうか。」
「落ち着いてます!」
「じゃあ聞くよ、今回の校舎を壊した犯人は本当に狗谷ミヤだと言い切れるのかい?」
「それ以外に誰が居るんですか?」
「さっきも言っただろう、狗谷ミヤの指示がなくても動く妖かしが居るんだ。彼女を慕う妖かしは多い。特に犬神の類…つまりイヌ科の動物が妖怪となった者たちだね。四国の形部狸たちも狗谷に従うと言われているくらいだ。」
剣は千草のスーツにシワがよるのも気にせずぎゅっと握りしめた。どうして彼女を慕うのだろう。あんな人間離れした存在の、何が良くて妖かしは狗谷ミヤに付き従うのだろう。まして彼女の指示がなくても、周囲から害と思われるものを取り除くくらいに心酔してしまうのだろう。
「剣さん、我々妖かしは、何よりも自由を愛する生き物です」
今まで黙って見ているだけだった麗奈の言葉に、剣は手の力をゆるめて視線をなげた。
「しかし、自分よりも強い相手には従うこともするのですよ。強い者の下に居るほうが、自由な振る舞いが出来ますし。何より、狗谷ミヤという存在は古くから我々妖かしの中では有名です。」
「有名?」
「ええ。狗谷という家は妖術師として名高く、人間を快く思っていない連中に好かれています。更に狗谷ミヤという個人については、歴史を裏で操っていたとも言われる大妖怪、常磐が取り憑いたことで有名になりました」
麗奈の口から聞かされたのは、日本がまだ地方領主どうしで争っていたような平安と呼ばれる時代の話であった。常磐は狗谷の家が幕府の味方をしていたことから、幕府に逆らう者を裏で始末するような仕事をしていたというのだ。
「ですから、証拠も無しに狗谷ミヤを悪く言うのは、あなたの危害が及ぶかもしれません。やめておいたほうが利口ですよ」
「麗奈、止める必要はないよ。納得できないのなら着いてくれば良い。先生にはオレが誤魔化すから。」
「ですが…」
「狗谷さんのこと気に入っているんだろう?だったら剣くんにも彼女のことを分かってもらいたいじゃないか」
剣は、二人のやりとりに妙に苛立った。子供扱いされているような気がしたし、何より危機感が無いのだ。狗谷ミヤがどれほど恐ろしいことをやってのけるか、千草たちは考えたことがないに違いない。あの白い霧の世界を作り出した腐れ神の時だって、恐ろしい妖かしを自分の祖父にどうにかさせると言っていた。
身内にすらそんな扱いをするような人間が、他人にどんな仕打ちをするだろう。考えただけでもおぞましい。
そう思うとじっとしていられなくなって、剣は千草がまだ何か言おうとしているのも無視して、ここまで来た時と同じくらいの早さで教室へと駆け戻った。背後から呼び止める千草の声が聞こえたが、知ったことではない。
息を切らせて教室へ戻ると、臨時の職員会議があるからと一時間目は自習になったのだと黒板に書かれている。
「梔子!どこ行ってたの?」
教室の入り口で息を整える剣に、珊瑚とカヨは自習のプリントを放り出すと、教室が決して静かではないのを良いことに剣に駆け寄ってきた。
「警察とかが来てるんだけど…あーもう!説明するからこっち来い!」
「ちょっと剣!服が伸びちゃうよ!」
剣は自分たちの教室のすぐとなりにある空き教室へ入り込むと、念の為にと鍵をしめた。
「いいか、よく聞いてくれ。狗谷ミヤは、人間じゃないんだ」
◇ ◇ ◇
千草は式たちに集めさせた霊力の痕跡を見比べながら、深くため息をついた。どうやらこの校舎破壊の犯人は複数居るらしい。壊されたという二年生の教室には大きな爪あとのようなものが残っているし、水は水道水ではなく床から湧きでたようにこぼれている。正確には、今もまだ床からすこしずつ湧き出してきているようだ。
それらを見ながら、千草はこの土地に伝わる伝承について考えた。
「主、この辺りを歩いていた妖かしに話を聞けました。どうやらここは、昔から土鬼の領土だった場所。学校を建設されたことが気に食わないのか、河童たちを率いて、ここ最近は校舎を荒らして回っていたようです」
「なるほど。その中でも大きなイタズラと狗谷ミヤの怪我が重なったからこうなっちゃったのか。」
妖かしに聞いた話をメモしていたらしい手帳を見ながら、麗奈はつらつらと述べた。手帳を抱え直すと、次の指示を待ってこちらを見ている。
千草は彼女の従順さに心地よさを覚えながらも、どうしたものかとまたため息をついた。
土鬼は、仮にも鬼と呼ばれる妖かしだ。それなりに力も強く、この土地を守っていたとなれば、その中でも力がある者なのだろう。そんな相手に戦いを挑みたくはないし、かといって話が通じるかと言われれば分からない。
妖かしは自由を愛すると同時に誇り高い者が多い。自分の守護する土地を奪われたからと事件を起こしているのなら、話し合いに応じてくれるかどうかも危うい。
「困ったな、一度その土鬼と話をしたいんだが…」
「土地神に口を効けるほどの存在ですか…とすると、神主や住職、はたまた常磐のような力を持った者であれば確実ですね」
「麗奈じゃ無理かな?」
「生憎と私はここ数百年の間祓い屋と行動を共にしています。人間側についていることが知れ渡っていますので」
「となると…まずは校長先生にお願いしてみるしかないか。土鬼に相応の供物を与えてイタズラは辞めてもらおう」
「承知しました」
千草が荒れた教室を出ると、廊下はまたしても水浸しになっていた。誰が片付けると思ってるんだ、と愚痴を零しながら、千草は祭壇を作って供物を捧げる許可をとるべく校長室へと向かった。
こんなことなら、水を扱うことに長けている妖かしを式として連れてくればよかったかもしれない。
「片付けが面倒だ…」
「あら、得意ではありませんか、片付け」
「捨てるのは得意だよ、でも整理整頓は好きじゃないからなぁ」
