風間木賊は人生で二度目の困惑というものをしていた。一度目は言わずもがな、絢音と樹音の拉致依頼から結婚に至った時だ。あの時は後にも先にもこんな衝撃は一度きりだろうと思っていにも関わらず、今こうしてぽかんと口を半開きにしてしまいそうな事態に陥っている。人生には上り下りの坂のみならず、「まさか」というものがあるとは正にこのことである。
「待て、今……なんと…」
「何度でも言いますわよ、絢音様がおめでたです。」
【 仮想大江戸 お伽話 親世代編03「錚々たる一族」 】
身体は男、心は女という医者は絢音の布団を挟んで木賊の反対側に座っており、にこにこと穏やかに微笑んで言い放った。
「産まれるのは、来年の初夏でしょうな。妊婦には辛い時期を冬に迎えるのですから、旦那であり父である若君が支えるのですよ」
季節は秋も終わりに近づき、絢音との散歩も寒さで中断することがあるくらいだ。錦の双子の更に下の子や、それと同じくらいの幼い子供たちは枯れ葉を踏みつけてはパリパリという音を楽しんでいる。大人たちも落葉を掃除するついでに焼き芋やらなにやらと、季節の行事を楽しんでいるだろう。
木賊も仕事着を少し暖かいものに変えたし、絢音も他のくノ一と同じような格好でいることはなくなった。少し前にあった錦双子の弟が怪我をした任務の時には焦ったが、お腹の子が無事だったというのは喜ぶべきことのはずだ。
しかしながら、木賊としてはまさか自分が父になるとは、これぞ「まさか」から転がり落ちるような思いだ。
「ちょうど長としてお父上の後を継がれるうえに、跡取りが産まれるかもしれない。いやぁ、これはおめでたいことですわ!」
「あぁ……ありがとう、礼を言おう」
今日はちょうど木賊も仕事の依頼が入っておらず、いつも以上に気合を入れて昼食を作るのだと張り切っていた絢音は、昼前に台所で倒れてしまった。朝から多少顔色が良くないとは思っていたが、まさか体調不良の原因がこれとは。木賊が手伝いを申し出ようとしたその目の前で突如倒れた時は何事かと思ったが、今の絢音は二人の会話もどこ吹く風ですやすやと眠っている。
いつぞや、錦双子の父親と共に任務にあたった時には、「嫁や子供が元気で家に居てくれるから仕事ができる。必ず生きて戻ろうという気になる」のだと言っていたが、まさにその通りだ。万が一にも今日何か任務の依頼があったとしても、絢音が倒れた原因が分からないままで家を出れたかと聞かれれば、答えに困ってしまう。困窮するということも、絢音がこの家にやってきてから知ったことだ。
いつの間にやら木賊の父であり、明日明後日にも「先代」となるであろう風魔小太郎とも良い関係を築き、里の人間にも溶け込んでいる。絢音が行った努力は推し量ることしかできないが、木賊は今の里の状態が好きだと思えた。絢音が来たことで変化しつつある里の状況が、とても素晴らしいものだと思えた。
もちろん、良いことだと思う木賊のような人間が居ると同時に、先日絢音を蹴り飛ばした男性たちのような変化を受け入れられない人間も居ることはわかりきっている。それをどうにか収束させるのが長となる者の責務であろう。木賊自身の行動によって絢音が暮らしやすくなるのなら、それはとても嬉しいことだ。
「若、まるで里の人間じゃないみたいよ、その顔」
医者の穏やかな声に、木賊は慌てて顔を引き締めた。
「あっはは!そうやって笑顔になったり焦ったり。最初は他所の人間を嫁にするなんて言うから、私たちは一体どうなることやらって思ってたのよ。どうせ上手くいくはずがないってね。」
「…この里の人間であれば、当然の反応だろうな」
「でも、誤解だったみたいね。絢音様、他所の女性たちになんて呼ばれてるか聞きました?お嬢ですって!そりゃもともと良いとこのお嬢様なんだから、立ち振舞が優雅だったりするのは分かるの。でもそれだけじゃお嬢だなんて呼び方にはならないでしょう?」
医者はまるで自分のことのように嬉しそうな顔をして、絢音の方へと視線を落とした。倒れた時よりも幾分は楽そうな顔になった絢音は、これだけ近くで話していても目覚める気配はない。
「きっと、彼女なりに色んな場所で色んな人と話をして、里の内外の違いを否定するんじゃなくて、受け入れて楽しんでいたのね。そして問われれば里の外のことを嫌味にならないように教えるだけの能力もあった。私も実際に、パウンドケーキの作り方を教わったりして。」
「そんなことまでしていたのか。」
「そうよ。若に心配かけまいとして、あまりその日あったことを話そうとしないのかもしれないけど、絢音様は色んなことをしてた。家事で手が離せない母親が多いと知れば、自分がいち早く家事を終えて子どもたちの面倒を見る。それが外では当たり前だったから、って。自分も子供が産まれたら近所の子供たちに遊んでもらいたいから、お互い様なんですって。……だからね、若」
穏やかだった表情のままでこちらを見た医者は、すっと目を細めて言った。
「絢音様は、きっと若が思っている以上に若のことを思っている。あなたのために里に馴染もうとしてる。本当は本人の口から聞くべきなのでしょうけど、絢音様は所謂ツンデレってやつだから」
「ツンデレ?異国の文化か?」
「目覚めたら聞いてみたら良いわ、『お前はツンデレなのか?』って」
妙に楽しそうに笑いながら鎮痛剤と魔除けの呪いを置くと、医者はいつもどおりお金は要らないのだと言って去っていった。後は手伝いに来ている家の者が、必要ならば何か手渡すだろう。
木賊は絢音の頭をそっと撫でると、せっかくの休日なのだから側に居ようと布団に潜り込んで横になった。無意識なのか軽くこちらを向いた絢音の顔から前髪を退ける。まるで里の外の人間のようだと思いながら、木賊は目を閉じた。
◇ ◇ ◇
絢音はその冬、特に体調を崩すこともなく順調に大きくなっていくお腹を嬉しく思いながら過ごした。医者には身体を鍛えていて良かったと言われ、その時はじめて無理に薙刀やら体術を習わせていた両親に感謝した。樹音と比較されながらも続けた甲斐があったようだ。
更に、絢音が安定期に入ったからということで、木賊が正式に風魔小太郎を襲名した。絢音は大きくなってきたお腹のことを考えて儀式には参列しなかったが、後から聞いた話では「一族の人間以外が出る行事ではない」と錦双子が言われたそうで、夫の晴れ舞台を拝めなかったのは残念だが胎教には良かったのかもしれない。
春になるころには既に家事をこなすことは難しく、そこは気を利かせた錦双子とその母親が何かと世話をやきにきてくれた。木賊の母が既に居ないということもあってか、もともと里の女性たちは「跡取りの世話ができる!」と意気込んでいたようだ。
子供の存在によってより里の女性たちに馴染んだ頃、ちょうど新緑も青々と茂り空には時折小さな入道雲が浮かぶ初夏。絢音がはじめて抱いた自分の子供は男の子だった。
「名前をお聞かせください!こう見えて書道が得意ですので、ぜひ一枚書かせていただきたいのです!」
「おめでとうございます、長、それに絢音様も。よろしければこちらを使ってください」
新しい長に子供が産まれたこと、しかもそれが男の子であるとなれば、例え里の中と言えども噂好きは女性の特権であることにかわりなく。瞬く間に話は広まり、任務で居ない者を除く多くの女性が我先にとお祝いを述べに来た。流石に身内にも挨拶が済んでいないうえ産後の間もない時期だからと、お祝いを置いていくだけのものがほとんどだったが、錦の双子だけは木賊が気を利かせて部屋へと招き入れてくれた。絢音もこの二人にはなかなか話す機会が無かったので嬉しく思い、身支度を簡単に整えると子供を抱いて二人を迎えた。
木賊と絢音の寝室のすぐ側にある部屋で、4人で簡単にお茶をした。絢音は相変わらず穏やかな表情をしている二人を見ると、なんだか日常が帰ってきたような気がして嬉しかった。
「お久しぶりです、絢音様」
「お子様も絢音様も、お元気そうでなによりです。」
双子は丁寧に頭を下げると、お祝いだと言って可愛らしい柄のガーゼタオルを渡してくれた。来られない母の気持ちだそうだ。
絢音はそれをありがたく受け取りつつ、双子を見て涙が零れそうになった。絢音自身も腹を蹴られ流産の恐怖からすっかり忘れていたが、任務で失敗したというあの日から双子を見分けるには十分すぎるほどの違いが生まれていた。弟の方は、あの任務で左腕の肘から先を失っていた。
「ごめんなさい、嫌なことを聞くかもしれないけれど、あなた、腕は…あの時に?」
そこではじめて、絢音は二人の下の名前を知らないことにも気づいた。こんなにも助けて貰っている相手なのに、名前すら聞いていなかった自分にも驚いた。
錦の弟は特に気にする様子もなく軽く微笑んだ。
「はい、あの日の任務で伊賀のものに。無力ぶりが目に見えてしまってお恥ずかしい限りですが、今は諜報任務を中心に行っております。」
「そうだったの…ごめんなさい、私ったら何も知らずに……」
「いえ、絢音様。長のお子を授かったのですから、他所のことに気兼ねしている場合ではなかったのです。弟のことを伝えずにいてくださった長には感謝しております。」
兄の方のセリフに木賊を見やれば、小さくすまないと言われ、絢音は何やらもどかしくてため息をついた。心遣いは嬉しいのだが、やはり蚊帳の外という感じがしてしまう。
「そうだ、今まで聞いていなかったのだけれど、二人の名前を聞いても良いかしら。今更になって申し訳ないけれど…」
「……絢音様、申し訳ございません」
「僕たちには、名乗る名前が無いのです」
双子の言葉に、絢音はしまったと思った。他所の血が混じっているという双子の家系は、何かとこの里で不便をしているはずだ。まさか名前も、とまでは予想できなかったが、予め木賊に話を聞いてから問えば良かったようだ。
絢音のそんな感情が顔に出ていたのか、双子は申し訳無さそうな顔をして続けた。
「錦の家は、元より里の外の人間です。例え里の中で生まれ育っても、風魔の人間として名前を授けることは出来ないのそうです」
「というのも、先々代の風魔小太郎であった方の発言だそうで、今後はどうなることやらといった状況ですが」
双子はちらりと木賊を見やると、すぐに視線を絢音へと戻した。それから絢音が抱いていた子供を見ると目元を緩めて言った。
「ところで、絢音様のお子様の名前は決まっているのですか?」
「里の皆には口外しませんので、お聞かせください」
「…この子は、千歳。末永く幸せに生きてほしいっていう先代様の願いと、それから木賊の名前や私の生家が色に関するものだったから、この子も色にちなんで、ね」
絢音が心苦しくなりながら言うと、双子たちは小さく「千歳」と呟いて、忘れまいとしているようだった。それからまだ綺麗な黒をしている髪の毛と、うっすら開いたところから見える青い瞳を褒め称え、風魔の人間らしからぬほど喜んでみせた。
まるで自分たちの弟か甥っ子が出来たようだと言う二人に、絢音はふと思い立った。
「木賊、筆と紙があるはずだから、取ってもらえるかしら」
きょとんとした木賊に差し出されたそれを受け取ると、絢音は樹音と共に習わされていた書道の授業を思い出しながら、出来る限り丁寧に筆を滑らせた。
「もしも、二人が良いと言ってくれるのであれば…名乗ることがあればこれを使いなさい。」
「「えっ?」」
「私は本来一色家の…二色家を含む一色一門の当主となるはずだった者。そこから外れた者同士、呼び名の候補を贈りたいのよ」
絢音がさっさと書き上げた文字を見て、双子たちは目を輝かせて身を乗り出してきた。
「二色 檜皮」「二色 朽葉」
