不思議な朝であった。梔子徹は兄がまだ眠っていることを確認して、二段ベッドの下の段へと頭を引っ込めた。それからごそごそと着替えを済ませると、ベランダへと出てみた。
その日はいつもよりもスッキリと目覚めることが出来たのだが、どうにも外の様子がオカシイのだ。一面霧のような白いものが漂っており、5メートル先は既に見えないような視界の悪さだ。これも妖怪のしわざなのだろうかと海里に訪ねようかと部屋を振り返ったが、生憎と梔子家に住み着く妖怪・海里は猫又で、今はまだぐっすりと夢の中だ。
徹がもう一度ベランダから外を見渡そうとすると、更に不思議なことがおきた。そこにあったはずのベランダの柵がなくなっているのだ。なんだろうかと手を伸ばしてみるが、上下に振っても左右に振っても、そこに柵はない。ベランダであったはずのその場所は、まるで廊下のように前方へと続いているようだった。
徹はその不思議な光景に心惹かれるように、足を踏み出した。
【 仮想百鬼夜行 犬神奇譚 02 】
「剣ー、徹と一緒に朝ごはん食べに来なさい」
キッチンの方から聞こえた母親の声で目覚めると、剣は二段ベッドの上段から上半身だけをブランと乗り出して、下段を覗きこんだ。徹は剣よりもはるかに朝は強い。起きないことも無いだろうが、剣がこうして起床の確認をするのは日課だ。
ところが今日は、その徹が見当たらない。慌てて上半身をベッドの上へ戻すと、2つ並んだ勉強机にまだ学校用のリュックが置いてあるのが見える。まだ学校には向かっていないらしい。
「母さん!徹もう起きてるんじゃないの?」
「え?こっちには居ないわよ。…徹ー、どこに居るのー?」
キッチンで料理をしながら呼んでいるらしい母親の声に、徹は全く反応しない。そして剣は、そういえばと勉強机の隣にある海里の寝床を覗きこんだ。
海里は梔子家に住み着いている猫又だ。昔誰かが飼っていた猫が長生きし、偶然にも猫又になったのだと本人(本猫?)は言っていた。彼女とは先日、危ない妖怪に襲われた際に会話が出来ることが判明している。彼女なら何か徹が早起きした様子を見ていないかと思い立ったのだ。
「海里、徹知らないか?」
「……にゃー」
「いや、にゃーじゃなくてさ。徹は?」
「きしゃー!」
海里が全身の毛を逆立てている。人間の言葉がたしかに喋れるはずなのに、海里はしゃべろうとしない。
そのうち海里は剣とコミュニケーションを取ることを諦めたのか、面倒そうに顔をしかめると、ベランダへと続く出窓に前足でペシン!とぱんちを食らわせた。そして剣の方を振り向き、ペシン!振り向き…ペシン!