千草と麗奈が廊下の水を避けながら歩いていくと、ちょうど階段を階下から登ってくる人物と出くわした。初老というにはまだ若いというくらいの男性で、その見覚えのある顔に千草は眉間にしわを寄せてしまうのを隠しきれなかった。
男性は優雅に会釈してみせると、丁寧な礼をする麗奈には視線を一切向けずに言い放った。
「清白の坊やがここの担当になるとはね、副校長として屈辱だよ」
「お久しぶりです、梔子重蔵さん。奥様はお元気ですか?最近はなかなかご挨拶にも伺えず、申し訳ございません」
慇懃無礼ともとれるように言えば、梔子重蔵は眉間にシワを寄せてみせた。ただ、それも千草の反応を見るための演出なのだろう。そうは分かっていても苛立つのは致し方ないというものだ。
重蔵はこの学校の副校長であり、妻は県の役員。なんとも豪勢な組み合わせで有名な夫婦であり、かつ祓い屋衆への出資も大量に行っていることで千草もよく知っていた。
「いやはや、今回の件も妖かし絡みなのだろう?嫌だねぇ、こうして妖かしが街をのさばっているというのは。」
重蔵はわざとらしく周囲に居る妖かしをチラチラと探すように視線を動かした。彼に妖かしを見る能力は無いのだろう、見えていたとしたらこの廊下だけでも大量の妖かしが行き来している様子に耐えられるはずもない。
「人間の世界を侵食している連中を、さっさと片付けてくれないか」
「えぇ、そのために、今から校長に許可をいただきに行こうと思っていたところですよ。」
千草がそう言い放つと、重蔵は忌々しげに顔をしかめてみせた。仕事が出来ない祓い屋は怒鳴りつけるし、逆に仕事が出来ても気に食わないらしい。妖かしに関わるものは皆全て、汚らわしいと思っているに違いない。だからこそ、麗奈が何をしようとも気にも留めずに、ただ千草にだけ声をかけるのだ。
孫まで居るような年齢になって大人げないと思うこともあるが、確かに目に見えない何かに襲われる恐怖に気づいてしまえば、こう卑屈にもなるだろう。麗奈もそれはわかっているのか、不機嫌そうではあるものの重蔵に一泡吹かせようとは思っていないらしい。
「ふん、せいぜいやってみたら良いさ。若造がどこまでやれるのか、見ものだよ」
「えぇ、お任せ下さい」
「ところで、この校舎を壊した連中は…あー、あれかね?猫の妖かしだったりするのか?」
「いえ…鬼と犬神の仕業と思われます。」
「そうか…ならば校長にお話しても問題あるまい。」
重蔵はそれだけ言うと、意味ありげに微笑んで見せてからどこかへと立ち去ってしまった。おおよそ、千草で遊ぶためだけに来たのだろう。面倒な人が権力を持っているものだと、千草は深くため息をついた。
「ため息をつくと幸せが逃げると言いますよ」
「もう逃げるような幸せも無いと思うよ」
その発言に、今度は麗奈がため息をついたことに気づかぬまま、千草は校長室へと向かうのだった。
◇ ◇ ◇
「狗谷ミヤが人間じゃないって、どういうこと?」
珊瑚のごもっともな問いかけに、剣はイライラしながら下唇を噛み締めた。正直に話したところで信じてもらえるとは思えない。何より、妖かしを見たこともないだろう彼らを、自分が体験したあの恐ろしい世界へ巻き込むのは気が引ける。
けれどこれもあの狗谷ミヤからの攻撃に対処するためなのだ、と剣は自分に言い聞かせて口を開いた。
「あいつは犬神憑きなんだ。」
「…妖怪ってこと?狗谷ミヤは妖怪なの?」
「狗谷さんが妖怪って…でも、犬神憑きってご先祖様が犬神使いだったからってことだろう?本人は関係ないんじゃ…」
「狗谷ミヤも、使うんだよ。怪しい魔法みたいなのを…妖術って言ってた。おれさ、妖かしに襲われたことがあって、その時に助けてもらったんだよ、祓い屋って人に」
「祓い屋ってエクソシストってこと?じゃぁ人間の味方だね、その人は」
「その祓い屋が今学校に調査しに来てて、言ってたんだ。狗谷ミヤの周りに居る妖かしが校舎を壊してるんだろうって」
剣がぎゅっと拳を作って言うと、それ以上に隣に居たカヨが反応を示した。息を呑んだかと思うと、まるで小さい子供が食べられない野菜を見た時のような、もしくは麗奈が常磐と出くわした時のような顔をしてみせた。忌々しいと言いたげな顔に、剣も珊瑚も目を見開くほどの表情で、カヨは制服のポケットから紙切れを取り出した。
紙はA4ほどの大きさで、横長にして置いた時、上部中央に鳥居のマークが。その下にはひらがなの五十音表と数字がずらりと書いてある。これは剣も知っていた。こっくりさんだ。
「人間じゃない奴なんて滅びるべきだよ。」
言ってのけた勢いで、カヨは10円玉を鳥居のマークに置いた。ほら早く!と言いたげに剣と珊瑚を見るものだから、剣はついつい10円に指を載せてしまった。珊瑚はそのことを信じられないという顔でこちらを見てきたが、カヨに睨まれると諦めたのか指を載せた。
「人間じゃないものでもね、こっくりさんは神様なの。だから大丈夫。でも妖怪は駄目。」
「コックリさんって神様なの?」
「そう。神様なの。迷った時に色々教えてくれる。今日は3人居るからきっといつも以上に色々教えてくれるはず」
カヨが10円玉に指を載せたまま目を閉じると、うっすらと体が光ったように見えた。剣はそれが、千草が妖術を使った時と同じだと気づくと、このコックリさんが妙に信ぴょう性のあるものに思えた。
「コックリさん、コックリさん。おいでください」
カヨがそう言った途端、光は一瞬強くなり、10円玉が微かに動いた。
「おい小娘、その紙の書き方間違ってるだろう」
聞いたことのある声に顔をあげると、そこには白髪に緑色の瞳、着流し姿に耳がぴょこっと見えている、剣が見慣れた妖かしの姿が浮いていた。。不機嫌なのか、彼の尻尾はビシビシと壁を叩いている。
「げ、常磐!!!」
「『げ』とはなんだ、犬。」
「犬じゃねぇよ!犬はお前だろう!」
「犬ではない。狼だ。いや、今は狗神代理だな。」