先ほど言ったばかりなので彼らにもわかったのだろう。木賊の名前は緑色の一種だ。そして千歳も同じように緑色の和名からとっており、もちろん二人にと考えた檜皮(ひわだ)と朽葉(くちば)も同様だ。
「檜皮は、檜皮葺というものがあるように、家の屋根となるものよ。兄ならば家を継ぐことになるでしょうから、家族を守る殿方となれるように。朽葉は大地、万物を育てるもの。あなたが今やっている任務にも誇りを持てるよう、家族の地盤を支えるのはあなたの仕事よ」
二人は絢音が書いた紙を手に取ると、大事そうに持って絢音へと頭を下げた。そしてすぐに木賊を見やり、どうかこの名前を名乗らせて欲しいのだと頭を下げた。錦の家の者として名乗れずとも良いから、絢音の考えたこの名前を自分たちのものと、名乗れずとも自分たちのものとして思いたいのだと。
木賊は驚いたという顔をしていたが、すぐに穏やかな表情に戻ると二人の頭に手を載せて頷いた。
「お前たちが辛い仕打ちを受けていることは知っている。長となった以上、あれを続けさせるつもりもない。家名の文字は今までどおりのものを、名前は今絢音が書いたものを使うと良い。何か言われたら俺が言ったのだと、後ろ盾にしろ。」
「「ありがとうございます!」」
「もっとも、すぐに後ろ盾など要らぬほど成長するやもしれぬがな」
もとより木賊にも絢音にも懐いていたうえに、長としてという言葉が効いたのか、二人は嬉しそうに紙をたたむとこれまた丁寧に懐へしまいこんだ。先に立ち上がった兄に手を貸されながら弟も立ち上がると、二人は少し下がった場所でまた頭を下げた。
「長様、絢音様、本当にありがとうございます。」
「この誉れ、我が母にも伝えたく、失礼ながらこれにてお暇させていただきます」
「あぁ、気をつけて帰れ。お前たちははしゃぐと周囲が見えなくなる。良いな、檜皮、朽葉。」
「「はい!」」
双子--檜皮と朽葉はまだきらきらとした顔のままで、それでも丁寧にお礼を言うことは忘れずに去っていった。いつもは静かな足音も今だけはパタパタと聞こえてきて、恐らく帰ったら錦の母親に怒られるのだろうなと絢音は苦笑いした。
足音が聞こえなくなると、絢音は木賊へ向き直って頭を下げた。
「勝手なことをして申し訳ございません、木賊」
「構わん。錦の家のことは里に軋轢を生む。早々に俺が囲い込めばあの二人も、檜皮と朽葉も辛い思いをせずにすむだろうし、これは打算的と言われてもしょうがないが俺の株も上がる。お互い悪いことはないだろう」
先ほど双子にしたように、絢音の頭の上にも木賊の手が乗った。なんだか久々にされたような気がして、絢音は心地よくなり目を閉じた。やはり産後で疲れがとれきっていないのだろうか、頭を撫でられているうちにどんどんと眠くなってくる。
千歳もうつらうつらと船を漕ぎ始めた絢音につられて眠くなったのか、既に目を閉じて寝息をたてている。
「あまり無理をするな。体力も戻らぬうちから気を張りすぎると、体を壊すぞ」
「えぇ、そうします。今日はこれで、休ませていただきますね」
「運んでやる、じっとしていろ」
千歳ごと抱き上げられて、揺れを心地よく感じているうちに、すぐに布団の感触がやってきた。木賊が千歳を子守カゴに寝かせたのを見届けると、絢音もまた目を閉じた。「おやすみ」という声が耳元で聞こえ、穏やかな気持ちで眠りについたその夜は、不思議な夢を見たような気がした。
目覚めた時に覚えていたのは、どこか自分と似ている赤毛の少女が少し木賊に似た少年と一緒にいたことだけだた。少女の歌を穏やかな顔で聞いている少年の表情は、なんとなく檜皮と朽葉に似ているように思えた。
終。
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2015/03/30 今昔
親世代編、まだしばらく続きます。
絢音の後は樹音のお話を少し。そこから桑染と宍戸の家のお話へ……続くと良いな。
2015年3月30日月曜日
2015年3月27日金曜日
【仮想大江戸】番外編 親世代編02「純血なる一族」
風が心地よい。
絢音が暮らしていた一色一族の暮らす土地はそれなりに都会で、産業が発展してきたこのご時世では流行の最先端でもある場所だった。しかしそれに伴って川は汚れ空気は淀んでいたように思う。もちろん、各種工業を営む一色家とて対策を行っていなかったわけではないが、この風魔の里には遠く及ばないことは確かだ。
庭の端にある物干し竿にシーツやら着物やらが揺れる様子を少し眺めると、よし!と絢音は気合を入れてカゴを持つと立ち上がった。洗濯物が終わったところで、そろそろ昼食の支度にとりかからねばならない。慣れない主婦の仕事をこなすなかで良かったと思うのは、この家に姑が居ないことだろうか。口出しされるとやる気を無くす、という自分でも子供っぽいと分かる一面を持つ樹音としては、寂しい反面嬉しい気持ちもあるのだった。
【 仮想大江戸 お伽話 親世代編02「純血なる一族」 】
世間の喧騒から離れて風魔の里へと入ってから、すでに10ヶ月が経過しようとしていた。絢音は義務感こそあれ、一人の男性を相手にするのと同じように木賊と接していたし、彼もまた絢音を嫁として大切に扱ってくれていた。樹音が夢見ていたような甘く優しい新婚生活とは全く違うだろうが、絢音はこれも1つの幸せだと感じている。今では二人で少し寒くなってきた里の周りを散歩するのが楽しみだ。
風魔の忍びを率いる風魔小太郎、つまりはこの里の長である者の家は周囲より少しだけ大きく、また里の奥まった場所にあった。その反対側である里の入り口には、代々長の腹心でもある桑染という家の邸宅があり、それに挟まれるようにして数々の家が建っている。
絢音は時折やってくる風魔の一族から野菜を貰ったり、元気な子どもたちの相手をしながら次期長の新妻としての日々を過ごしていた。樹音だけを家に戻したことは後悔していない。むしろ、この里の若者たちが「己の鍛錬のためでもある」と入念に護衛をしてくれている。
不満なことがあるとすれば、里の者は感情が希薄で、女性よりも男性の方がそれが顕著だということだ。
「ごめんください」
台所で昼餉の用意をはじめたところで、玄関から声がかかった。絢音は一旦鍋の火を弱めると、エプロンを外しながら玄関へ駆ける。最近は少し体調が悪いのか、走ろうとするとめまいがする。それでも、留守を預かる嫁として妻として、そんな義務感で足を動かした。
「はーい、ただいま」
叫び返しながら玄関を覗くと、見覚えの無い青年が立っていた。風魔独特の白髪に灰色の瞳。両腕で1つの米俵を抱えており、細い腕なのにどこからあんな力が出るのか不思議でならない。
青年は風魔一族の成人の儀を終えているはずなのに、それにしては豊かな表情をこちらへ向けた。軽く口角があがり、目が細まる。
「こんにちは、奥様。僕は錦の家のものです、母に言われてこれを届けに参りました。」
「あら、ありがとうございます。夫にもしかと伝えますと、お母様にお伝え下さいね」
「はい。お昼時に申し訳ないです」
「良いのよ、どうせ任務で遅いのだろうから…あ、そうだ。良かったら金平糖を持って行ってくださらない?私の実家が送ってくれたのだけれど、どうにも量が多くって」
「よろしいのですか!ありがとうございます」
錦の家の者だと名乗った青年は嬉しそうに笑うと、絢音が玄関先に小分けにしておいておいた金平糖を受け取ってじっくりと眺めた。この里では外との交流が少ないためか、こうしたお菓子や若者が好むようなものが少ない。初めて見たとつぶやく青年に、絢音はまた無くなったらお出でというと、それこそ昼時に他所の子を引き止められないなと慌てて帰るように促した。
その日はどうにも錦という子のことが気になった。絢音と同い年くらいの人間は、誰もが無表情が標準装備されている。風魔の人間として任務をこなすということは、当然人も殺すことになるだろうし、感情が希薄になるのは分かる。木賊(とくさ)からも成人として認められるのは感情を殺す術を得たものだけだと聞いたことがある。
そんなとりとめもないことを考えながら義父と共に食事をし、家事をこなしているうちに一日はあっという間に終わってしまった。代わり映えしない一日で終わるはずだったのに、布団へ入ってもまだ錦のことは頭から離れなかった。
こんなことでは同じ布団で寝るようになった木賊に申し訳ないと思う。仕事を終えて帰宅した旦那に食事を出し、風呂を用意し、そして床での安らぎを与えるのが妻の努めだ。絢音の心が他所を向いていることなんて、木賊はすぐに気づいてしまうだろう。
風呂あがりの木賊が寝室へ来るのを待っている間に先日贈られた櫛で髪を梳いていると、背後の障子が静かに開かれた。気配を読もうとしなくとも、屋敷のこの部屋に入れるのは木賊と絢音だけだ。
「さっそく使っているのか」
「ええ、木賊からの頂きものですもの。大切に使わなくては」
そう返されたのがお気に召したのか、木賊は座っていた絢音を後ろから抱えるように腰を下ろした。絢音も櫛を枕元へ置くと、木賊の胸元へと背もたれる。
「今日、錦の家の者だという男の子がお米を持ってきてくださったの」
「……錦の家がか。もしや、妙に笑う男か?」
「あら、ご存知なの?」
どんな子がとも言っていないのにあの子のことだろうと思われる発言をした木賊に、絢音は複雑な気持ちになった。やはり、あのように表情豊かであることは里では異端児なのだろうか。
「錦の家には双子が居る。兄は仕事の出来る奴だが、弟の方はてんで出来ない。弟は人殺しよりも小鳥や草花を愛でる方が向いている」
「…えぇ、そういう穏やかなことが似合う子でしたわ。金平糖をさし上げたのですけれど、とても喜んでくれて。あんな子も里に居るのだと…少し驚きました」
「珍しいことではある。人を殺せない忍びなど、なんの役に立てようか。」
そういう木賊はどこか寂しそうで、絢音を抱いていた腕にも少しだけ力が入ったように思う。確かに感情が読みにくい相手ではあるけれど、しっかりと側に居れば気持ちも汲み取れるようになる。錦ももしかしたら、里の中でイレギュラーだったとしても、いつか理解してくれる相手が現れるかもしれない。
絢音は錦のことを考えるうち、自分が木賊の拠り所にならなくては、いやなりたいのだ。と強く思った。木賊の方へ向き直ると首に腕を回し、自分の体重を使って布団へ横になる。そのまま頭を撫でながら小さな声で子守唄を歌ってみることにした。
「 ゆりかごのうたを かなりやが歌うよ 」
絢音は自分の背中に回された腕に自分も眠気を感じながら、自分の意識が途絶えるまで知っている限りの子守唄を歌い続けた。様々な重圧を感じるであろう一族の跡取りが、少しでも安らかに眠れるように、と。
翌朝、いつもより機嫌の良さそうな木賊を見送りに自宅の門まで出て行くと、今日の仕事に同行するらしい里の忍びたちが何人かやってきていた。皆一様に口を覆う布をつけているが、一人だけ太陽の光を目一杯反射するような灰色の瞳を見つけ、絢音は思わず小さく声をあげてしまった。
錦もまた絢音が出てきていることには気づいていたようで、小さく目礼をしてくれる。顔をあげたところでにっこりと微笑めば、あちらも目が細まり微笑んでくれたようだ。
「絢音、今日は一色家の護衛に入る」
「あら、そうですか。」
「詳細は聞かぬのか?」
「既に風間に嫁いだ身ですもの。生家は確かに心配ですけれど、木賊が向かうのでしたら心配はありませんわ」
「…そうか。嘉萩家との会食の護衛になる。早々に戻るはずだ」
「えぇ、家のことはお任せください。」
1つ頷いた木賊たちが里の外へと向かうのを見送るうち、絢音は少しだけ違和感を感じた。何がとは言えない程度のもので、わざわざ引き止めるのも気が引けたので絢音は今日も洗濯物から終わらせなくてはと自宅へと戻った。