「お、おう。出たいのは分かった。」
慌ててベッドから降りて着替えると、剣は出窓を開けてやった。すると海里は警戒しているようにスンスンと匂いを嗅いでから、前足を片方だけチョンとベランダに触れた。そして剣もつられるように外の景色を見て、息を呑んだ。はじめて水族館でイルカを見た時のような高揚感と、それからはじめて妖怪に襲われた数週間前の出来事を思い出させる危機感。
ベランダから見える外の様子は、真っ白な霧がかった景色。手を目一杯伸ばしたら、指先は霞んで輪郭がおぼろげになった。慌てて廊下に走って行き、窓から外の様子を見てみるが特に変わった様子はない。もう一度自分たちの部屋に戻ってみると、出窓から白いモヤモヤが室内に入ってこようとしていた。
海里が前足でパタパタとモヤを追い返そうとしているのを見て、剣は慌てて海里を抱き上げると窓を閉めた。
「なんだ…これ……」
「にゃー」
部屋の中に残ってしまった白いモヤモヤは、しばらくすると空気に解けるように消えていった。一体何だったのだろう。子供部屋からベランダを覗いた時にだけ、どうやら霧がかかっているようだ。不思議なこともあるものだ、で片付けたいのはやまやまだったが、生憎と剣は妖かしという存在を知ってしまった身だ。
ましてその妖かしである海里が何か訴えるようにモヤモヤを警戒しており、しゃべることで意思疎通がとれるはずだったものが出来なくなっているということ。そのどちらもが剣を不安にさせた。
ともかく徹が居ないことを母親に伝えなくてはと立ち上がったところで、剣は気づいた。そういえば母親が徹や剣を呼ぶ声が聞こえない。海里を抱き上げたまま子供部屋から出ようとドアノブに手をかけ、
「嘘だろ…動かない……」
剣が全体重を使っても、ドアノブはぴくりとも回らなかった。これでは学校へも遅刻してしまうと時計を見やれば、時計の針はカチカチと音をたてているものの、ずっと同じ場所から動いていない。先ほどから7時5分と42秒のところで、秒針が痙攣したようにカチカチと音をたてている。
「どうしよう…」
「にゃー」
海里も困ったような鳴き声をあげ、二人で途方にくれるように視線を合わせると、
パタン
ベランダへの出窓が、開かれた。
そしてまた白いモヤモヤが部屋の中へと入ってき始めている。この部屋から出る場所はベランダへの出窓と廊下へのドアだけだ。あとはベランダをつたって隣にある両親の寝室へも移動できる。
剣は隣の部屋から家に戻れば良いかもしれないと、海里を抱き上げたままでベランダへと足を踏み出した。両足がベランダへと着くと、全身をゾワっと何かが駆け抜けていく。
「にゃ!」
静電気でもくらったかのような鳴き声をあげた海里に、剣は思わず半歩さがった。しかし、剣は躓くこともなく、更に数歩よろめいたまま下がってしまった。
そう、下がってしまったのだ。慌てて振り返るも事実が変わることはなく、そこには先ほどまであったはずの子供部屋も出窓のサッシも見えなかった。
「まじかよ…」
詰まる話、剣はどこか分からない白いモヤモヤの中に取り残されてしまったことになる。ここまで来てようやく、剣は海里に尋ねることなく外へ出てしまったことを悔いた。腕の中の海里に向かって謝罪すれば、彼女はよじよじと剣の腕から出て地面へ降り立った。
海里はすんすんと地面の匂いを嗅ぎ、嫌そうに顔をしかめながら歩き始める。そして少し進んだところで振り返ると、苛立ったように鳴いた。剣は慌てて海里のところまで駆け寄ると、焦るように進む彼女に置いていかれないようにとせっせか足を動かした。
◇ ◇ ◇
「若」
麗奈はキーボードを叩いていた手を止めて、短く声をかけた。九尾である彼女にとって人間に化けるのは他愛もないことではあるが、しかし今感じられる禍々しい気配にはスーツのスカートの上から尻尾が出てきてしまいそうだった。妖かしとしてはそこそこに力のある麗奈が影響をうけるほどの何かが、今感じられたのだ。