うっかり10円玉から指を離しそうになりながら、剣は盛大に吠えた。両隣の珊瑚やカヨにも常磐の姿は見えているようで、二人とも目を見開いて常磐を見ていた。次第にカヨは嬉しそうな表情になり、それから用紙を見てしょんぼりと眉を下げた。
紙の内容が間違っていると言われたのがショックだったのだろうが、剣からしてみれば常磐の言葉に耳を貸す必要など全くない。
「で、何が知りたいんだ、小娘よ」
常磐が側に居ない方が狗谷ミヤは悪さが出来ないのだろうかとか、側に居ないことで拗ねて何かしでかさないかだとか。そういったことが頭の中でぐるぐると回って整理できない。
ニンマリと笑ってみせた常磐に、剣は一抹の不安を感じながらもカヨの言葉を待つしか無かった。
2015/03/05 今昔
2015年3月2日月曜日
【仮想大江戸】番外編 親世代編「艶やかなる一族」
今は昔、竹取の翁よりもはるか昔の話である。
平安とよばれたまこと雅なる時代に入る前、日本という国はいくつかの家々が支配していた。江戸を治める嘉萩家とそれを守護する風魔一族。遠江(とおとうみ)に住まう一色家と七色家、さらに京を守護する紅家と親しい甲賀一族、東北の地を治める蒼天一族。その他にも大小様々な地方領主によって均衡を保っていた日本で、その薄い壁を破ろうとする者は少なくなかった。
いつしか、一色と七色はほとんど同じ血族となり、蒼天一族が勢いを弱め、嘉萩家が関東を集中に収めるようになり、紅家が江戸に分家を置くようになる。これが大江戸歴のはじめのお話である。
【 仮想大江戸 お伽話 親世代編「艶やかなる一族」 】
そんな竹取物語から時代は流れ、大江戸歴は1900年台も後半に入っていた。
一色、といえば、日本の中程に位置する遠江を治める一門の当主として有名な家柄である。大江戸歴が始まる前から続くとも言われるそれは、この大江戸歴1960年台でも変わらない栄誉を誇っている。一色絢音は、そのことに誇りを持っていると言っても良い。
一族特有の青い髪の毛と瞳は、どこにっても注目の的であり、ちょっとの問題であれば周囲が勝手に解決してくれる。それは一族が代々、統治や地方産業である農業に工業、繊維機械系を一手に守っていることからくるものであり、絢音がこれからも守らねばと思うものである。
と、周囲は絢音のことはそう信じてやまないだろう。
「馬鹿じゃないかしらねぇ、本当に」
大きなあくびとともにそう言うと、絢音は邪魔な前髪を耳にかけた。この河川敷は気持ち良い風が吹くのが好きで、学校帰りによくこうして暇をつぶすのだ。ここの辺りは近所では少し治安が悪いといわれていて、一族の人間は近寄らない。逆に絢音が居ても「いつも人に囲まれていて大変なのね」と変に気を使って誰も寄ってこない。
代々地方産業を行っている企業に出資していることは事実だし、一族の人間がそういった会社に多く務めているのも確かだ。しかしそれを誇りに思うのではなく、驕り己の私腹を肥やすことを考える人間が多い。政略結婚で愛のない夫婦も多く、かくいう絢音も双子である樹音も婚約者が居る。
そんな一族を好きになれ?誇りに思え?周りはいつも無茶なことを言うもので、絢音は17歳という年齢で既に諦めを覚えている。双子の樹音は伸ばし続けている一族の象徴とも言える青髪も、絢音はなんだか気に食わなくて切ってしまった。あの時の両親の顔を思い出すだけでも腹が捩れるほどに笑いがこみ上げてくる。
「馬鹿は絢音でしょう?そうやって皆をおちょくって遊んでばかり。」
ひざ上まで丈を短くした着物の裾を抑えながら、見た目は絢音にそっくりな少女が隣に座り込んだ。言うまでもなく仲の良い双子の樹音であり、地面にすりそうな丈の着物にスリットを入れている絢音とは正反対な性格は大変に好ましい。
「だって。先週末婚約者の方にお会いしたでしょう?何よあれ、気持ちの悪い声をして…ありえないわ」
「でも、収入が安定してるイケメンでしょう?良いじゃない。将来安泰」
「無理!あんな気味の悪い声の人と暮らしていくだなんて無理!ぜったいに嫌!」
「じゃぁ、誰なら良いの?」
「一族に居るわけがないでしょう?私のお眼鏡に叶う良い声の男性だなんて」
「あらあら、ふふっ。知ってるのよ?寺子屋の望月様、良い声だって言ってたでしょう?」
「同い年くらいの連中なら、って話よ。もっと低くて優しい声の人が良い。ついでに財力があって顔が悪くなければ良い」
はーあと盛大なため息をついて寝転がると、隣で樹音がまたもや声をあげて笑った。くすくすという笑い方は、樹音の穏やかな性格によく合っていると思う。双子だというのに、どちらかというと大人っぽいと言われることが多い絢音と、歳相応で清楚で純粋と言われる樹音とではタイプが違いすぎる。もちろん言い寄ってくる男性も違う。
そういえば最近は10も年上の男性に求婚されたっけなぁと思い出していると、歪な形の雲が流れていった。あの形、なんとなく気に食わない。
「でも望月様は良い候補なのね、覚えておくわ。ところで、絢音ってばよくここに来るみたいだけれど、この辺りは治安が悪いから気をつけた方が良いわよ。早く帰りましょう」
隣で樹音が立ち上がり、着物のおしりについた草をぽんぽんと払った。絢音も両親がうるさく言う前に帰ろうかと立ち上がり、そこで違和感を覚えた。
「一般人としてはなかなかだ」
そう言われたと気づいた時には、顔に何か麻袋のようなものを被せられたのか視界は塞がれ、両手両足を縛り上げられる感覚があった。何をするの!と叫んだが、地面から足が離れてお腹に衝撃が走った。
周囲で男性が「手厚く扱え」と言っているのが聞こえる。なかなかに良い声じゃないかと思った次の瞬間には自分の足の方向に進んでいくのを感じた。どうやら俵担ぎでどこかに運ばれているらしい。