いつもと同じように家事をこなすうち、日が暮れて夕食の支度でも始めようかという頃になってからだった。全身が静電気をもらったかのようにビリリとしびれたのだ。菜箸が床に転がった音で我に帰ると、絢音は変なこともあるものだと首をかしげた。菜箸を綺麗に洗って別の菜箸で料理を再開すると、今度は家の外から悲鳴やら何やらが聞こえてきた。
煮物も味が整ったので火を止めると、絢音はエプロンを外して家の外を覗いてみた。誰かが任務で怪我をしたとしても騒ぎになんてならないだろうし、そもそも騒ぎになったとしてもこんな里の奥まで喧騒が届くことはありえない。
では一体何が?という不安でソワソワとする手のひらにぎゅっと爪を立てて門の外まで小走りにでていくと、ちょうど木賊が戻ってきたところだった。一緒に任務に出ていた者も居るようで、更にその身内と思われる者も集まってきている。
「木賊!」
「絢音、近寄るな。血がつく」
言われて見てみれば、木賊は血まみれの何かを抱えていた。その何かが小さく震えたかと思うと灰色の何かが見え、少ししてからそれが目だと分かった。
灰色の瞳に気づいた途端、抱えられているのが人間で、その左足が無いこと、両腕が力なく垂れていることに気づいてしまい、絢音は口元へ手を持っていった。気持ち悪いわけではない、ただ驚いた。
「錦の家か!!これだから余所者は良くないと言っている!!」
しわがれた声で叫ぶ男性に、周囲に居た人間は一斉に黙り込んだ。
静かになった広場に、木賊たちがやってきた方、里の入り口の方から一人の青年が歩いてきた。錦にそっくりなその青年は舗装されていない里の道で足音を立てることもなく、しずしずと歩いている。その青年に気づいていないのか、叫んだ男性は更に続けた。
「錦の小僧はいつか問題を起こすと思っていた!見てみろ!若と一緒の任務で不祥事とは情けない!里の恥さらしが!!」
「弟がご迷惑をお掛けいたしました」
そこで初めて錦のそっくりさんに気づいたらしい男性は、目を見開いて彼を見た。恐らく今やってきた静かな彼が錦の双子の兄なのだろう。
「ですがどうか、曾祖母を悪く言うのは辞めていただきたい」
「はっ!誰が余所者の言うことなど聞き入れるものか!里の端に家を追いやられた意味を考えろ、愚か者め。最近じゃ余所者同士でつるんでるらしいじゃないか。まんまと長の家にもぐりこんだ雌狐と手を組んで、里を壊すつもりなのだろうに」
ジトッとした男の目線が、絢音を貫いた。
衝撃を受けるはずもない。絢音はふんと鼻で男性を笑うと、つかつかと歩みよった。自分の一族を守るという目的を果たすためにこの里へ嫁いだのだ。雌狐だなんだと悪く言われることなど百も承知でここへ来たのだ。
「木賊、錦の弟くんが助かる見込みは?」
「ある」
「じゃぁ早く運んであげてちょうだいな」
背後で木賊が部下に錦を預けたのを見届けると、絢音は絢音や錦を余所者と言い放った男性を見据えた。こちらが臨戦態勢なのを察しているのか、あちらもだいぶ構えている。しかし絢音は警戒されているという事実を誇らしく感じた。相手が自分を警戒しているのは、己に危害を及ぼす可能性があると認められているからだ。
その通りにしてくれよう、とニィっと口の端を持ち上げた。
「どうも、余所者の新妻ですわ」
「自覚があるようでなによりだな」
「あなたは自分が老害であるという自覚がないようですわね、名も知らぬお方」
背後で絢音と井戸端会議を繰り広げる奥様たちがくすくすと笑ったのが聞こえた。
「で?錦の家の何が気に食わないのかしら」
「雌狐め、貴様は知らぬやもしれぬが、この一族は他所の血を入れぬ純血を保ってきた。それが誇りだ」
「それで数が少ないという、ホコリやチリみたいな因習ですわね。存じておりますわ」
「黙れ!錦の家は4代前に外からの捕虜との間に子供を作った。その末裔があの双子だ。他所の血をもった、しかも畜生腹の子どもたちだ。里に良い影響を与えるはずがなかろう!」
全くその通りだ!と言いたげに頷いた男性が何人か居るのを見て、絢音は盛大にため息をついた。絢音はそれだけで済ませることが出来たものの、背後に何人か居る女性たちからは怒りの雰囲気すら感じる。元より捕虜の女性に子供を産ませるなど、いくら忍びとはいえ女性が受け入れられるはずもない。
まして徳川が世を治めていたような時代ならいざしらず、今どき女性だというだけで地獄へ落ちるだなんて信じている者もごくごく少数だ。絢音とてこのご時世に双子を貶めるような言い方をする人間が居るとは今この耳で聞くまで信じられなかったほどである。この里の女性たちが怒るのもしょうがないだろう。
「貴様もあの双子とは親戚になるのだろうな、なにせ二色の家のものを捕虜にしたのだから」
「あぁ、私の生家の親戚ですか。それは教えて頂いてどうもありがとうございます。今度からあの双子にもお菓子をお裾分けしなくては」
「畜生腹の次は雌狐!!しかもとんだ淫乱だな!身内が辱められて動じもしないとは!」
「あら、だって…わたくし既に風間の家の人間ですもの。あまり生家…しかも遠縁にこだわるだなんて、嫁として恥ずかしいですわ」
「余所者の分際で若の嫁と名乗るのか!跡取りも埋めぬような出来損ないが!!」
自分もだいぶ古めかしいことを言っている自覚はあったが、絢音はゆったりと歩み寄ると男性の首を片手で掴むとグッと腕を上へと伸ばした。思ったよりも簡単に首を絞めることに成功して驚いたと同時に、どんどんと口が軽くなっていく。
「随分と古めかしい考え方をされているのですね、名も知らぬお方。わたくしの生家も、わたくし自身のことも、好きに貶すが良い。ですが、それ相応の復讐はさせていただきますわよ」
「このアマァ!!」
絢音が持ち上げた男性と同意見らしい別の男性がこちらへクナイを振りかざし駆けて来たのを見て、妙に冷静に腕を下ろした。慌てて刃物を引っ込めた相手の上に男性を落とすと、更に後ろから危害を加えようとやってきた男性の蹴りをしゃがんで回避し、足の付根を蹴りあげて転ばせる。背後から寄ってきた男に蹴りを入れて女性陣の方へ跳ね返せば、その男はくノ一として一線で活躍していた彼女たちに袋叩きにされている。
寄ってくる人間は全て相手になってやる。余所者だからと、女だからと舐められるわけにはいかないのだ。絢音は殴ろうとした相手の手を掴み、別の相手の刃物を受け止めるとその両方を利き足で蹴飛ばした。
妙に体が軽い。先日からの体調不良が嘘のようにさらにもう一人を殴って沈めると、どうしてもがら空きになってしまっていた下腹部に衝撃を感じた。
「ハハッ、見ろよ…血なんて吐いてるぞ。汚ねぇな、土地を余所者の血で汚す気かよ!」
絢音の腹を蹴りとばした男性に言われて口元へ手を持っていけば、ぬるりと生ぬるい液体が付着した。べとっと地面へ垂れるそれを目で追うと、口からだけでなく、どうやら下腹部からも血が出ているらしい。月のめぐりで出るようなどす黒い色の血ではなく、口からも下腹部からも鮮血が垂れていた。
腹を蹴った男と他数人は下衆な笑いをあげていたが、女性たちと一部の男性からはため息とも何ともつかない悲鳴のようななにかがあがった。
「アンタたち、お嬢になんてことするの!」
「長、制裁の許可をください!!あんな連中、風魔の男じゃありません!」
そう叫ぶ女性の声がどこか遠くに聞こえた。
そういえば、来ても良いはずの月のものはきていない。元より定期的ではない方だとはいえ、今回はあまりにも遅い。ここのところ体調も悪かった。
あぁ、何故気付かなかったのだろう。あぁ、自分はなんてことをしてしまったのだろう。絢音とて一族の頂点にたつ家系へ生まれた身、跡取りの重要性はよくよく分かっているというのに。自分が迂闊すぎたのだ。失敗した。これは妻として、嫁として、あるまじき姿だ。
ごめんなさい。
そう口が勝手に動いたのは分かったが、耳に届いたのはかすかに唇をこすった空気の音だけだった。
後頭部がじんじんと痛くなり、手のひらはうまく動かない。呼吸も自覚できるほどに浅くなり、思考は働かない。
なによりも、嫁いだ身、人質としても身でありながらというよりも、木賊と居たかもしれないお腹の子への罪悪感で涙も出ない。
「騒ぐな」
木賊の低い声に、周囲が一層静まった。
歩み寄ってきた木賊に抱きしめられ、少しだけ呼吸は楽になったが、それでもまだまともに話すことはできなさそうだ。
「絢音について思うところがある者も多いだろう。他所の血を入れるのかと、風魔の誇りはどうなるのだと。俺はそんなことはどうでもよい。」
「若!何をおっしゃるか!!」
「問題は、血族として近すぎる者どうしが子をなすことで、より体の弱いものが増えたことだ。それを説明し、長の許可も得た上で俺は絢音を迎えた。気が済まぬという者は絢音と対戦し、全員敗れて納得したと思っていたが?」
木賊が周囲を見回すと、絢音に手をあげようとしていた男性たちは気まずそうに顔をそむけたり、逆に文句があると言いたげにこちらを見返したりしている。
「それでもまだ納得できないという者を治められないのは俺の責任だ。彼女に手あげるのは間違っているし、里の女衆に制裁を加えさせるわけにもいかぬ。文句があれば俺にけしかけろ。正面からでもそうでなくとも構わない。ただ、これ以上自分の妻を貶されて黙っていられるほど、俺は馬鹿でもなければ無頓着でもない」
今度こそ、絢音は堪え切れずに木賊の胸元へ縋り付いた。次期当主の嫁たる自分が人前で弱みを見せるなどあってはならない。そう思い続けていたのに、過呼吸になるほどの涙は押さえつけられなかった。
そのままボンヤリとしてきた頭で把握できたのは、背後から錦の兄が飛び出してきて、絢音の腹を蹴った男の顎下へ、膝を入れたことだけだった。
◇ ◇ ◇
錦の片割れが男を沈めた途端、女性陣から拍手が巻き起こった。本当はこんな大袈裟なことにはしたくなかったのだが、どこかこうして人前で絢音を庇えたことはとても意味があるように思える。木賊は泣きつかれたのか気を失った絢音を抱き上げると、周囲の女性たちを見渡した。
誰もがスッキリしたような笑顔を浮かべつつも、口々に絢音を心配するような声をかけてくる。いつの間に里に馴染んだのか不思議であると同時、共に過ごす季節も3つ目ともなればこのくらいなのだろうかとも思える。
「若!お嬢の体が最優先です!」
「早くお医者様に見せなくてどうするのですか!」
「お嬢はずっと、若のお子を産むのだと意気込んで…いえ、喜んでいらっしゃったのに!最近はお体が辛そうなのに無理して家事もこなして…」
「錦の子のことも、身内と知らずに優しく接していたのですよ。なんて優しい子!まだこんなに若いのに!」
口々に言う女衆に謝罪と礼を返していると、錦の兄がこちらへとやってきた。どうやら女性たちが引くのを待っているようだったので視線を投げれば、気を利かせた女性たちが騒いだ男たちの制裁に向かったため、錦は苦笑いしてよってきた。
こうして見ると、弟とよく似ている上に、風魔という一族の中ではかなり表情豊かだ。絢音は年下に惹かれる女性ではないが、この里に居ればこうした世間的な感覚を持った人間と関われるのは貴重な時間だっただろう。
「若、我が身内の任務失敗、大変申し訳ございません。」
丁寧に頭をさげた錦はすぐに頭をあげると、手のひらで木賊の自宅の方をさして戻るように促してきた。妙に気が回るところも、どうにも一族らしくはないと思うが、それを違和感に感じることはない。
先ほどの男たちのように気味悪く思う連中も居るのだろうが、木賊はむしろこういった態度は好感が持てた。
「後日、俺からお見舞いを届けさせてください。」