しかし、麗奈の能力を持ってしても、距離があるのか妖かしであろうその気配の詳細を探ることは出来なかった。
「あぁ…この気配か。丁度、梔子議員の邸宅がある吉祥寺の方だね。やれやれ、やっかいなことになったものだ。これだから、人間に味方しない大妖怪っていうのは苦手だなぁ」
麗奈が若と呼んだ男性は、執務室でノートパソコンを忙しなく操作し、時折脇に置かれた書類にはんこを入れながら答えた。この部屋の主であり、麗奈の主である彼は、人間社会でいう「会社」という組織の一番えらい人なのだそうだ。麗奈はあくまでも妖かし専門の万屋「祓い屋」である彼に仕えているが、その傍らでこうして秘書のような仕事もこなす。
そう、人間社会にうまく溶けこんでこそ大妖怪を名乗れるのだ。
「こんな中級の妖かしが幅を利かせてるなんて…もうちょっと常磐の奴に動いてもらったほうが良いんじゃないかい?」
「いえ、奴はあの狗谷ミヤという個人のためにしか動きません。主人である狗谷嬢も、常磐のことは使い魔とは考えておらず、籠絡するのは難しいかと。若、それよりも私がまずは様子見に行きます」
「また『若』って呼んだね。そろそろ名前で呼んでくれても良いと思うんだけど…」
麗奈は「拗ねました!」と言わんばかりの表情で仕事の手を止めた彼に、盛大なため息をついてみせた。
「人間小僧の分際で…!…いえ、千草様、私が行ってまいります。」
若----清白千草は満足気に微笑むと、
「今日はオレも行くよ。梔子議員のご子息に恩を売っておくのも大事だからね」
「得になるのですか?」
「なるよ。あの家の兄弟だって、優秀な祓い屋になれる素質を備えている。特に弟の方が。それよりも狗谷の家が協力してくれたら、諸々の事件が早期解決できるんだが…」
「あの家は無理です、祓い屋ではなく呪術師なのですから…」
麗奈が忌々しい妖怪・常磐とそれが仕える少女を思い出して舌打ちすると、千草はそれをたしなめてからスーツを脱いだ。動きやすいラフな格好に着替えると、執務室の前にかかっていた札を「留守中」に変え、社屋を後にした。
◇ ◇ ◇
常磐は膝の上でくつろぎ本を読んでいるミヤを抱き直すと、気配がした方向へと顔を向けた。随分と嫌な匂いがする妖かしが暴れているらしい。腐った卵を流して放置したシンクのような匂い、もしくは硫黄を古くなった野菜にかけてぬか漬けにしたような匂い。ともかく、とてつもなく嫌な匂いがする。
狗谷の家がある浅草は、古い寺院の影響で妖かしの能力は発揮しづらい。常磐にも、ここより過ごしやすい土地があることは確かであるが、主であるミヤに及ぶ危険を極力削るためには、この場所が良いのだ。
「常磐、腐れ神が出てるね」
ミヤは読みかけの本に栞を挟むと、ぱたんと音をたてて閉じた。それから眠たくなったのか、常磐の胸元にすりより、着物からはだけて見えた肌に頬を寄せた。肌同士の接触は安心するとテレビで見たことがあるが、ミヤも人間の性質に漏れ無く当てはまっているようだ。
常磐はミヤの頭をそっと撫でて抱き寄せてやると、眠ってしまわないようにと額に唇を寄せた。くすぐったそうに身じろいだミヤは、拗ねたように口を尖らせ咎めるように常磐の名前を呼んだ。
「行くのか?」
「行くよ。私たちのお仕事は、江戸の街を守ること。人間からも、妖かしからも。それらをまとめ、仮初でも平和を作るのがお仕事。」
ミヤの使命感は恐ろしいほど深く大きい。江戸の街を守らなくてはならないという決め事は、決して彼女を育てた祖父母の影響ではない。祖父母はむしろ、自分たちの富と名声のためにミヤを利用し、大量の妖かしを捕まえては売りさばいていたような人間だ。
彼女の願いならばなんでも叶えてやりたいと思うのだが、今回感じられる腐れ神の気配はとても大きい。それでも代々呪術師として活躍する狗谷の血を引き、常磐が取り憑いたことによりその能力が増大されているミヤであれば倒せるはずだ。だが、無傷で、となると難しいだろう。