絢音はしまったと思うと同時に、必死に足音を数えた。4人分だろうか。ということは、一緒に居た樹音も一緒にさらわれている可能性がたかい。地元でも名高い家の娘だ。身代金目的の誘拐があってもおかしくない。
試しに顔を蹴ってやろうかと足を動かしてみたが、膝裏に手を添えられて終わりだった。
「ちょっと、あの…降ろしていただくか、もう少しっ…丁寧に運んでくださいませんか?」
絢音の前方、進行方向の反対から樹音の声がした。すぐに「ありがとうございます。」と続いたので、何か抱えられ方に変わりがあったのだろう。絢音は樹音の声に少しだけ冷静さが戻るのを自覚しながら、どうにか息を吸い込んだ。それから出来る限り落ち着いて聞こえるよう、自分を運ぶ人間と並走している人間が居るあたりに向かって言った。
「貴方がた、私たちをどうするおつもりなのかしら?」
しばし考えるような間があったが、すぐに男性の声が返ってきた。
「一色樹音の方は平穏に埋もれていたかったようだが、お前はこういう異常事態を待ち望んで居たのだろう?ならばこの事態を喜んで受け入れるが良い。何、悪いようにはしないさ」
はじめに、二人のことを丁重に扱えと言った声と同じだ。
絢音は仕方なしに返事もせずに黙りこみ、彼らの目的地へつくのを待つことにした。
運ばれているうちに酔わなかったのは奇跡だと知ったのは、板の間六畳ほどの部屋へ投げ出された時に樹音が青い顔をしているのを見てからだった。目隠しはされなかったものの手足の拘束はそのままで、二人はひんやりとした床の上で身を寄せ合った。
降ろされた時に見えたのは、緑色の縁取りがされた忍び装束で、世間のことにあまり興味が無かった二人でも分かったことがあった。自分たちは風魔の忍びにさらわれたのだ。
「風魔一族、だよね」
「そうね、でもあの家って確か江戸の嘉萩家と密着しているんじゃなかったかしら?どうして私達を?嘉萩家の邪魔になるような存在なのかしら。江戸からこっちに向けて領地を広げたい、とか」
絢音の言う予想が正しいかどうかは分からないし、かと言って何か喋っていないと落ち着いて居ることは難しかった。
二人が他愛もないことを話しているうちに、忍び装束の女性がなになら竹で出来た衣装箱のようなものを持って入ってきた。彼女は間違うことなく絢音の方を見ると、懐から短刀を取り出して手足の拘束を切った。縛られていたところは少し赤くなっているものの、そう跡は残らなさそうだ。
「こちらに着替えて下さい。若様がお呼びです」
「……分かりました」
逆らっても良いことはないだろうと、差し出された衣装箱を開くと、中には深緑色の美しい着物が収められていた。深い青髪と合いそうな金色の簪も入っている。
「絢音、行くの?」
「行かなくちゃ何も始まらないじゃない」
「オカシイわ。だって……だって、相手は…」
オカシイのは樹音の方だ。
絢音はその言葉をすんでで飲み込むと、さっと着替えを済ませることにした。先ほどあの男性に言われたばかりだ。樹音は普通が一番だというが、絢音は一色家の普通を壊してやりたい。だったら、絢音が出て行って要求を聞き、樹音だけでも元の場所へ帰してやるのが正解だろう。
双子だからといって、何から何まで同じでなくてはならない道理はない。
着替え終えると、やはり全体的に落ち着いた色合いで大人っぽく、かつ質もなかなかに良いものであることが伺える。絢音は気が引き締まる思いで女性の後ろについて部屋を後にした。背後から樹音が呼ぶ声が聞こえたが、聞こえないフリを決め込んだ。
女性の後ろを歩いて行くと、この建物はちょっとした城と呼んでも良いほどに広い屋敷であるらしい。階段を登って長い廊下を歩き、右へ左へ歩くうちに、絢音は先ほど居た場所へ戻れる自信は早々に失った。
女性は1つの部屋の前で膝をつくと、中へ向かって声をかけた。s
「若様、一色絢音をお連れいたしました。」
無言で内側から襖が開けられ、部屋の中に二人の男性が居るのが見えた。一人は初老と言える、絢音の両親と同じくらいの年齢で、もう一人は絢音より少し年上であろう青年だった。
「一色絢音、手荒なマネをしてすまないな。息子にはキツく言い聞かせた、女性は丁重に扱えと」
初老の男性の言葉で、彼らが親子であるとわかると、絢音には二人がそっくりに見えてきた。もちろん、同じ忍び装束で同じような髪型をしているからかもしれない。
黒に緑色の縁取りがされた装束と、真っ白な白髪、それから緑色の瞳。どれも美しいと思わされる。それを言えばきっと樹音に「オカシイ」と言われるのだろうが、絢音にはそれらが美しく見えた。
「いえ、構いません。それよりも、わたくしをここへお呼びになった理由を伺えませんか。」
絢音の言葉に、初老の男性は楽しそうに笑うと対面にある座布団を進めてきた。絢音は逆らうこともなく、いつも家で言われる通りにそっと座った。
「私の名は風魔小太郎。これは息子の木賊(とくさ)だ。」
「一色絢音と申します。」
「我々が誰の依頼で動いているか、検討が付いているのではないかね?どうだい、お嬢さん」
風魔小太郎と名乗ったそれに、彼がこの一族の当主であることが分かり、絢音は自分の名前すら言うだけで声が裏返りそうになった。
「いえ…風魔は江戸の嘉萩と親しいと聞きますが、嘉萩が一色に手を出す理由が分かりません。」
「なるほど。正解は甲賀だ」
「……信じません」
「何故?」
「忍びがそう簡単に雇い主を明かすとは思えませんので。この場で私を殺すおつもりなら分かりませんが。」
シンと、静寂が耳に痛くなるほどに響いた。
背後の女性はいつの間に消えたのか気配は無く、癖のある白髪を後頭部で結わえた木賊と呼ばれた息子も動く気配はない。誰かが発する衣擦れの音も無く、ただ自分の呼吸音だけが大きく聞こえる。
