【 仮想大江戸 お伽話 珊瑚 編 】
戒愁珊瑚(かしゅうさんご)は、戒愁家という名前を持つただ2つの家柄のうち、分家側に生まれた身であった。丁度珊瑚の母親と、母親の兄嫁とが同時期に身籠り、お腹にいる子供たちが男女であると分かった時から二人は許嫁であった。戒愁家の習わしに従って珊瑚と名付けられた彼は、生まれる前から婚約者が決まっていたのである。
古くは大江戸歴が3桁の頃から続く戒愁という大きな血筋は、今や日本の政治だけではなくエンターテイメント事業や工業、林業農業と様々な分野に人脈を持っている。そんな一族の本家の少女を嫁に迎えることがが決まっていたのだ。
そんな珊瑚は今、戒愁家の邸宅にある離れを自室とし、周囲を囲む竹林の向こうから聞こえる歌声を聞きながら書物に目を落としていた。淡い桃色の髪の毛はこの国では珍しく、女中たちからは「可愛らしい若殿」と目に入れても痛くないほどに可愛がられている。だが、それだけなのだ。
「若殿、お薬の時間になりました」
「はい、どうぞ。入ってください」
布団の上に座ったままで答えると、みな同じ形に髪の毛を結い上げた女中が3人入ってくる。まだ8時過ぎだというのにきっちりと着込んで働いている様子は、少し申し訳なくなるほどだ。それを言えばこの家に使えることが喜びだのなんだのと言われてしまうため、珊瑚はおとなしく羽織を肩にかけてもらい、温かい朝食を食べ、そして苦くないように蜂蜜と葛湯で甘くした薬を飲んだ。
それらを済ませると、女中たちは嬉しそうに出て行く。障子戸が閉まる直前、女中の一人が追加の本が必要かと聞いてきたので、珊瑚はお礼と一冊の書物を告げた。
離れの一室は16畳の和室と、それをコの字に囲む板の廊下。さらに廊下で囲まれていない側には4畳ほどの板の間がある。板の間には万が一に備えた様々なものが入っており、夜間は護衛の人間もそこに寝泊まりしているらしい。
そもそも何故そのような環境で過ごしているのかといえば、理由は単純明快、珊瑚がとても病弱であり日常生活に支障をきたすからだ。
「君がため 惜しからざりし 命さへ…」
本家の3番目の子供であり次女の蜜柑は産まれる前からの婚約者であった。しかしながら、珊瑚は4歳になる頃に喘息持ちであり気管支が弱く、偏頭痛持ちで病弱という、なんとも当主には向かない体質であることがわかったのだ。両親はその分、座学で当主を支えるべきだと考えを改め、次男である甚三(じんざ)へと当主の座を譲らせて珊瑚には座学を嗜ませた。
珊瑚が以前実際に送ったことのある百人一首の1つである詩から、下の句を頭のなかで反芻していると、女中が出て行った障子戸にすっと影が見えた。
「長くもがなと 思ひけるかな、ですか。随分と心が弱っているようですね」
「蜜柑さん…」
自分のそれとは全く違う、細く高い女子の声。入ってくださいと促すと、綺麗な所作で障子が開かれた。戒愁家の次代当主である蜜柑が着ていた藤色の着物は、以前珊瑚が父親が懇意にしている呉服屋に頼んで贈ったものだった。その事実に少しばかり安堵しつつ、珊瑚は居住まいを正して机の片側に置かれていた座布団を薦めた。
蜜柑の背後から同い年くらいの少年が入ってきたが、彼は無言で障子戸のすぐ側に正座してしまった。蜜柑も気に留めていない様子を見ると、護衛か何かだろうか。
「それで。藤原義孝の詩を詠むだなんて、どういった心情なんですか?」
「いえ…ただ、少し昔のことを思い出してしまって。一日千秋とは言いますが、蜜柑さんとの婚約が解消されてからは、一日がとても長いのです。日がな一日勉強しかしていないということもありますが、まるで世界が色を失ったようで…」
「はい、ストップ!」
蜜柑に静止の言葉をかけられて、珊瑚は慌てて口をつぐんだ。自分が思っていることを、知っている言葉の限りを尽くして喋り続けるのは悪い癖だと自覚している。
「私も、婚約が解消されたことには驚きましたが…こればかりは仕方がありません。一族を束ねるものとして、確実に血を残していく必要があるんですから。」