行かせてなるものかと腕に力を込めれば、眉間にぐりぐりと指が押し付けられる。
「常磐、我が儘は駄目」
「我が儘なのはどちらだ」
「む……お仕事させてくれないなんて。私悪くないもん」
うごうごと呻きながら常磐の腕を抜けだしたミヤは、自室のタンスから唐紅色を見つけると引っ張り出し、常磐が見ているのを少し気にしながら着替え始めた。見慣れた着物姿に、彼女も腐れ神を本気で警戒しているのだと察することができる。正装は見た目だけの問題ではなく、気を綺麗に保ち戦いやすくしてくれる。
常磐はミヤが引く気がまったくもってないことを悟ると、深く深くため息をついてミヤの着替えが終わると同時に彼女を抱き上げた。当然ながら、自分の宿主を危険に晒すわけにはいかない。
「さて、行くか」
「わんこさん、れっつごー」
「俺は犬じゃない!」
◇ ◇ ◇
剣はあいも変わらず海里の後ろを追いかけていた。ともかく、海里の後ろをついていけば安全であるらしい。真っ白なモヤモヤの中、真っ白な床の上を歩いて行く。どこに続くか分からない道ではあるが、海里が先導してくれるというだけで、なんとなく安心できる。
「それにしても、本当に真っ白だよな。寒くないし暑くない。地面も冷たくないし熱くない。匂いもしないし…いや、匂いは…してる?」
「にゃ!」
「そうか、してるのか…」
剣は海里の様子を伺いながら、恐る恐ると足を進めていく。外に--というか、外かどうかも分からない場所にやってきてから、景色は一向に変わらない。かろうじて、剣たちの歩いている地面のような場所が3メートルほどの幅しか存在していないことが見て取れる程度だ。
海里は白い場所に出てから警戒しているものの、まっすぐに道を進み続けている。
ぐうううううう
遠くの方で、地鳴りのような、山道を走ったバイクの音が反響したような音が聞こえてきた。
「海里、なんか聞こえる…!」
「にゃあ!」
海里もその音が聞こえているのか、更に全身の毛を逆立てると前方に向かってキシャーと泣き声をあげた。すると徐々に周囲の白いモヤモヤが晴れていき、途端に鼻につーんとくるような匂いがした。夏場の生ごみのような匂いだ。
「なんだこれ…」
モヤが晴れた先に居たのは、用水路の汚泥とスライムを混ぜて山積みにしたようなドロドロの生き物だった。剣にそれが生き物と判断できたのは、恐らく口と思われる裂け目があり、そこに恐らく歯だと思われるギザギザがついていたからだ。
ドロドロと全身が流動しているその生き物が、剣の方に目を向けたような気がした。本能的に喰われると感じた。
「祓い給え、清め給え、六根清浄。救い給え、叶え給え、蒼天焔緋!」
剣の背後から、真っ青な炎がうずを巻いた。
海里はにゃん!と嬉しそうに泣き声をあげ、振り返ると同時に人間の姿に変化していた。剣が現状を把握出来る前に、背後から響いた高めな女性の声が再度何かを唱え始める。
「燃えゆるは、ゆるゆる葉。汝我を求めしは、我汝を求めん。燃えゆ、燃えゆ、星の数。燃えゆ、燃えゆ、我が錦。」
「麗奈、そのまま続けて!『急々如律令』」
真っ青な炎を纏った四足の生き物がドロドロの生き物に炎をぶつけ、その背後から和紙で出来たような紐が生き物に巻き付いていく。そこまで見て、剣はようやくあのドロドロが妖怪なのだと気づいた。
四足の生き物はとんと地面に足をつけると、途端にスーツを着こなした女性の姿になった。しかし、その頭からはピンと耳がたっていて腰骨の辺りからふさふさの尻尾が垂れている。
「九尾の狐だ…」
剣が小さく呟くと、その九尾の女性はチラリとこちらを見て優しく微笑んだ。九尾の女性の背後に居た男性がお札くらいのサイズの紙を掲げると、ブツブツと聞き取れない程度の声で何かを唱え始めた。