相手からのプレッシャーがこんなにも辛いと感じたのは、自分のイタズラがバレて父親に怒られた10歳の誕生日以降はじめてだった。
「父上、俺が説明しよう」
沈黙を破ったのは、想定外にも木賊であった。座ったままで少し前へ出てくると、父親である風魔小太郎の返事も待たずに絢音と視線をあわせ、口を開く。
「今回の件、元凶は甲賀の一部と癒着している望月家だ。」
「…は?」
「あの家は甲賀忍者へ2つの命令を行っている。一色の娘二人を拉致すること。そして辱めて殺せと言われている。」
「あの望月家が?我が家を?呆れた。叔父上があの家の工場を僻地へ追いやったからって、本家筋の私達に手を出すだなんて、少し頭が足りないように思うわ」
「俺も同意見だ。そこで、本来甲賀を従えている紅家と甲賀本筋から依頼があった。風魔で二人を保護してくれと」
絢音は言葉の端々から、甲賀という一族が恐らく2つに割れているのだろうと考えた。紅の家は元より「色彩家」と呼ばれる色を家名に持つ家であり、一色とは交流がある。
「元の家へ戻すのは簡単だが、いつ甲賀に狙われるとも分からない。一旦は引くだろうが、問題はその後だ。忍びとの繋がりがない一族が撃退するには、甲賀はいささか大きすぎる」
「なるほど。…では、わたくしはここへ残りましょう」
木賊と風魔小太郎が驚いて目を見開いた様子が、絢音には愉快でならない。パッと思いついただけの案ではあるが、口にしてみる価値はあるだろうと、すっと伸ばした背中に誇りを精一杯に背負って言い放った。
「わたくしがここへ嫁入りすれば、一色の家も保護対象となりますね。それであれば、樹音の方は帰っても問題は有りますまい。見たところ、木賊様とわたくしは年の頃も近い様子。もちろん、風魔の長であらせられる小太郎様の元へと仰るのであれば、喜んでご奉仕いたしましょう」
「お前は…自分の身を差し出すのか?」
「くさっても血縁。我が一族を守るためなのであれば、わたくしはこの身を差し出すことに何の躊躇いもございません」
どうぞお側に置いてくださいまし、と丁寧に頭を下げる。相手が世間では恐れられる忍びの一族であるということは然程問題ではなく、それよりも絢音にとって重要なのは樹音を家へ帰してやることなのだ。こういった非現実的で愉快な出来事が好きな絢音とは違う。樹音は平穏を望む人間だ。だからこそ、絢音が残ることで樹音を家へ戻すのが最優先。
彼らが簡単に頷くとは思えないが、試して駄目なら次の手を試せば良い。次はどんな方法でここへ残ると言ってみようか。
「分かった。嫁に来い」
「木賊。お前は少し黙っておれ」
「親父、それは無理だ。身を挺してでも一族を守る。風魔に今必要な『感情』だと俺は思う。何よりこんなべっぴんさんが頭下げて頼んでるのに断るなんて、男がすたるぞ。あ、もう手遅れだったか?」
「青臭いガキが何を言う。」
絢音は二人にやりとりが想定の範囲外のそのまた外側であることに、笑うよりも唖然としてしまった。先ほどからずっと無表情だった木賊がそんな言い草をするとは思わなかったし、絢音の嫁入りという申し出を了承してくれたことも想定外だ。
「元より風魔は他族の血を入れぬ。そういう決まりだ。」
「ではその掟は俺が覆そう。桑染の家は俺がどうにかする。息子の晴れ姿が見たくないのか?」
まるで女の子のような言い分ではあるが、木賊の粘り強い言い訳に負けたのか、最終的に風魔小太郎も首を縦に振った。背後で女性の驚いた声があがり、絢音はまだ女性が居たのかと気づいた。何かと心臓に悪そうな一族ではあるが、これで一色の家を守ることができる。
今まで嫌っていた自分の家のためにどうしてここまでしてしまうのかは分からない。それでも絢音は今自分がしたことが、とても誇らしく感じるのだった。
◇ ◇ ◇
「ほら、次!……もう居ないのかしら?思ったよりも弱いのねぇ、風魔の中忍っていうのは。いいわ、上忍の方はいらっしゃいませんこと?私の実力が知りたいの、ご協力いただけませんかしら」
木賊は縁側に腰掛けて緑茶をすすりながら、どこか明後日の方向に目を向けた。
庭先では、一族の中でも平均的な能力を持っている「中忍」たちを相手に、絢音が手合わせを行っている。もちろん、本来忍びが得意とするような闇討ちや護衛ではなく、純粋な戦闘能力をぶつけあっている。
「おいおいおいおい!おねーさんが頑張ってるじゃねぇか!お前ら全員腰抜けかよ!オレがやってやらぁ!!」
確かあの者は愛染の家のものだっただろうか。絢音より年上の男性がノリノリで仕掛けていくも、軽く足払いされ背後を取られ、最後は「気づいたらこうなってました」というような顔で地面に転がっているのだ。
最初こそ、今さっき挑戦した男性のように、「里の外の人間と戦いたい」だの「一族以外がこの里に嫁ぐなんてありえない」だのと憤った連中が勝負を挑んでいた。しかし今は全員が全員遠巻きに絢音を見るばかりになっている。それもそうだ。中忍衆は決して弱くない。それをあっさり倒してしまう絢音の存在が非常識すぎて、どう関わって良いか分からなくなっているのだろう。
本来、風魔は忍びの三大勢力で唯一古い因習を守り続けている一族で、里の外の人間と比べると極端に感情が希薄だ。故に婚姻統制で愛情なき夫婦も多く、子供も義務感から産まれてくることが多い。木賊の両親のように恋愛結婚というのはごく稀だ。そしてその稀な両親を持つからこそ木賊も思う。出来るなら女性に惚れてみたいと。身を焦がすような思いを抱き、そんな相手を幸せにするために契りを交わしたいと。
絢音は強い。木賊が守る必要があるか分からい程度には実力を持っている。どうやってあの身体能力を身につけたのかはまだ知らないが、向かってくる相手を的確に倒す強さも、その横顔に感じる凛々しさもとても好ましく思える。出来るなら、手の届く場所に置いておきたい。
「木賊!」
庭先で絢音が声をあげた。