「そうですね」
「最近知り合った友人も、同じように一族の血を繋げることを重視している人が居ます。話を聞くと面白い人ですよ。今度引き合わせましょう」
蜜柑の背後に居た少年がギョっとした顔をしたが、そんなに凄い人間なのだろうか。珊瑚はしばし思案し、口を開いた。
「ま、僕は別に蜜柑さんのこと好きでもなんでもなかったので問題ありません」
「失礼ですね。元婚約者の前でそのような口のききかたは…」
「だってそうでしょう。お互いどんな人間なのかも知らないんですから、好きになりようがありません。一族のために結婚するというのも薄ら寒い話ですし」
ひょいと肩をすくめてみせれば、蜜柑はひどく大きくため息をついた。どうやら珊瑚の回答はお気に召さなかったらしい。もちろん、第一子でもなく女性である蜜柑は、最初から当主候補であったわけではない。そのためか珊瑚よりも立場に縛られないことを好むし、何よりも責任の重さを疎ましく感じているようにも見える。
護衛が背後の少年一人だけというのも、彼女が気を許せる相手のみを連れ歩いている証拠だろう。
「確かに…その友人も血族を守りつつも好きな人と添い遂げる道を選ぶようですから、珊瑚の言い分が間違っているとは思いません。ですが、あなたも一族の中で1つの家系の長になるのですから、早々にお見合いでもしてくださいね」
「ええ、もちろん」
「蜜柑さん、そろそろ行かないと時間がなくなります」
「あぁ…麗奈たちを待たせてしまいますね。」
蜜柑がその場を辞そうとすると、背後に控えていた少年がすっと立ち上がり、蜜柑にも負けないほどの所作で障子戸を開いてみせた。どうやらただの護衛というわけでもないらしい。珊瑚が少し目を見開いて見ていると、少年は小さく会釈をして先に蜜柑を通した。
それから少年は振り返ると、改めて膝を揃えて座った。更には深々と頭が下げられる。
「申し遅れました。梔子剣と申します」
「あぁ…梔子の家の……そうか、蜜柑さんは君に護衛を任せているんだね」
戒愁家に連なる一族の中で、最も武術に秀でた家柄である梔子は、毎世代の当主の護衛を務めることが責務だ。所作がしっかりとしつけられていることも、蜜柑が一人しか連れ歩かないことにも納得できた。
「珊瑚様へのご挨拶が遅れましたこと、お詫び申し上げます」
「気にしないで。顔をあげてほしいな。君のこと、蜜柑さんも気を許してるみたいだったし。僕から言うのも変な話だけれど…彼女のこと、よろしくね。」
にっこりと微笑んでみせると、剣と名乗った少年もまた心得たというように神妙な顔つきで頷いた。それから、弓道をやっているのか独特な動きで立ち上がると、少し先に行ってしまった蜜柑を追いかけるように部屋から出て行った。
藤原義孝は、思いが通じあった直後に病でこの世を去ったという。
珊瑚は、婚約をしていながらも両思いではなく、さらに病のせいで婚約破棄となった自分の身の上と、彼の詠んだ詩がどことなく被って見えるのだ。自らの行いのせいではなく、病というどうしようもないもののせいで、手に入れられるはずのものを失う。
同時に様々な責務からも開放されてはいるのだが、その責務でさえも失ったという喪失感は拭えない。藤原義孝も、死後は珊瑚と同じような気持ちになったのだろうか。などとも思ってしまう。
「ほら剣、遅いですよ。麗奈たちを待たせているんですから、早くしてください」
「待ってください!こう見えても一応梔子の長子なので立場とか身分というものが
「私の連れとして来ているんですから、肩肘張りすぎです。そのくらい気づきなさい」
「あっ、はい…すみません……」
自分といる時よりも随分とリラックスした様子の蜜柑の声が聞こえ、珊瑚はなんだか胸の奥がこそばゆいような感じがした。障子越しに入ってくる朝日のような、簾越しに見る十六夜の月のような。そんなほっこりと暖かな何かを感じながら、珊瑚はまた読書を続けようと本を開くのだった。
いつか自分も、あんな風に笑い合える誰かと巡り会えるのだろうか。
そして願わくば、君が幸せでありますよう。
終。