「気遣い感謝する、お前たちならば絢音も喜ぶだろう」
それだけ言うと木賊は女性たちに咎められる前にと、錦に医者へ走るよう頼んで自宅へと戻った。
その後、錦に呼ばれた医者は目出度いやら許せないやら、ともかく勇んでやってきて診察をしていった。「女の体になにをするんだ」と終始男への文句を言っていた医者は、体が男で心が女なのだと、連れてきた錦に言われて知った。
錦も仲が良いらしいその医者に礼を言って玄関先においてあった金平糖を持たせて見送ると、木賊は眠ることなく絢音の隣に座り続けた。なんとなく、隣に寝てはいけない気がしたのだ。
自分からこの家へ嫁ぐと宣言したあの時には驚いたが、今日まで嫁であらねばと思う一方で自然とこちらへ好意を傾けてくれていた。共に過ごす時間が長いせいか急激に近づいた距離に、お互い戸惑いはもっていた。それでも、絢音はあのように、不特定多数の他人が居る前で「風間の嫁である」ということを誇りに思うと言い放ってくれたのだ。それがどれほどに嬉しいことか、彼女はきっと分かっては居ない。
この里では極力血が遠い者同士を結ばせ、ほとんどが婚姻統制によって子をなしている。感情が希薄な者が多いこの里ではそれが当たり前だったはずなのに、長となる自分は相手に思われ相手を思って子をなそうとしている。これがどれほど希少なことか。
布団のうえから絢音の腹に手をのせると、木賊は申し訳無さで胸がいっぱいになるのを感じた。幸いにも絢音の身体に怪我は無いとのことで、子供も里の医者に言わせれば無事な可能性もあると。心配しすぎたらしい部下の女性が、母子の安全を守るのだというお呪いをしにもきた。木賊も大丈夫だと信じているが、心配でならない。
「ありがとう」
木賊はそう小さく告げると、絢音が以前歌っていた子守唄を覚えている限りで口ずさんだ。少しでも気を張りすぎる可愛らしい嫁が、ぐっすりと休めるようにと。
終。
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2015/03/27 今昔
絢音が暮らしていた一色一族の暮らす土地はそれなりに都会で、産業が発展してきたこのご時世では流行の最先端でもある場所だった。しかしそれに伴って川は汚れ空気は淀んでいたように思う。もちろん、各種工業を営む一色家とて対策を行っていなかったわけではないが、この風魔の里には遠く及ばないことは確かだ。
庭の端にある物干し竿にシーツやら着物やらが揺れる様子を少し眺めると、よし!と絢音は気合を入れてカゴを持つと立ち上がった。洗濯物が終わったところで、そろそろ昼食の支度にとりかからねばならない。慣れない主婦の仕事をこなすなかで良かったと思うのは、この家に姑が居ないことだろうか。口出しされるとやる気を無くす、という自分でも子供っぽいと分かる一面を持つ樹音としては、寂しい反面嬉しい気持ちもあるのだった。
【 仮想大江戸 お伽話 親世代編02「純血なる一族」 】
世間の喧騒から離れて風魔の里へと入ってから、すでに10ヶ月が経過しようとしていた。絢音は義務感こそあれ、一人の男性を相手にするのと同じように木賊と接していたし、彼もまた絢音を嫁として大切に扱ってくれていた。樹音が夢見ていたような甘く優しい新婚生活とは全く違うだろうが、絢音はこれも1つの幸せだと感じている。今では二人で少し寒くなってきた里の周りを散歩するのが楽しみだ。
風魔の忍びを率いる風魔小太郎、つまりはこの里の長である者の家は周囲より少しだけ大きく、また里の奥まった場所にあった。その反対側である里の入り口には、代々長の腹心でもある桑染という家の邸宅があり、それに挟まれるようにして数々の家が建っている。
絢音は時折やってくる風魔の一族から野菜を貰ったり、元気な子どもたちの相手をしながら次期長の新妻としての日々を過ごしていた。樹音だけを家に戻したことは後悔していない。むしろ、この里の若者たちが「己の鍛錬のためでもある」と入念に護衛をしてくれている。
不満なことがあるとすれば、里の者は感情が希薄で、女性よりも男性の方がそれが顕著だということだ。
「ごめんください」
台所で昼餉の用意をはじめたところで、玄関から声がかかった。絢音は一旦鍋の火を弱めると、エプロンを外しながら玄関へ駆ける。最近は少し体調が悪いのか、走ろうとするとめまいがする。それでも、留守を預かる嫁として妻として、そんな義務感で足を動かした。
「はーい、ただいま」
叫び返しながら玄関を覗くと、見覚えの無い青年が立っていた。風魔独特の白髪に灰色の瞳。両腕で1つの米俵を抱えており、細い腕なのにどこからあんな力が出るのか不思議でならない。
青年は風魔一族の成人の儀を終えているはずなのに、それにしては豊かな表情をこちらへ向けた。軽く口角があがり、目が細まる。
「こんにちは、奥様。僕は錦の家のものです、母に言われてこれを届けに参りました。」
「あら、ありがとうございます。夫にもしかと伝えますと、お母様にお伝え下さいね」
「はい。お昼時に申し訳ないです」
「良いのよ、どうせ任務で遅いのだろうから…あ、そうだ。良かったら金平糖を持って行ってくださらない?私の実家が送ってくれたのだけれど、どうにも量が多くって」
「よろしいのですか!ありがとうございます」
錦の家の者だと名乗った青年は嬉しそうに笑うと、絢音が玄関先に小分けにしておいておいた金平糖を受け取ってじっくりと眺めた。この里では外との交流が少ないためか、こうしたお菓子や若者が好むようなものが少ない。初めて見たとつぶやく青年に、絢音はまた無くなったらお出でというと、それこそ昼時に他所の子を引き止められないなと慌てて帰るように促した。
その日はどうにも錦という子のことが気になった。絢音と同い年くらいの人間は、誰もが無表情が標準装備されている。風魔の人間として任務をこなすということは、当然人も殺すことになるだろうし、感情が希薄になるのは分かる。木賊(とくさ)からも成人として認められるのは感情を殺す術を得たものだけだと聞いたことがある。
そんなとりとめもないことを考えながら義父と共に食事をし、家事をこなしているうちに一日はあっという間に終わってしまった。代わり映えしない一日で終わるはずだったのに、布団へ入ってもまだ錦のことは頭から離れなかった。
こんなことでは同じ布団で寝るようになった木賊に申し訳ないと思う。仕事を終えて帰宅した旦那に食事を出し、風呂を用意し、そして床での安らぎを与えるのが妻の努めだ。絢音の心が他所を向いていることなんて、木賊はすぐに気づいてしまうだろう。
風呂あがりの木賊が寝室へ来るのを待っている間に先日贈られた櫛で髪を梳いていると、背後の障子が静かに開かれた。気配を読もうとしなくとも、屋敷のこの部屋に入れるのは木賊と絢音だけだ。
「さっそく使っているのか」
「ええ、木賊からの頂きものですもの。大切に使わなくては」
そう返されたのがお気に召したのか、木賊は座っていた絢音を後ろから抱えるように腰を下ろした。絢音も櫛を枕元へ置くと、木賊の胸元へと背もたれる。
「今日、錦の家の者だという男の子がお米を持ってきてくださったの」
「……錦の家がか。もしや、妙に笑う男か?」
「あら、ご存知なの?」
どんな子がとも言っていないのにあの子のことだろうと思われる発言をした木賊に、絢音は複雑な気持ちになった。やはり、あのように表情豊かであることは里では異端児なのだろうか。
「錦の家には双子が居る。兄は仕事の出来る奴だが、弟の方はてんで出来ない。弟は人殺しよりも小鳥や草花を愛でる方が向いている」
「…えぇ、そういう穏やかなことが似合う子でしたわ。金平糖をさし上げたのですけれど、とても喜んでくれて。あんな子も里に居るのだと…少し驚きました」
「珍しいことではある。人を殺せない忍びなど、なんの役に立てようか。」
そういう木賊はどこか寂しそうで、絢音を抱いていた腕にも少しだけ力が入ったように思う。確かに感情が読みにくい相手ではあるけれど、しっかりと側に居れば気持ちも汲み取れるようになる。錦ももしかしたら、里の中でイレギュラーだったとしても、いつか理解してくれる相手が現れるかもしれない。
絢音は錦のことを考えるうち、自分が木賊の拠り所にならなくては、いやなりたいのだ。と強く思った。木賊の方へ向き直ると首に腕を回し、自分の体重を使って布団へ横になる。そのまま頭を撫でながら小さな声で子守唄を歌ってみることにした。
「 ゆりかごのうたを かなりやが歌うよ 」
絢音は自分の背中に回された腕に自分も眠気を感じながら、自分の意識が途絶えるまで知っている限りの子守唄を歌い続けた。様々な重圧を感じるであろう一族の跡取りが、少しでも安らかに眠れるように、と。
翌朝、いつもより機嫌の良さそうな木賊を見送りに自宅の門まで出て行くと、今日の仕事に同行するらしい里の忍びたちが何人かやってきていた。皆一様に口を覆う布をつけているが、一人だけ太陽の光を目一杯反射するような灰色の瞳を見つけ、絢音は思わず小さく声をあげてしまった。
錦もまた絢音が出てきていることには気づいていたようで、小さく目礼をしてくれる。顔をあげたところでにっこりと微笑めば、あちらも目が細まり微笑んでくれたようだ。
「絢音、今日は一色家の護衛に入る」
「あら、そうですか。」
「詳細は聞かぬのか?」
「既に風間に嫁いだ身ですもの。生家は確かに心配ですけれど、木賊が向かうのでしたら心配はありませんわ」
「…そうか。嘉萩家との会食の護衛になる。早々に戻るはずだ」
「えぇ、家のことはお任せください。」
1つ頷いた木賊たちが里の外へと向かうのを見送るうち、絢音は少しだけ違和感を感じた。何がとは言えない程度のもので、わざわざ引き止めるのも気が引けたので絢音は今日も洗濯物から終わらせなくてはと自宅へと戻った。
いつもと同じように家事をこなすうち、日が暮れて夕食の支度でも始めようかという頃になってからだった。全身が静電気をもらったかのようにビリリとしびれたのだ。菜箸が床に転がった音で我に帰ると、絢音は変なこともあるものだと首をかしげた。菜箸を綺麗に洗って別の菜箸で料理を再開すると、今度は家の外から悲鳴やら何やらが聞こえてきた。
煮物も味が整ったので火を止めると、絢音はエプロンを外して家の外を覗いてみた。誰かが任務で怪我をしたとしても騒ぎになんてならないだろうし、そもそも騒ぎになったとしてもこんな里の奥まで喧騒が届くことはありえない。
では一体何が?という不安でソワソワとする手のひらにぎゅっと爪を立てて門の外まで小走りにでていくと、ちょうど木賊が戻ってきたところだった。一緒に任務に出ていた者も居るようで、更にその身内と思われる者も集まってきている。
「木賊!」
「絢音、近寄るな。血がつく」
言われて見てみれば、木賊は血まみれの何かを抱えていた。その何かが小さく震えたかと思うと灰色の何かが見え、少ししてからそれが目だと分かった。
灰色の瞳に気づいた途端、抱えられているのが人間で、その左足が無いこと、両腕が力なく垂れていることに気づいてしまい、絢音は口元へ手を持っていった。気持ち悪いわけではない、ただ驚いた。
「錦の家か!!これだから余所者は良くないと言っている!!」
しわがれた声で叫ぶ男性に、周囲に居た人間は一斉に黙り込んだ。
静かになった広場に、木賊たちがやってきた方、里の入り口の方から一人の青年が歩いてきた。錦にそっくりなその青年は舗装されていない里の道で足音を立てることもなく、しずしずと歩いている。その青年に気づいていないのか、叫んだ男性は更に続けた。
「錦の小僧はいつか問題を起こすと思っていた!見てみろ!若と一緒の任務で不祥事とは情けない!里の恥さらしが!!」