「貴方が手合わせしてくださらない?もう誰も相手をしてくれないのよ、少しだけ、駄目?」
これから先、側に置きたい以上の感情を彼女へ抱くのかどうかは全く予想が出来ない。それでも木賊は、今絢音が自分を頼ってくれることが嬉しい。彼女の願いを叶えたいと思えることが嬉しい。
幼い頃に殺された感情がこれからどうなっていくのか。絢音の隣で確かめたいと、そう願うばかりだ。
2015/03/02 今昔
平安とよばれたまこと雅なる時代に入る前、日本という国はいくつかの家々が支配していた。江戸を治める嘉萩家とそれを守護する風魔一族。遠江(とおとうみ)に住まう一色家と七色家、さらに京を守護する紅家と親しい甲賀一族、東北の地を治める蒼天一族。その他にも大小様々な地方領主によって均衡を保っていた日本で、その薄い壁を破ろうとする者は少なくなかった。
いつしか、一色と七色はほとんど同じ血族となり、蒼天一族が勢いを弱め、嘉萩家が関東を集中に収めるようになり、紅家が江戸に分家を置くようになる。これが大江戸歴のはじめのお話である。
【 仮想大江戸 お伽話 親世代編「艶やかなる一族」 】
そんな竹取物語から時代は流れ、大江戸歴は1900年台も後半に入っていた。
一色、といえば、日本の中程に位置する遠江を治める一門の当主として有名な家柄である。大江戸歴が始まる前から続くとも言われるそれは、この大江戸歴1960年台でも変わらない栄誉を誇っている。一色絢音は、そのことに誇りを持っていると言っても良い。
一族特有の青い髪の毛と瞳は、どこにっても注目の的であり、ちょっとの問題であれば周囲が勝手に解決してくれる。それは一族が代々、統治や地方産業である農業に工業、繊維機械系を一手に守っていることからくるものであり、絢音がこれからも守らねばと思うものである。
と、周囲は絢音のことはそう信じてやまないだろう。
「馬鹿じゃないかしらねぇ、本当に」
大きなあくびとともにそう言うと、絢音は邪魔な前髪を耳にかけた。この河川敷は気持ち良い風が吹くのが好きで、学校帰りによくこうして暇をつぶすのだ。ここの辺りは近所では少し治安が悪いといわれていて、一族の人間は近寄らない。逆に絢音が居ても「いつも人に囲まれていて大変なのね」と変に気を使って誰も寄ってこない。
代々地方産業を行っている企業に出資していることは事実だし、一族の人間がそういった会社に多く務めているのも確かだ。しかしそれを誇りに思うのではなく、驕り己の私腹を肥やすことを考える人間が多い。政略結婚で愛のない夫婦も多く、かくいう絢音も双子である樹音も婚約者が居る。
そんな一族を好きになれ?誇りに思え?周りはいつも無茶なことを言うもので、絢音は17歳という年齢で既に諦めを覚えている。双子の樹音は伸ばし続けている一族の象徴とも言える青髪も、絢音はなんだか気に食わなくて切ってしまった。あの時の両親の顔を思い出すだけでも腹が捩れるほどに笑いがこみ上げてくる。
「馬鹿は絢音でしょう?そうやって皆をおちょくって遊んでばかり。」
ひざ上まで丈を短くした着物の裾を抑えながら、見た目は絢音にそっくりな少女が隣に座り込んだ。言うまでもなく仲の良い双子の樹音であり、地面にすりそうな丈の着物にスリットを入れている絢音とは正反対な性格は大変に好ましい。
「だって。先週末婚約者の方にお会いしたでしょう?何よあれ、気持ちの悪い声をして…ありえないわ」
「でも、収入が安定してるイケメンでしょう?良いじゃない。将来安泰」
「無理!あんな気味の悪い声の人と暮らしていくだなんて無理!ぜったいに嫌!」
「じゃぁ、誰なら良いの?」
「一族に居るわけがないでしょう?私のお眼鏡に叶う良い声の男性だなんて」
「あらあら、ふふっ。知ってるのよ?寺子屋の望月様、良い声だって言ってたでしょう?」
「同い年くらいの連中なら、って話よ。もっと低くて優しい声の人が良い。ついでに財力があって顔が悪くなければ良い」
はーあと盛大なため息をついて寝転がると、隣で樹音がまたもや声をあげて笑った。くすくすという笑い方は、樹音の穏やかな性格によく合っていると思う。双子だというのに、どちらかというと大人っぽいと言われることが多い絢音と、歳相応で清楚で純粋と言われる樹音とではタイプが違いすぎる。もちろん言い寄ってくる男性も違う。
そういえば最近は10も年上の男性に求婚されたっけなぁと思い出していると、歪な形の雲が流れていった。あの形、なんとなく気に食わない。
「でも望月様は良い候補なのね、覚えておくわ。ところで、絢音ってばよくここに来るみたいだけれど、この辺りは治安が悪いから気をつけた方が良いわよ。早く帰りましょう」
隣で樹音が立ち上がり、着物のおしりについた草をぽんぽんと払った。絢音も両親がうるさく言う前に帰ろうかと立ち上がり、そこで違和感を覚えた。
「一般人としてはなかなかだ」
そう言われたと気づいた時には、顔に何か麻袋のようなものを被せられたのか視界は塞がれ、両手両足を縛り上げられる感覚があった。何をするの!と叫んだが、地面から足が離れてお腹に衝撃が走った。
周囲で男性が「手厚く扱え」と言っているのが聞こえる。なかなかに良い声じゃないかと思った次の瞬間には自分の足の方向に進んでいくのを感じた。どうやら俵担ぎでどこかに運ばれているらしい。
絢音はしまったと思うと同時に、必死に足音を数えた。4人分だろうか。ということは、一緒に居た樹音も一緒にさらわれている可能性がたかい。地元でも名高い家の娘だ。身代金目的の誘拐があってもおかしくない。
試しに顔を蹴ってやろうかと足を動かしてみたが、膝裏に手を添えられて終わりだった。
「ちょっと、あの…降ろしていただくか、もう少しっ…丁寧に運んでくださいませんか?」