「剣、下がっておいで。あんたにゃ、まだあの腐れ神と戦う力がない。麗奈たちの足手まといになりたくなければ、私と一緒に大人しく下がるんだ。良いね?」
「分かった…」
剣は伸ばされた海里の手を握り返すと、麗奈と呼ばれた女性とその連れであるらしい男性の背後へと逃げ込んだ。ブチブチと音がして振り返ると、妖怪を捕らえていた和紙の紐が引きちぎられているらしい。引きちぎるというよりも、妖怪の表面を覆っている液体が紙を溶かしているように見えた。
不味いな、と小さく男性が呟いた時、妖怪がズズズと後退しはじめた。何事かとその場に居た4人全員が身構えると、どこからか聞いたことのある凛とした少女の声が響いた。
「宿りし者の力と念を、わが元においてこの元へと戻す。オカエリナサイ、わが元へ」
「これは…狗谷家の呪術かっ!」
男性が悲痛な叫びを上げると、ドロドロの液体だった妖怪はなにかに引っ張られるように後退していき、そしてひゅんと消えて無くなってしまった。剣には何が起きたのか全く分からなかったが、白い床のようなものの向こう側、丁度妖怪が居た反対側から赤い袴を身にまとった少女が歩いてきた。
赤と白のよくある神社の巫女さんのような格好に、邪魔そうな前髪が揺れている。その少女は両手で持てるほどのツボを持っていて、そのツボはカタカタと揺れていた。少女の背後から男性が現れるとツボを抑え、何かシールのようなものを貼り付けると揺れは収まっていく。
「久しぶりだな、ガキ」
少女の後ろから現れたのは、いつぞや剣を助けてくれた犬耳の男性だった。その片手には、
「徹!!」
朝から姿が見えていなかった徹が抱きかかえられていた。顔色は決してよくないが、どうやら眠っているらしく身体が上下している。
「こいつなら、もっと奥にいる腐れ神の本体と楽しげに遊んでいたのでな。とりあえず回収してきたまでだ」
「常磐、久しぶりだね。その子を返してもらおうか。お前のような悪党妖怪に抱かせておくのは心苦しいのでね」
「相変わらずの頭の硬さだな、千草。別に俺は悪党ではな
「常磐、早く清白さんに徹くんを渡して。その汚い手で触らないで」
「えっ…あ、はい……」
相変わらず少女----狗谷ミヤには逆らえないらしい犬耳の妖かし常磐は、素直に千草と呼んだ男性に徹を渡してきた。それでも徹は目覚めず、余程深い眠りについているらしい。
ミヤはツボを抱きかかえたままで、ゴミを見るような目で常磐を見上げて言った。
「何で腐れ神を素手で殴るの?汚い。洗ってきて」
「いや、だってあの場はあれが一番手っ取り早くあのガキを取り戻せたからであって、別に素手で触りたかったわけj
「言い訳無用、『天ありて 降(ふ)りたる国に 建速(たけはや)と成す』」
途端、
ドバー
たらいをひっくり返したように常磐の頭上から水が降ってきた。恐らくミヤの呪文で呼び出されたのだろう。ビショビショで耳も尻尾もしなだれている常磐が可哀想でもあるが、あの汚いドロドロに素手で触れたのなら仕方あるまい。徹を助けてくれたことに内心でお礼をいいつつ、剣もミヤと然程変わらない目で常磐を見た。
常磐は剣の視線に気づいたのか少しショックを受けた顔をしたが、すぐに気を取り直し千草に視線を向けた。釣られて剣も千草に目を向けると、彼はまた盛大なため息をつく。
「常磐、お前それでも歴史に何度も登場するような大妖怪だろう?もうちょっと、東京の街を守るために協力してくれてもいいんじゃないか?さもなくば、蹴落とされるのは狗谷の家だぞ?」
「狗谷?家がどうなろうと知ったことではない。俺が守るのはあくまでもミヤだ。狗谷という血に縛られているわけではない。」
「お前、相変わらず頭いいのに馬鹿だなおい。」
「ガキに言われたくないぞ、清白の血に縛り付けられてるガキに」
瞬間、その場の空気がピリリと電気を帯びたような気がした。剣は海里に繋がれた手をぎゅっと握りしめると、優しく頭を撫でられた。顔をあげると、九尾の女性がふんわりとほほえんでいる。