「弟がご迷惑をお掛けいたしました」
そこで初めて錦のそっくりさんに気づいたらしい男性は、目を見開いて彼を見た。恐らく今やってきた静かな彼が錦の双子の兄なのだろう。
「ですがどうか、曾祖母を悪く言うのは辞めていただきたい」
「はっ!誰が余所者の言うことなど聞き入れるものか!里の端に家を追いやられた意味を考えろ、愚か者め。最近じゃ余所者同士でつるんでるらしいじゃないか。まんまと長の家にもぐりこんだ雌狐と手を組んで、里を壊すつもりなのだろうに」
ジトッとした男の目線が、絢音を貫いた。
衝撃を受けるはずもない。絢音はふんと鼻で男性を笑うと、つかつかと歩みよった。自分の一族を守るという目的を果たすためにこの里へ嫁いだのだ。雌狐だなんだと悪く言われることなど百も承知でここへ来たのだ。
「木賊、錦の弟くんが助かる見込みは?」
「ある」
「じゃぁ早く運んであげてちょうだいな」
背後で木賊が部下に錦を預けたのを見届けると、絢音は絢音や錦を余所者と言い放った男性を見据えた。こちらが臨戦態勢なのを察しているのか、あちらもだいぶ構えている。しかし絢音は警戒されているという事実を誇らしく感じた。相手が自分を警戒しているのは、己に危害を及ぼす可能性があると認められているからだ。
その通りにしてくれよう、とニィっと口の端を持ち上げた。
「どうも、余所者の新妻ですわ」
「自覚があるようでなによりだな」
「あなたは自分が老害であるという自覚がないようですわね、名も知らぬお方」
背後で絢音と井戸端会議を繰り広げる奥様たちがくすくすと笑ったのが聞こえた。
「で?錦の家の何が気に食わないのかしら」
「雌狐め、貴様は知らぬやもしれぬが、この一族は他所の血を入れぬ純血を保ってきた。それが誇りだ」
「それで数が少ないという、ホコリやチリみたいな因習ですわね。存じておりますわ」
「黙れ!錦の家は4代前に外からの捕虜との間に子供を作った。その末裔があの双子だ。他所の血をもった、しかも畜生腹の子どもたちだ。里に良い影響を与えるはずがなかろう!」
全くその通りだ!と言いたげに頷いた男性が何人か居るのを見て、絢音は盛大にため息をついた。絢音はそれだけで済ませることが出来たものの、背後に何人か居る女性たちからは怒りの雰囲気すら感じる。元より捕虜の女性に子供を産ませるなど、いくら忍びとはいえ女性が受け入れられるはずもない。
まして徳川が世を治めていたような時代ならいざしらず、今どき女性だというだけで地獄へ落ちるだなんて信じている者もごくごく少数だ。絢音とてこのご時世に双子を貶めるような言い方をする人間が居るとは今この耳で聞くまで信じられなかったほどである。この里の女性たちが怒るのもしょうがないだろう。
「貴様もあの双子とは親戚になるのだろうな、なにせ二色の家のものを捕虜にしたのだから」
「あぁ、私の生家の親戚ですか。それは教えて頂いてどうもありがとうございます。今度からあの双子にもお菓子をお裾分けしなくては」
「畜生腹の次は雌狐!!しかもとんだ淫乱だな!身内が辱められて動じもしないとは!」
「あら、だって…わたくし既に風間の家の人間ですもの。あまり生家…しかも遠縁にこだわるだなんて、嫁として恥ずかしいですわ」
「余所者の分際で若の嫁と名乗るのか!跡取りも埋めぬような出来損ないが!!」
自分もだいぶ古めかしいことを言っている自覚はあったが、絢音はゆったりと歩み寄ると男性の首を片手で掴むとグッと腕を上へと伸ばした。思ったよりも簡単に首を絞めることに成功して驚いたと同時に、どんどんと口が軽くなっていく。
「随分と古めかしい考え方をされているのですね、名も知らぬお方。わたくしの生家も、わたくし自身のことも、好きに貶すが良い。ですが、それ相応の復讐はさせていただきますわよ」
「このアマァ!!」
絢音が持ち上げた男性と同意見らしい別の男性がこちらへクナイを振りかざし駆けて来たのを見て、妙に冷静に腕を下ろした。慌てて刃物を引っ込めた相手の上に男性を落とすと、更に後ろから危害を加えようとやってきた男性の蹴りをしゃがんで回避し、足の付根を蹴りあげて転ばせる。背後から寄ってきた男に蹴りを入れて女性陣の方へ跳ね返せば、その男はくノ一として一線で活躍していた彼女たちに袋叩きにされている。
寄ってくる人間は全て相手になってやる。余所者だからと、女だからと舐められるわけにはいかないのだ。絢音は殴ろうとした相手の手を掴み、別の相手の刃物を受け止めるとその両方を利き足で蹴飛ばした。
妙に体が軽い。先日からの体調不良が嘘のようにさらにもう一人を殴って沈めると、どうしてもがら空きになってしまっていた下腹部に衝撃を感じた。
「ハハッ、見ろよ…血なんて吐いてるぞ。汚ねぇな、土地を余所者の血で汚す気かよ!」
絢音の腹を蹴りとばした男性に言われて口元へ手を持っていけば、ぬるりと生ぬるい液体が付着した。べとっと地面へ垂れるそれを目で追うと、口からだけでなく、どうやら下腹部からも血が出ているらしい。月のめぐりで出るようなどす黒い色の血ではなく、口からも下腹部からも鮮血が垂れていた。
腹を蹴った男と他数人は下衆な笑いをあげていたが、女性たちと一部の男性からはため息とも何ともつかない悲鳴のようななにかがあがった。
「アンタたち、お嬢になんてことするの!」
「長、制裁の許可をください!!あんな連中、風魔の男じゃありません!」
そう叫ぶ女性の声がどこか遠くに聞こえた。
そういえば、来ても良いはずの月のものはきていない。元より定期的ではない方だとはいえ、今回はあまりにも遅い。ここのところ体調も悪かった。
あぁ、何故気付かなかったのだろう。あぁ、自分はなんてことをしてしまったのだろう。絢音とて一族の頂点にたつ家系へ生まれた身、跡取りの重要性はよくよく分かっているというのに。自分が迂闊すぎたのだ。失敗した。これは妻として、嫁として、あるまじき姿だ。
ごめんなさい。
そう口が勝手に動いたのは分かったが、耳に届いたのはかすかに唇をこすった空気の音だけだった。
後頭部がじんじんと痛くなり、手のひらはうまく動かない。呼吸も自覚できるほどに浅くなり、思考は働かない。
なによりも、嫁いだ身、人質としても身でありながらというよりも、木賊と居たかもしれないお腹の子への罪悪感で涙も出ない。
「騒ぐな」
木賊の低い声に、周囲が一層静まった。
歩み寄ってきた木賊に抱きしめられ、少しだけ呼吸は楽になったが、それでもまだまともに話すことはできなさそうだ。
「絢音について思うところがある者も多いだろう。他所の血を入れるのかと、風魔の誇りはどうなるのだと。俺はそんなことはどうでもよい。」
「若!何をおっしゃるか!!」
「問題は、血族として近すぎる者どうしが子をなすことで、より体の弱いものが増えたことだ。それを説明し、長の許可も得た上で俺は絢音を迎えた。気が済まぬという者は絢音と対戦し、全員敗れて納得したと思っていたが?」
木賊が周囲を見回すと、絢音に手をあげようとしていた男性たちは気まずそうに顔をそむけたり、逆に文句があると言いたげにこちらを見返したりしている。
「それでもまだ納得できないという者を治められないのは俺の責任だ。彼女に手あげるのは間違っているし、里の女衆に制裁を加えさせるわけにもいかぬ。文句があれば俺にけしかけろ。正面からでもそうでなくとも構わない。ただ、これ以上自分の妻を貶されて黙っていられるほど、俺は馬鹿でもなければ無頓着でもない」
今度こそ、絢音は堪え切れずに木賊の胸元へ縋り付いた。次期当主の嫁たる自分が人前で弱みを見せるなどあってはならない。そう思い続けていたのに、過呼吸になるほどの涙は押さえつけられなかった。
そのままボンヤリとしてきた頭で把握できたのは、背後から錦の兄が飛び出してきて、絢音の腹を蹴った男の顎下へ、膝を入れたことだけだった。
◇ ◇ ◇
錦の片割れが男を沈めた途端、女性陣から拍手が巻き起こった。本当はこんな大袈裟なことにはしたくなかったのだが、どこかこうして人前で絢音を庇えたことはとても意味があるように思える。木賊は泣きつかれたのか気を失った絢音を抱き上げると、周囲の女性たちを見渡した。
誰もがスッキリしたような笑顔を浮かべつつも、口々に絢音を心配するような声をかけてくる。いつの間に里に馴染んだのか不思議であると同時、共に過ごす季節も3つ目ともなればこのくらいなのだろうかとも思える。
「若!お嬢の体が最優先です!」
「早くお医者様に見せなくてどうするのですか!」
「お嬢はずっと、若のお子を産むのだと意気込んで…いえ、喜んでいらっしゃったのに!最近はお体が辛そうなのに無理して家事もこなして…」
「錦の子のことも、身内と知らずに優しく接していたのですよ。なんて優しい子!まだこんなに若いのに!」
口々に言う女衆に謝罪と礼を返していると、錦の兄がこちらへとやってきた。どうやら女性たちが引くのを待っているようだったので視線を投げれば、気を利かせた女性たちが騒いだ男たちの制裁に向かったため、錦は苦笑いしてよってきた。
こうして見ると、弟とよく似ている上に、風魔という一族の中ではかなり表情豊かだ。絢音は年下に惹かれる女性ではないが、この里に居ればこうした世間的な感覚を持った人間と関われるのは貴重な時間だっただろう。
「若、我が身内の任務失敗、大変申し訳ございません。」
丁寧に頭をさげた錦はすぐに頭をあげると、手のひらで木賊の自宅の方をさして戻るように促してきた。妙に気が回るところも、どうにも一族らしくはないと思うが、それを違和感に感じることはない。
先ほどの男たちのように気味悪く思う連中も居るのだろうが、木賊はむしろこういった態度は好感が持てた。
「後日、俺からお見舞いを届けさせてください。」
「気遣い感謝する、お前たちならば絢音も喜ぶだろう」
それだけ言うと木賊は女性たちに咎められる前にと、錦に医者へ走るよう頼んで自宅へと戻った。
その後、錦に呼ばれた医者は目出度いやら許せないやら、ともかく勇んでやってきて診察をしていった。「女の体になにをするんだ」と終始男への文句を言っていた医者は、体が男で心が女なのだと、連れてきた錦に言われて知った。
錦も仲が良いらしいその医者に礼を言って玄関先においてあった金平糖を持たせて見送ると、木賊は眠ることなく絢音の隣に座り続けた。なんとなく、隣に寝てはいけない気がしたのだ。
自分からこの家へ嫁ぐと宣言したあの時には驚いたが、今日まで嫁であらねばと思う一方で自然とこちらへ好意を傾けてくれていた。共に過ごす時間が長いせいか急激に近づいた距離に、お互い戸惑いはもっていた。それでも、絢音はあのように、不特定多数の他人が居る前で「風間の嫁である」ということを誇りに思うと言い放ってくれたのだ。それがどれほどに嬉しいことか、彼女はきっと分かっては居ない。
この里では極力血が遠い者同士を結ばせ、ほとんどが婚姻統制によって子をなしている。感情が希薄な者が多いこの里ではそれが当たり前だったはずなのに、長となる自分は相手に思われ相手を思って子をなそうとしている。これがどれほど希少なことか。
布団のうえから絢音の腹に手をのせると、木賊は申し訳無さで胸がいっぱいになるのを感じた。幸いにも絢音の身体に怪我は無いとのことで、子供も里の医者に言わせれば無事な可能性もあると。心配しすぎたらしい部下の女性が、母子の安全を守るのだというお呪いをしにもきた。木賊も大丈夫だと信じているが、心配でならない。
「ありがとう」
木賊はそう小さく告げると、絢音が以前歌っていた子守唄を覚えている限りで口ずさんだ。少しでも気を張りすぎる可愛らしい嫁が、ぐっすりと休めるようにと。