絢音の前方、進行方向の反対から樹音の声がした。すぐに「ありがとうございます。」と続いたので、何か抱えられ方に変わりがあったのだろう。絢音は樹音の声に少しだけ冷静さが戻るのを自覚しながら、どうにか息を吸い込んだ。それから出来る限り落ち着いて聞こえるよう、自分を運ぶ人間と並走している人間が居るあたりに向かって言った。
「貴方がた、私たちをどうするおつもりなのかしら?」
しばし考えるような間があったが、すぐに男性の声が返ってきた。
「一色樹音の方は平穏に埋もれていたかったようだが、お前はこういう異常事態を待ち望んで居たのだろう?ならばこの事態を喜んで受け入れるが良い。何、悪いようにはしないさ」
はじめに、二人のことを丁重に扱えと言った声と同じだ。
絢音は仕方なしに返事もせずに黙りこみ、彼らの目的地へつくのを待つことにした。
運ばれているうちに酔わなかったのは奇跡だと知ったのは、板の間六畳ほどの部屋へ投げ出された時に樹音が青い顔をしているのを見てからだった。目隠しはされなかったものの手足の拘束はそのままで、二人はひんやりとした床の上で身を寄せ合った。
降ろされた時に見えたのは、緑色の縁取りがされた忍び装束で、世間のことにあまり興味が無かった二人でも分かったことがあった。自分たちは風魔の忍びにさらわれたのだ。
「風魔一族、だよね」
「そうね、でもあの家って確か江戸の嘉萩家と密着しているんじゃなかったかしら?どうして私達を?嘉萩家の邪魔になるような存在なのかしら。江戸からこっちに向けて領地を広げたい、とか」
絢音の言う予想が正しいかどうかは分からないし、かと言って何か喋っていないと落ち着いて居ることは難しかった。
二人が他愛もないことを話しているうちに、忍び装束の女性がなになら竹で出来た衣装箱のようなものを持って入ってきた。彼女は間違うことなく絢音の方を見ると、懐から短刀を取り出して手足の拘束を切った。縛られていたところは少し赤くなっているものの、そう跡は残らなさそうだ。
「こちらに着替えて下さい。若様がお呼びです」
「……分かりました」
逆らっても良いことはないだろうと、差し出された衣装箱を開くと、中には深緑色の美しい着物が収められていた。深い青髪と合いそうな金色の簪も入っている。
「絢音、行くの?」
「行かなくちゃ何も始まらないじゃない」
「オカシイわ。だって……だって、相手は…」
オカシイのは樹音の方だ。
絢音はその言葉をすんでで飲み込むと、さっと着替えを済ませることにした。先ほどあの男性に言われたばかりだ。樹音は普通が一番だというが、絢音は一色家の普通を壊してやりたい。だったら、絢音が出て行って要求を聞き、樹音だけでも元の場所へ帰してやるのが正解だろう。
双子だからといって、何から何まで同じでなくてはならない道理はない。
着替え終えると、やはり全体的に落ち着いた色合いで大人っぽく、かつ質もなかなかに良いものであることが伺える。絢音は気が引き締まる思いで女性の後ろについて部屋を後にした。背後から樹音が呼ぶ声が聞こえたが、聞こえないフリを決め込んだ。
女性の後ろを歩いて行くと、この建物はちょっとした城と呼んでも良いほどに広い屋敷であるらしい。階段を登って長い廊下を歩き、右へ左へ歩くうちに、絢音は先ほど居た場所へ戻れる自信は早々に失った。
女性は1つの部屋の前で膝をつくと、中へ向かって声をかけた。s
「若様、一色絢音をお連れいたしました。」
無言で内側から襖が開けられ、部屋の中に二人の男性が居るのが見えた。一人は初老と言える、絢音の両親と同じくらいの年齢で、もう一人は絢音より少し年上であろう青年だった。
「一色絢音、手荒なマネをしてすまないな。息子にはキツく言い聞かせた、女性は丁重に扱えと」
初老の男性の言葉で、彼らが親子であるとわかると、絢音には二人がそっくりに見えてきた。もちろん、同じ忍び装束で同じような髪型をしているからかもしれない。
黒に緑色の縁取りがされた装束と、真っ白な白髪、それから緑色の瞳。どれも美しいと思わされる。それを言えばきっと樹音に「オカシイ」と言われるのだろうが、絢音にはそれらが美しく見えた。
「いえ、構いません。それよりも、わたくしをここへお呼びになった理由を伺えませんか。」
絢音の言葉に、初老の男性は楽しそうに笑うと対面にある座布団を進めてきた。絢音は逆らうこともなく、いつも家で言われる通りにそっと座った。
「私の名は風魔小太郎。これは息子の木賊(とくさ)だ。」
「一色絢音と申します。」
「我々が誰の依頼で動いているか、検討が付いているのではないかね?どうだい、お嬢さん」
風魔小太郎と名乗ったそれに、彼がこの一族の当主であることが分かり、絢音は自分の名前すら言うだけで声が裏返りそうになった。
「いえ…風魔は江戸の嘉萩と親しいと聞きますが、嘉萩が一色に手を出す理由が分かりません。」
「なるほど。正解は甲賀だ」
「……信じません」
「何故?」
「忍びがそう簡単に雇い主を明かすとは思えませんので。この場で私を殺すおつもりなら分かりませんが。」
シンと、静寂が耳に痛くなるほどに響いた。
背後の女性はいつの間に消えたのか気配は無く、癖のある白髪を後頭部で結わえた木賊と呼ばれた息子も動く気配はない。誰かが発する衣擦れの音も無く、ただ自分の呼吸音だけが大きく聞こえる。
相手からのプレッシャーがこんなにも辛いと感じたのは、自分のイタズラがバレて父親に怒られた10歳の誕生日以降はじめてだった。
「父上、俺が説明しよう」
沈黙を破ったのは、想定外にも木賊であった。座ったままで少し前へ出てくると、父親である風魔小太郎の返事も待たずに絢音と視線をあわせ、口を開く。
「今回の件、元凶は甲賀の一部と癒着している望月家だ。」
「…は?」
「あの家は甲賀忍者へ2つの命令を行っている。一色の娘二人を拉致すること。そして辱めて殺せと言われている。」