「よく頑張りましたね、剣。海里と話が出来ない状態で、よく生き延びてくれました」
「お姉さんは…?」
「私は麗奈。あそこに居らっしゃる清白千草に使える妖怪です。海里とは古くから知り合いなのですよ。」
「腐れ縁です」
「照れてる照れてる」
むくれ顔になった海里の頬をつつく麗奈は楽しそうで、先ほどまで電気がはしったようだと思っていた空気も一気に軽くなった気がした。剣は小さな声で麗奈にお礼を言うと、朝からの疲れが出たのかふっと意識を失った。
◇ ◇ ◇
「常磐、お仕事完了。帰ろ」
狗谷ミヤの冷たい無感情な声に、麗奈は背筋が凍るような思いを感じた。腐れ神が創りだしたのであろうこの白い霧の世界は、入り込んだ者のちからを減退させる。海里が人間の姿になれなかったのも、千草の束縛呪文が破られたのも全てはそれが原因だ。
祓い屋として優秀な麗奈の主、千草でさえも影響を受けているこの霧の中で、狗谷ミヤだけは平然としているのだ。歴史に名前が出るほどの妖かしである常磐が影響されないのは分かるが、人間の身体でありながら何故あの少女は平然としていられるのだろう。
「待って、そのツボを渡してもらえるかな、ミヤちゃん?」
「却下です。これはお祖父様が作った腐れ神。私のお祖父様に渡して責任を取らせます。どこかの家の守り神をこんな姿にして…それ相応の罰を受けて然るべきです」
ミヤは本当にまだ中学生なのかと疑いたくなるような冷たい声で、ツボを撫でた。ツボの中に居る腐れ神は、人間によって生み出されたのだから悪いのは人間だと、そう言いたげだ。
もちろんアレを生み出したのが彼女の祖父母、という話が本当であればそれは罰せられるべき行為だ。しかし、すでに堕ちた妖怪を活かして帰すというのも、まっとうな祓い屋である千草や麗奈には解せない。
「その腐れ神を…お祖父様のところへ持って行ってどうするんだい?」
「腐れ神の抱いてる感情次第です」
「腐れ神に感情なんてないよ」
「では、常磐にも、そこに居らっしゃる麗奈さんや海里さんという妖かしたちにも、感情がない。ということになりますね」
ミヤの目が、すっと細くなった。まるで人外の存在の意思を尊重することが当たり前だとでも言いたげな様子に、麗奈は同じ人外であるはずなのにぞくりと恐怖を覚えた。彼女の言っていることは、要するに人間にも妖かしの類にも感情があり、それを蔑ろにするなということだ。麗奈だって尊重されているはずなのに、それは違う!と叫びたくなるような雰囲気を纏っている。
たかだか人間、しかもほんの10数年しか生きていないような少女が、どうしてこんなにも冷たい声を出せるのだろうか。
「それと、清白さんに1つ忠告させていただきます。」
「……何かな?」
「戒愁家にはお気をつけて。あそこは我が家とはまた違った意味で特殊です。…と、これだけ言っても意味がないので、もう1つ。」
「君は、一体何を知っているんだい?」
千草の問いかけに少しだけ考えるような素振りを見せたが、ミヤはまた結局そのままの口調で返した。
「戒愁家の別名、というよりも古い名前は『根古島(ねこしま)』といいます。由来は、我が家が狗谷と呼ばれることと同じです。では、失礼しますね」
「ちょっと待って!それだけじゃ…
背を向けたミヤに続くように、常磐が裾を翻すと同時に、二人の姿は白いモヤに融けるように消えていった。
麗奈は何やら気味の悪さと、とんでもなく重大な事実が告げられたような気がするのとで、息苦しさを感じる。妖かしであり人間よりも余程身体の作りが丈夫であるはずの麗奈が、どうしてこうも影響を受けなくてはならないのか。どこか悔しさすら感じながら、帰るよと言う千草の声に従って、麗奈もまた白いモヤの世界を抜けだした。
終。
2015/02/02 今昔
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