終。
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2015/03/27 今昔
2015年3月5日木曜日
【仮想百鬼夜行】犬神奇譚 第06話
狗谷ミヤは春になれば三年生へと進級する。今は卒業式の準備やら何やらで二年生はやたらと忙しい時期であり、ミヤもまた何故かなってしまった委員会の仕事で走り回っていた。学校内には折り紙の輪っかで作った飾りがつけられ、卒業おめでとう!と書かれた画用紙製の飾りもぶらさがっている。
こうした掲示物や学校新聞を発行するのがミヤの所属している広報委員会の仕事であり、卒業する三年生のために記念となる学校新聞を作るのが、次の委員長に指名されてしまったミヤの仕事だ。
現在の広報委員長は独特な人物で、ミヤの周りで不思議なことが起こるならなおのことミヤを委員長にしたいと言い出したのだ。なんでも面白い記事がかけると思っているらしい。
「デジ一はちょっと嬉しい。できればキャノンが欲しかったけど」
卒業新聞のために、デジタル一眼レフを持って学校内の写真を撮影していく。三年生が使っている昇降口、部員数の多かった陸上部の部室付近、三年生の教室。職員室前にある大きな額縁に入った絵は、美術部員が地方大会で優勝した作品だそうだ。
次は四階の音楽室へ行ってこようと階段を登っていると、ふと重心が後ろに傾いた。
「…っ!」
近くに人間の気配があることには気づいていたが、それでも今は放課後だ。部活をしている人間が居てもおかしくないと思っていたために、どうやら認識が遅れたらしい。足払いされた勢いのまま、ミヤは背中から落下した。
【 仮想百鬼夜行 犬神奇譚 06 】
剣と珊瑚が卒業式まで今日を入れてあと3日という日に登校していくと、教室がいつもよりザワツイていた。何か面白いことでもあったのかと思ったが、そうではなく皆一様に暗い顔をしている。
剣はうわさ話の事情に詳しいであろう女子に話を聞こうと、クラスメイトの天宮カヨを呼び止めた。
「天宮、今日なんかあったのか?」
呼び止められたカヨは驚いた顔を見せたが、それでも相手が剣と珊瑚だと分かると安心したように微笑んだ。
「あのね、1こ年下の狗谷さんって居るでしょ?」
「あぁ、狗谷ミヤな」
「あの子、階段から突き落とされて入院してるんだって」
カヨはヒソヒソ話をするようにささやくと、とんでも無いことする人が居るもんだねー!とわざとらしく震えてみせた。
剣は酷いことを思っていると自覚しながらも、一瞬考えてしまった。虐めの末に入院させられるようなことになれば、狗谷ミヤは報復を考えるのではないだろうか。特にミヤにはその能力がある。
妖かしたちを使って何かしでかしはしないだろうか、もしくはもう何かあった後なのだろうか。
「それで、その狗谷さんがどうしたの?それだけで皆そんな顔してるの?」
「戒愁くん、それは甘いな。実は、狗谷さんが病院送りになったのが昨夜なんだけど、その後…学校で色々起きてるんだよ…広報委員長が自分でカメラ持って走り回るレベルで!」
「おい、何があったんだ!」
剣が思わずカヨの両肩を掴んで問いただすと、彼女は怒る風でもなく真剣に言ってみせた。
「まず、突き落とした犯人であろう生徒が居る二年四組の教室が、嵐でも来たみたいにグチャグチャになってた。あとは二年生の廊下が水浸しになってて、二年生の昇降口は人が入り込めないくらいに壊れてるらしいよ」
「え?でも朝はそんな騒ぎには…」
「三年とは昇降口が東西で逆じゃない。二年生は校舎も違うから大丈夫だとは思うけど、狗谷さんの呪いがこっちにもくるんじゃないかって噂なの」
剣は腹の底からどす黒いものがうずを巻いて沸き上がってくるのを感じた。もちろん、同級生を階段から突き落とすのはどうかと思う。しかし学校を壊して回って良いはずがない。階段から落ちた程度なら打撲で済むだろうが、教室や昇降口が半壊するようなことをするなんて命に関わる問題だ。
祓い屋衆と呼ばれる人たちのように、人間のために妖かしと一緒に働く人が居るというのに、狗谷ミヤは勝手すぎる。
「大丈夫だよ、梔子。今警察が来て調べてるって先生が言ってたし」
「そうか…警察が来てるのか……」
調べるのはここじゃない。病院に行って狗谷ミヤを問い詰めるべきだ。
剣はそう思い立つと教室を飛び出した。自分が何度も妖かし絡みの危ない目にあっているからこそ、他人がそれに巻き込まれることは許せそうにない。
「ちょっと梔子!どこ行くの!」
後ろから珊瑚とカヨが呼び止める声が聞こえたが、剣は無視して職員室へ向かうべく階段を駆け下りた。
もつれそうになる足でバタバタと階段を降りて行き、廊下へ出たところで誰かと衝突した。教室へ向かう職員だろうか。
「す、すみません!」
「あれ?剣くん?」
聞いたことのある声に顔をあげると、そこにはスーツ姿の清白千草と、同じくスーツを着た麗奈が居た。麗奈は以前剣が犬神に取り憑かれた時と同じように、長い髪の毛を低い位置で結んでいる。
はじめて千草のスーツ姿を見たので、一瞬剣は彼が千草であると認識できなかったが、麗奈ににっこりと微笑まれてはっと我に返った。
「廊下は走ったら駄目だろう?」
「すみません…ちょっと急いで……そうだ!千草さんなら分かりますよね!」
驚く千草に構わず寄っていくと、千草は困ったように微笑んだ。
「もしかして、狗谷ミヤさんのことを言いたいのかい?だったら大丈夫だよ、オレたちは警察の協力要請で祓い屋衆から派遣されてきたんだ。」
「良かった、じゃぁ狗谷はもう監視されているんですよね?」
「それはまだだよ。もちろん、オレの式が見張ろうとしているけれど、彼女の周囲に居る妖かしたちが自主的に排除しているようなんだ」
「じゃあ、あいつは今も野放しなんですか!!」
千草の背後で麗奈が眉間にシワをよせたのが見えた。どうやらお気に召さないらしい。しかし剣はそれも無視して言い募った。
「あいつが虐められたし返しに校舎壊してるんですよ!絶対そうです!今度はけが人が出るかもしれない!妖かしのせいで誰かが怪我するなんて駄目ですよね!!」
「剣くん。少し、落ち着こうか。」
「落ち着いてます!」
「じゃあ聞くよ、今回の校舎を壊した犯人は本当に狗谷ミヤだと言い切れるのかい?」
「それ以外に誰が居るんですか?」
「さっきも言っただろう、狗谷ミヤの指示がなくても動く妖かしが居るんだ。彼女を慕う妖かしは多い。特に犬神の類…つまりイヌ科の動物が妖怪となった者たちだね。四国の形部狸たちも狗谷に従うと言われているくらいだ。」
剣は千草のスーツにシワがよるのも気にせずぎゅっと握りしめた。どうして彼女を慕うのだろう。あんな人間離れした存在の、何が良くて妖かしは狗谷ミヤに付き従うのだろう。まして彼女の指示がなくても、周囲から害と思われるものを取り除くくらいに心酔してしまうのだろう。
「剣さん、我々妖かしは、何よりも自由を愛する生き物です」
今まで黙って見ているだけだった麗奈の言葉に、剣は手の力をゆるめて視線をなげた。
「しかし、自分よりも強い相手には従うこともするのですよ。強い者の下に居るほうが、自由な振る舞いが出来ますし。何より、狗谷ミヤという存在は古くから我々妖かしの中では有名です。」
「有名?」
「ええ。狗谷という家は妖術師として名高く、人間を快く思っていない連中に好かれています。更に狗谷ミヤという個人については、歴史を裏で操っていたとも言われる大妖怪、常磐が取り憑いたことで有名になりました」
麗奈の口から聞かされたのは、日本がまだ地方領主どうしで争っていたような平安と呼ばれる時代の話であった。常磐は狗谷の家が幕府の味方をしていたことから、幕府に逆らう者を裏で始末するような仕事をしていたというのだ。
「ですから、証拠も無しに狗谷ミヤを悪く言うのは、あなたの危害が及ぶかもしれません。やめておいたほうが利口ですよ」
「麗奈、止める必要はないよ。納得できないのなら着いてくれば良い。先生にはオレが誤魔化すから。」
「ですが…」
「狗谷さんのこと気に入っているんだろう?だったら剣くんにも彼女のことを分かってもらいたいじゃないか」
剣は、二人のやりとりに妙に苛立った。子供扱いされているような気がしたし、何より危機感が無いのだ。狗谷ミヤがどれほど恐ろしいことをやってのけるか、千草たちは考えたことがないに違いない。あの白い霧の世界を作り出した腐れ神の時だって、恐ろしい妖かしを自分の祖父にどうにかさせると言っていた。
身内にすらそんな扱いをするような人間が、他人にどんな仕打ちをするだろう。考えただけでもおぞましい。
そう思うとじっとしていられなくなって、剣は千草がまだ何か言おうとしているのも無視して、ここまで来た時と同じくらいの早さで教室へと駆け戻った。背後から呼び止める千草の声が聞こえたが、知ったことではない。
息を切らせて教室へ戻ると、臨時の職員会議があるからと一時間目は自習になったのだと黒板に書かれている。
「梔子!どこ行ってたの?」
教室の入り口で息を整える剣に、珊瑚とカヨは自習のプリントを放り出すと、教室が決して静かではないのを良いことに剣に駆け寄ってきた。
「警察とかが来てるんだけど…あーもう!説明するからこっち来い!」
「ちょっと剣!服が伸びちゃうよ!」
剣は自分たちの教室のすぐとなりにある空き教室へ入り込むと、念の為にと鍵をしめた。
「いいか、よく聞いてくれ。狗谷ミヤは、人間じゃないんだ」
◇ ◇ ◇
千草は式たちに集めさせた霊力の痕跡を見比べながら、深くため息をついた。どうやらこの校舎破壊の犯人は複数居るらしい。壊されたという二年生の教室には大きな爪あとのようなものが残っているし、水は水道水ではなく床から湧きでたようにこぼれている。正確には、今もまだ床からすこしずつ湧き出してきているようだ。
それらを見ながら、千草はこの土地に伝わる伝承について考えた。
「主、この辺りを歩いていた妖かしに話を聞けました。どうやらここは、昔から土鬼の領土だった場所。学校を建設されたことが気に食わないのか、河童たちを率いて、ここ最近は校舎を荒らして回っていたようです」
「なるほど。その中でも大きなイタズラと狗谷ミヤの怪我が重なったからこうなっちゃったのか。」
妖かしに聞いた話をメモしていたらしい手帳を見ながら、麗奈はつらつらと述べた。手帳を抱え直すと、次の指示を待ってこちらを見ている。
千草は彼女の従順さに心地よさを覚えながらも、どうしたものかとまたため息をついた。
土鬼は、仮にも鬼と呼ばれる妖かしだ。それなりに力も強く、この土地を守っていたとなれば、その中でも力がある者なのだろう。そんな相手に戦いを挑みたくはないし、かといって話が通じるかと言われれば分からない。
妖かしは自由を愛すると同時に誇り高い者が多い。自分の守護する土地を奪われたからと事件を起こしているのなら、話し合いに応じてくれるかどうかも危うい。
「困ったな、一度その土鬼と話をしたいんだが…」
「土地神に口を効けるほどの存在ですか…とすると、神主や住職、はたまた常磐のような力を持った者であれば確実ですね」
「麗奈じゃ無理かな?」
「生憎と私はここ数百年の間祓い屋と行動を共にしています。人間側についていることが知れ渡っていますので」
「となると…まずは校長先生にお願いしてみるしかないか。土鬼に相応の供物を与えてイタズラは辞めてもらおう」
「承知しました」
千草が荒れた教室を出ると、廊下はまたしても水浸しになっていた。誰が片付けると思ってるんだ、と愚痴を零しながら、千草は祭壇を作って供物を捧げる許可をとるべく校長室へと向かった。