「あの望月家が?我が家を?呆れた。叔父上があの家の工場を僻地へ追いやったからって、本家筋の私達に手を出すだなんて、少し頭が足りないように思うわ」
「俺も同意見だ。そこで、本来甲賀を従えている紅家と甲賀本筋から依頼があった。風魔で二人を保護してくれと」
絢音は言葉の端々から、甲賀という一族が恐らく2つに割れているのだろうと考えた。紅の家は元より「色彩家」と呼ばれる色を家名に持つ家であり、一色とは交流がある。
「元の家へ戻すのは簡単だが、いつ甲賀に狙われるとも分からない。一旦は引くだろうが、問題はその後だ。忍びとの繋がりがない一族が撃退するには、甲賀はいささか大きすぎる」
「なるほど。…では、わたくしはここへ残りましょう」
木賊と風魔小太郎が驚いて目を見開いた様子が、絢音には愉快でならない。パッと思いついただけの案ではあるが、口にしてみる価値はあるだろうと、すっと伸ばした背中に誇りを精一杯に背負って言い放った。
「わたくしがここへ嫁入りすれば、一色の家も保護対象となりますね。それであれば、樹音の方は帰っても問題は有りますまい。見たところ、木賊様とわたくしは年の頃も近い様子。もちろん、風魔の長であらせられる小太郎様の元へと仰るのであれば、喜んでご奉仕いたしましょう」
「お前は…自分の身を差し出すのか?」
「くさっても血縁。我が一族を守るためなのであれば、わたくしはこの身を差し出すことに何の躊躇いもございません」
どうぞお側に置いてくださいまし、と丁寧に頭を下げる。相手が世間では恐れられる忍びの一族であるということは然程問題ではなく、それよりも絢音にとって重要なのは樹音を家へ帰してやることなのだ。こういった非現実的で愉快な出来事が好きな絢音とは違う。樹音は平穏を望む人間だ。だからこそ、絢音が残ることで樹音を家へ戻すのが最優先。
彼らが簡単に頷くとは思えないが、試して駄目なら次の手を試せば良い。次はどんな方法でここへ残ると言ってみようか。
「分かった。嫁に来い」
「木賊。お前は少し黙っておれ」
「親父、それは無理だ。身を挺してでも一族を守る。風魔に今必要な『感情』だと俺は思う。何よりこんなべっぴんさんが頭下げて頼んでるのに断るなんて、男がすたるぞ。あ、もう手遅れだったか?」
「青臭いガキが何を言う。」
絢音は二人にやりとりが想定の範囲外のそのまた外側であることに、笑うよりも唖然としてしまった。先ほどからずっと無表情だった木賊がそんな言い草をするとは思わなかったし、絢音の嫁入りという申し出を了承してくれたことも想定外だ。
「元より風魔は他族の血を入れぬ。そういう決まりだ。」
「ではその掟は俺が覆そう。桑染の家は俺がどうにかする。息子の晴れ姿が見たくないのか?」
まるで女の子のような言い分ではあるが、木賊の粘り強い言い訳に負けたのか、最終的に風魔小太郎も首を縦に振った。背後で女性の驚いた声があがり、絢音はまだ女性が居たのかと気づいた。何かと心臓に悪そうな一族ではあるが、これで一色の家を守ることができる。
今まで嫌っていた自分の家のためにどうしてここまでしてしまうのかは分からない。それでも絢音は今自分がしたことが、とても誇らしく感じるのだった。
◇ ◇ ◇
「ほら、次!……もう居ないのかしら?思ったよりも弱いのねぇ、風魔の中忍っていうのは。いいわ、上忍の方はいらっしゃいませんこと?私の実力が知りたいの、ご協力いただけませんかしら」
木賊は縁側に腰掛けて緑茶をすすりながら、どこか明後日の方向に目を向けた。
庭先では、一族の中でも平均的な能力を持っている「中忍」たちを相手に、絢音が手合わせを行っている。もちろん、本来忍びが得意とするような闇討ちや護衛ではなく、純粋な戦闘能力をぶつけあっている。
「おいおいおいおい!おねーさんが頑張ってるじゃねぇか!お前ら全員腰抜けかよ!オレがやってやらぁ!!」
確かあの者は愛染の家のものだっただろうか。絢音より年上の男性がノリノリで仕掛けていくも、軽く足払いされ背後を取られ、最後は「気づいたらこうなってました」というような顔で地面に転がっているのだ。
最初こそ、今さっき挑戦した男性のように、「里の外の人間と戦いたい」だの「一族以外がこの里に嫁ぐなんてありえない」だのと憤った連中が勝負を挑んでいた。しかし今は全員が全員遠巻きに絢音を見るばかりになっている。それもそうだ。中忍衆は決して弱くない。それをあっさり倒してしまう絢音の存在が非常識すぎて、どう関わって良いか分からなくなっているのだろう。
本来、風魔は忍びの三大勢力で唯一古い因習を守り続けている一族で、里の外の人間と比べると極端に感情が希薄だ。故に婚姻統制で愛情なき夫婦も多く、子供も義務感から産まれてくることが多い。木賊の両親のように恋愛結婚というのはごく稀だ。そしてその稀な両親を持つからこそ木賊も思う。出来るなら女性に惚れてみたいと。身を焦がすような思いを抱き、そんな相手を幸せにするために契りを交わしたいと。
絢音は強い。木賊が守る必要があるか分からい程度には実力を持っている。どうやってあの身体能力を身につけたのかはまだ知らないが、向かってくる相手を的確に倒す強さも、その横顔に感じる凛々しさもとても好ましく思える。出来るなら、手の届く場所に置いておきたい。
「木賊!」
庭先で絢音が声をあげた。
「貴方が手合わせしてくださらない?もう誰も相手をしてくれないのよ、少しだけ、駄目?」
これから先、側に置きたい以上の感情を彼女へ抱くのかどうかは全く予想が出来ない。それでも木賊は、今絢音が自分を頼ってくれることが嬉しい。彼女の願いを叶えたいと思えることが嬉しい。
幼い頃に殺された感情がこれからどうなっていくのか。絢音の隣で確かめたいと、そう願うばかりだ。
2015/03/02 今昔
登録:
投稿 (Atom)