こんなことなら、水を扱うことに長けている妖かしを式として連れてくればよかったかもしれない。
「片付けが面倒だ…」
「あら、得意ではありませんか、片付け」
「捨てるのは得意だよ、でも整理整頓は好きじゃないからなぁ」
千草と麗奈が廊下の水を避けながら歩いていくと、ちょうど階段を階下から登ってくる人物と出くわした。初老というにはまだ若いというくらいの男性で、その見覚えのある顔に千草は眉間にしわを寄せてしまうのを隠しきれなかった。
男性は優雅に会釈してみせると、丁寧な礼をする麗奈には視線を一切向けずに言い放った。
「清白の坊やがここの担当になるとはね、副校長として屈辱だよ」
「お久しぶりです、梔子重蔵さん。奥様はお元気ですか?最近はなかなかご挨拶にも伺えず、申し訳ございません」
慇懃無礼ともとれるように言えば、梔子重蔵は眉間にシワを寄せてみせた。ただ、それも千草の反応を見るための演出なのだろう。そうは分かっていても苛立つのは致し方ないというものだ。
重蔵はこの学校の副校長であり、妻は県の役員。なんとも豪勢な組み合わせで有名な夫婦であり、かつ祓い屋衆への出資も大量に行っていることで千草もよく知っていた。
「いやはや、今回の件も妖かし絡みなのだろう?嫌だねぇ、こうして妖かしが街をのさばっているというのは。」
重蔵はわざとらしく周囲に居る妖かしをチラチラと探すように視線を動かした。彼に妖かしを見る能力は無いのだろう、見えていたとしたらこの廊下だけでも大量の妖かしが行き来している様子に耐えられるはずもない。
「人間の世界を侵食している連中を、さっさと片付けてくれないか」
「えぇ、そのために、今から校長に許可をいただきに行こうと思っていたところですよ。」
千草がそう言い放つと、重蔵は忌々しげに顔をしかめてみせた。仕事が出来ない祓い屋は怒鳴りつけるし、逆に仕事が出来ても気に食わないらしい。妖かしに関わるものは皆全て、汚らわしいと思っているに違いない。だからこそ、麗奈が何をしようとも気にも留めずに、ただ千草にだけ声をかけるのだ。
孫まで居るような年齢になって大人げないと思うこともあるが、確かに目に見えない何かに襲われる恐怖に気づいてしまえば、こう卑屈にもなるだろう。麗奈もそれはわかっているのか、不機嫌そうではあるものの重蔵に一泡吹かせようとは思っていないらしい。
「ふん、せいぜいやってみたら良いさ。若造がどこまでやれるのか、見ものだよ」
「えぇ、お任せ下さい」
「ところで、この校舎を壊した連中は…あー、あれかね?猫の妖かしだったりするのか?」
「いえ…鬼と犬神の仕業と思われます。」
「そうか…ならば校長にお話しても問題あるまい。」
重蔵はそれだけ言うと、意味ありげに微笑んで見せてからどこかへと立ち去ってしまった。おおよそ、千草で遊ぶためだけに来たのだろう。面倒な人が権力を持っているものだと、千草は深くため息をついた。
「ため息をつくと幸せが逃げると言いますよ」
「もう逃げるような幸せも無いと思うよ」
その発言に、今度は麗奈がため息をついたことに気づかぬまま、千草は校長室へと向かうのだった。
◇ ◇ ◇
「狗谷ミヤが人間じゃないって、どういうこと?」
珊瑚のごもっともな問いかけに、剣はイライラしながら下唇を噛み締めた。正直に話したところで信じてもらえるとは思えない。何より、妖かしを見たこともないだろう彼らを、自分が体験したあの恐ろしい世界へ巻き込むのは気が引ける。
けれどこれもあの狗谷ミヤからの攻撃に対処するためなのだ、と剣は自分に言い聞かせて口を開いた。
「あいつは犬神憑きなんだ。」
「…妖怪ってこと?狗谷ミヤは妖怪なの?」
「狗谷さんが妖怪って…でも、犬神憑きってご先祖様が犬神使いだったからってことだろう?本人は関係ないんじゃ…」
「狗谷ミヤも、使うんだよ。怪しい魔法みたいなのを…妖術って言ってた。おれさ、妖かしに襲われたことがあって、その時に助けてもらったんだよ、祓い屋って人に」
「祓い屋ってエクソシストってこと?じゃぁ人間の味方だね、その人は」
「その祓い屋が今学校に調査しに来てて、言ってたんだ。狗谷ミヤの周りに居る妖かしが校舎を壊してるんだろうって」
剣がぎゅっと拳を作って言うと、それ以上に隣に居たカヨが反応を示した。息を呑んだかと思うと、まるで小さい子供が食べられない野菜を見た時のような、もしくは麗奈が常磐と出くわした時のような顔をしてみせた。忌々しいと言いたげな顔に、剣も珊瑚も目を見開くほどの表情で、カヨは制服のポケットから紙切れを取り出した。
紙はA4ほどの大きさで、横長にして置いた時、上部中央に鳥居のマークが。その下にはひらがなの五十音表と数字がずらりと書いてある。これは剣も知っていた。こっくりさんだ。
「人間じゃない奴なんて滅びるべきだよ。」
言ってのけた勢いで、カヨは10円玉を鳥居のマークに置いた。ほら早く!と言いたげに剣と珊瑚を見るものだから、剣はついつい10円に指を載せてしまった。珊瑚はそのことを信じられないという顔でこちらを見てきたが、カヨに睨まれると諦めたのか指を載せた。
「人間じゃないものでもね、こっくりさんは神様なの。だから大丈夫。でも妖怪は駄目。」
「コックリさんって神様なの?」
「そう。神様なの。迷った時に色々教えてくれる。今日は3人居るからきっといつも以上に色々教えてくれるはず」
カヨが10円玉に指を載せたまま目を閉じると、うっすらと体が光ったように見えた。剣はそれが、千草が妖術を使った時と同じだと気づくと、このコックリさんが妙に信ぴょう性のあるものに思えた。
「コックリさん、コックリさん。おいでください」
カヨがそう言った途端、光は一瞬強くなり、10円玉が微かに動いた。
「おい小娘、その紙の書き方間違ってるだろう」
聞いたことのある声に顔をあげると、そこには白髪に緑色の瞳、着流し姿に耳がぴょこっと見えている、剣が見慣れた妖かしの姿が浮いていた。。不機嫌なのか、彼の尻尾はビシビシと壁を叩いている。
「げ、常磐!!!」
「『げ』とはなんだ、犬。」
「犬じゃねぇよ!犬はお前だろう!」
「犬ではない。狼だ。いや、今は狗神代理だな。」
うっかり10円玉から指を離しそうになりながら、剣は盛大に吠えた。両隣の珊瑚やカヨにも常磐の姿は見えているようで、二人とも目を見開いて常磐を見ていた。次第にカヨは嬉しそうな表情になり、それから用紙を見てしょんぼりと眉を下げた。
紙の内容が間違っていると言われたのがショックだったのだろうが、剣からしてみれば常磐の言葉に耳を貸す必要など全くない。
「で、何が知りたいんだ、小娘よ」
常磐が側に居ない方が狗谷ミヤは悪さが出来ないのだろうかとか、側に居ないことで拗ねて何かしでかさないかだとか。そういったことが頭の中でぐるぐると回って整理できない。
ニンマリと笑ってみせた常磐に、剣は一抹の不安を感じながらもカヨの言葉を待つしか無かった。
2015/03/05 今昔
こうした掲示物や学校新聞を発行するのがミヤの所属している広報委員会の仕事であり、卒業する三年生のために記念となる学校新聞を作るのが、次の委員長に指名されてしまったミヤの仕事だ。
現在の広報委員長は独特な人物で、ミヤの周りで不思議なことが起こるならなおのことミヤを委員長にしたいと言い出したのだ。なんでも面白い記事がかけると思っているらしい。
「デジ一はちょっと嬉しい。できればキャノンが欲しかったけど」
卒業新聞のために、デジタル一眼レフを持って学校内の写真を撮影していく。三年生が使っている昇降口、部員数の多かった陸上部の部室付近、三年生の教室。職員室前にある大きな額縁に入った絵は、美術部員が地方大会で優勝した作品だそうだ。
次は四階の音楽室へ行ってこようと階段を登っていると、ふと重心が後ろに傾いた。
「…っ!」
近くに人間の気配があることには気づいていたが、それでも今は放課後だ。部活をしている人間が居てもおかしくないと思っていたために、どうやら認識が遅れたらしい。足払いされた勢いのまま、ミヤは背中から落下した。
【 仮想百鬼夜行 犬神奇譚 06 】
剣と珊瑚が卒業式まで今日を入れてあと3日という日に登校していくと、教室がいつもよりザワツイていた。何か面白いことでもあったのかと思ったが、そうではなく皆一様に暗い顔をしている。
剣はうわさ話の事情に詳しいであろう女子に話を聞こうと、クラスメイトの天宮カヨを呼び止めた。
「天宮、今日なんかあったのか?」
呼び止められたカヨは驚いた顔を見せたが、それでも相手が剣と珊瑚だと分かると安心したように微笑んだ。
「あのね、1こ年下の狗谷さんって居るでしょ?」
「あぁ、狗谷ミヤな」
「あの子、階段から突き落とされて入院してるんだって」
カヨはヒソヒソ話をするようにささやくと、とんでも無いことする人が居るもんだねー!とわざとらしく震えてみせた。
剣は酷いことを思っていると自覚しながらも、一瞬考えてしまった。虐めの末に入院させられるようなことになれば、狗谷ミヤは報復を考えるのではないだろうか。特にミヤにはその能力がある。
妖かしたちを使って何かしでかしはしないだろうか、もしくはもう何かあった後なのだろうか。
「それで、その狗谷さんがどうしたの?それだけで皆そんな顔してるの?」
「戒愁くん、それは甘いな。実は、狗谷さんが病院送りになったのが昨夜なんだけど、その後…学校で色々起きてるんだよ…広報委員長が自分でカメラ持って走り回るレベルで!」
「おい、何があったんだ!」
剣が思わずカヨの両肩を掴んで問いただすと、彼女は怒る風でもなく真剣に言ってみせた。
「まず、突き落とした犯人であろう生徒が居る二年四組の教室が、嵐でも来たみたいにグチャグチャになってた。あとは二年生の廊下が水浸しになってて、二年生の昇降口は人が入り込めないくらいに壊れてるらしいよ」
「え?でも朝はそんな騒ぎには…」
「三年とは昇降口が東西で逆じゃない。二年生は校舎も違うから大丈夫だとは思うけど、狗谷さんの呪いがこっちにもくるんじゃないかって噂なの」
剣は腹の底からどす黒いものがうずを巻いて沸き上がってくるのを感じた。もちろん、同級生を階段から突き落とすのはどうかと思う。しかし学校を壊して回って良いはずがない。階段から落ちた程度なら打撲で済むだろうが、教室や昇降口が半壊するようなことをするなんて命に関わる問題だ。
祓い屋衆と呼ばれる人たちのように、人間のために妖かしと一緒に働く人が居るというのに、狗谷ミヤは勝手すぎる。
「大丈夫だよ、梔子。今警察が来て調べてるって先生が言ってたし」
「そうか…警察が来てるのか……」
調べるのはここじゃない。病院に行って狗谷ミヤを問い詰めるべきだ。
剣はそう思い立つと教室を飛び出した。自分が何度も妖かし絡みの危ない目にあっているからこそ、他人がそれに巻き込まれることは許せそうにない。
「ちょっと梔子!どこ行くの!」
後ろから珊瑚とカヨが呼び止める声が聞こえたが、剣は無視して職員室へ向かうべく階段を駆け下りた。
もつれそうになる足でバタバタと階段を降りて行き、廊下へ出たところで誰かと衝突した。教室へ向かう職員だろうか。
「す、すみません!」
「あれ?剣くん?」
聞いたことのある声に顔をあげると、そこにはスーツ姿の清白千草と、同じくスーツを着た麗奈が居た。麗奈は以前剣が犬神に取り憑かれた時と同じように、長い髪の毛を低い位置で結んでいる。
はじめて千草のスーツ姿を見たので、一瞬剣は彼が千草であると認識できなかったが、麗奈ににっこりと微笑まれてはっと我に返った。
「廊下は走ったら駄目だろう?」
「すみません…ちょっと急いで……そうだ!千草さんなら分かりますよね!」
驚く千草に構わず寄っていくと、千草は困ったように微笑んだ。
「もしかして、狗谷ミヤさんのことを言いたいのかい?だったら大丈夫だよ、オレたちは警察の協力要請で祓い屋衆から派遣されてきたんだ。」
「良かった、じゃぁ狗谷はもう監視されているんですよね?」
「それはまだだよ。もちろん、オレの式が見張ろうとしているけれど、彼女の周囲に居る妖かしたちが自主的に排除しているようなんだ」
「じゃあ、あいつは今も野放しなんですか!!」
千草の背後で麗奈が眉間にシワをよせたのが見えた。どうやらお気に召さないらしい。しかし剣はそれも無視して言い募った。
「あいつが虐められたし返しに校舎壊してるんですよ!絶対そうです!今度はけが人が出るかもしれない!妖かしのせいで誰かが怪我するなんて駄目ですよね!!」
「剣くん。少し、落ち着こうか。」
「落ち着いてます!」
「じゃあ聞くよ、今回の校舎を壊した犯人は本当に狗谷ミヤだと言い切れるのかい?」
「それ以外に誰が居るんですか?」
「さっきも言っただろう、狗谷ミヤの指示がなくても動く妖かしが居るんだ。彼女を慕う妖かしは多い。特に犬神の類…つまりイヌ科の動物が妖怪となった者たちだね。四国の形部狸たちも狗谷に従うと言われているくらいだ。」
剣は千草のスーツにシワがよるのも気にせずぎゅっと握りしめた。どうして彼女を慕うのだろう。あんな人間離れした存在の、何が良くて妖かしは狗谷ミヤに付き従うのだろう。まして彼女の指示がなくても、周囲から害と思われるものを取り除くくらいに心酔してしまうのだろう。
「剣さん、我々妖かしは、何よりも自由を愛する生き物です」
今まで黙って見ているだけだった麗奈の言葉に、剣は手の力をゆるめて視線をなげた。
「しかし、自分よりも強い相手には従うこともするのですよ。強い者の下に居るほうが、自由な振る舞いが出来ますし。何より、狗谷ミヤという存在は古くから我々妖かしの中では有名です。」
「有名?」
「ええ。狗谷という家は妖術師として名高く、人間を快く思っていない連中に好かれています。更に狗谷ミヤという個人については、歴史を裏で操っていたとも言われる大妖怪、常磐が取り憑いたことで有名になりました」
麗奈の口から聞かされたのは、日本がまだ地方領主どうしで争っていたような平安と呼ばれる時代の話であった。常磐は狗谷の家が幕府の味方をしていたことから、幕府に逆らう者を裏で始末するような仕事をしていたというのだ。
「ですから、証拠も無しに狗谷ミヤを悪く言うのは、あなたの危害が及ぶかもしれません。やめておいたほうが利口ですよ」
「麗奈、止める必要はないよ。納得できないのなら着いてくれば良い。先生にはオレが誤魔化すから。」
「ですが…」
「狗谷さんのこと気に入っているんだろう?だったら剣くんにも彼女のことを分かってもらいたいじゃないか」
剣は、二人のやりとりに妙に苛立った。子供扱いされているような気がしたし、何より危機感が無いのだ。狗谷ミヤがどれほど恐ろしいことをやってのけるか、千草たちは考えたことがないに違いない。あの白い霧の世界を作り出した腐れ神の時だって、恐ろしい妖かしを自分の祖父にどうにかさせると言っていた。
身内にすらそんな扱いをするような人間が、他人にどんな仕打ちをするだろう。考えただけでもおぞましい。
そう思うとじっとしていられなくなって、剣は千草がまだ何か言おうとしているのも無視して、ここまで来た時と同じくらいの早さで教室へと駆け戻った。背後から呼び止める千草の声が聞こえたが、知ったことではない。
息を切らせて教室へ戻ると、臨時の職員会議があるからと一時間目は自習になったのだと黒板に書かれている。
「梔子!どこ行ってたの?」
教室の入り口で息を整える剣に、珊瑚とカヨは自習のプリントを放り出すと、教室が決して静かではないのを良いことに剣に駆け寄ってきた。
「警察とかが来てるんだけど…あーもう!説明するからこっち来い!」
「ちょっと剣!服が伸びちゃうよ!」
剣は自分たちの教室のすぐとなりにある空き教室へ入り込むと、念の為にと鍵をしめた。
「いいか、よく聞いてくれ。狗谷ミヤは、人間じゃないんだ」
◇ ◇ ◇
千草は式たちに集めさせた霊力の痕跡を見比べながら、深くため息をついた。どうやらこの校舎破壊の犯人は複数居るらしい。壊されたという二年生の教室には大きな爪あとのようなものが残っているし、水は水道水ではなく床から湧きでたようにこぼれている。正確には、今もまだ床からすこしずつ湧き出してきているようだ。
それらを見ながら、千草はこの土地に伝わる伝承について考えた。
「主、この辺りを歩いていた妖かしに話を聞けました。どうやらここは、昔から土鬼の領土だった場所。学校を建設されたことが気に食わないのか、河童たちを率いて、ここ最近は校舎を荒らして回っていたようです」
「なるほど。その中でも大きなイタズラと狗谷ミヤの怪我が重なったからこうなっちゃったのか。」
妖かしに聞いた話をメモしていたらしい手帳を見ながら、麗奈はつらつらと述べた。手帳を抱え直すと、次の指示を待ってこちらを見ている。
千草は彼女の従順さに心地よさを覚えながらも、どうしたものかとまたため息をついた。
土鬼は、仮にも鬼と呼ばれる妖かしだ。それなりに力も強く、この土地を守っていたとなれば、その中でも力がある者なのだろう。そんな相手に戦いを挑みたくはないし、かといって話が通じるかと言われれば分からない。
妖かしは自由を愛すると同時に誇り高い者が多い。自分の守護する土地を奪われたからと事件を起こしているのなら、話し合いに応じてくれるかどうかも危うい。
「困ったな、一度その土鬼と話をしたいんだが…」
「土地神に口を効けるほどの存在ですか…とすると、神主や住職、はたまた常磐のような力を持った者であれば確実ですね」
「麗奈じゃ無理かな?」
「生憎と私はここ数百年の間祓い屋と行動を共にしています。人間側についていることが知れ渡っていますので」
「となると…まずは校長先生にお願いしてみるしかないか。土鬼に相応の供物を与えてイタズラは辞めてもらおう」
「承知しました」
千草が荒れた教室を出ると、廊下はまたしても水浸しになっていた。誰が片付けると思ってるんだ、と愚痴を零しながら、千草は祭壇を作って供物を捧げる許可をとるべく校長室へと向かった。
こんなことなら、水を扱うことに長けている妖かしを式として連れてくればよかったかもしれない。
「片付けが面倒だ…」
「あら、得意ではありませんか、片付け」
「捨てるのは得意だよ、でも整理整頓は好きじゃないからなぁ」
千草と麗奈が廊下の水を避けながら歩いていくと、ちょうど階段を階下から登ってくる人物と出くわした。初老というにはまだ若いというくらいの男性で、その見覚えのある顔に千草は眉間にしわを寄せてしまうのを隠しきれなかった。
男性は優雅に会釈してみせると、丁寧な礼をする麗奈には視線を一切向けずに言い放った。
「清白の坊やがここの担当になるとはね、副校長として屈辱だよ」
「お久しぶりです、梔子重蔵さん。奥様はお元気ですか?最近はなかなかご挨拶にも伺えず、申し訳ございません」
慇懃無礼ともとれるように言えば、梔子重蔵は眉間にシワを寄せてみせた。ただ、それも千草の反応を見るための演出なのだろう。そうは分かっていても苛立つのは致し方ないというものだ。
重蔵はこの学校の副校長であり、妻は県の役員。なんとも豪勢な組み合わせで有名な夫婦であり、かつ祓い屋衆への出資も大量に行っていることで千草もよく知っていた。
「いやはや、今回の件も妖かし絡みなのだろう?嫌だねぇ、こうして妖かしが街をのさばっているというのは。」
重蔵はわざとらしく周囲に居る妖かしをチラチラと探すように視線を動かした。彼に妖かしを見る能力は無いのだろう、見えていたとしたらこの廊下だけでも大量の妖かしが行き来している様子に耐えられるはずもない。
「人間の世界を侵食している連中を、さっさと片付けてくれないか」
「えぇ、そのために、今から校長に許可をいただきに行こうと思っていたところですよ。」
千草がそう言い放つと、重蔵は忌々しげに顔をしかめてみせた。仕事が出来ない祓い屋は怒鳴りつけるし、逆に仕事が出来ても気に食わないらしい。妖かしに関わるものは皆全て、汚らわしいと思っているに違いない。だからこそ、麗奈が何をしようとも気にも留めずに、ただ千草にだけ声をかけるのだ。
孫まで居るような年齢になって大人げないと思うこともあるが、確かに目に見えない何かに襲われる恐怖に気づいてしまえば、こう卑屈にもなるだろう。麗奈もそれはわかっているのか、不機嫌そうではあるものの重蔵に一泡吹かせようとは思っていないらしい。
「ふん、せいぜいやってみたら良いさ。若造がどこまでやれるのか、見ものだよ」
「えぇ、お任せ下さい」
「ところで、この校舎を壊した連中は…あー、あれかね?猫の妖かしだったりするのか?」
「いえ…鬼と犬神の仕業と思われます。」
「そうか…ならば校長にお話しても問題あるまい。」
重蔵はそれだけ言うと、意味ありげに微笑んで見せてからどこかへと立ち去ってしまった。おおよそ、千草で遊ぶためだけに来たのだろう。面倒な人が権力を持っているものだと、千草は深くため息をついた。
「ため息をつくと幸せが逃げると言いますよ」
「もう逃げるような幸せも無いと思うよ」
その発言に、今度は麗奈がため息をついたことに気づかぬまま、千草は校長室へと向かうのだった。
◇ ◇ ◇
「狗谷ミヤが人間じゃないって、どういうこと?」
珊瑚のごもっともな問いかけに、剣はイライラしながら下唇を噛み締めた。正直に話したところで信じてもらえるとは思えない。何より、妖かしを見たこともないだろう彼らを、自分が体験したあの恐ろしい世界へ巻き込むのは気が引ける。
けれどこれもあの狗谷ミヤからの攻撃に対処するためなのだ、と剣は自分に言い聞かせて口を開いた。
「あいつは犬神憑きなんだ。」
「…妖怪ってこと?狗谷ミヤは妖怪なの?」
「狗谷さんが妖怪って…でも、犬神憑きってご先祖様が犬神使いだったからってことだろう?本人は関係ないんじゃ…」
「狗谷ミヤも、使うんだよ。怪しい魔法みたいなのを…妖術って言ってた。おれさ、妖かしに襲われたことがあって、その時に助けてもらったんだよ、祓い屋って人に」
「祓い屋ってエクソシストってこと?じゃぁ人間の味方だね、その人は」
「その祓い屋が今学校に調査しに来てて、言ってたんだ。狗谷ミヤの周りに居る妖かしが校舎を壊してるんだろうって」
剣がぎゅっと拳を作って言うと、それ以上に隣に居たカヨが反応を示した。息を呑んだかと思うと、まるで小さい子供が食べられない野菜を見た時のような、もしくは麗奈が常磐と出くわした時のような顔をしてみせた。忌々しいと言いたげな顔に、剣も珊瑚も目を見開くほどの表情で、カヨは制服のポケットから紙切れを取り出した。
紙はA4ほどの大きさで、横長にして置いた時、上部中央に鳥居のマークが。その下にはひらがなの五十音表と数字がずらりと書いてある。これは剣も知っていた。こっくりさんだ。
「人間じゃない奴なんて滅びるべきだよ。」
言ってのけた勢いで、カヨは10円玉を鳥居のマークに置いた。ほら早く!と言いたげに剣と珊瑚を見るものだから、剣はついつい10円に指を載せてしまった。珊瑚はそのことを信じられないという顔でこちらを見てきたが、カヨに睨まれると諦めたのか指を載せた。
「人間じゃないものでもね、こっくりさんは神様なの。だから大丈夫。でも妖怪は駄目。」
「コックリさんって神様なの?」
「そう。神様なの。迷った時に色々教えてくれる。今日は3人居るからきっといつも以上に色々教えてくれるはず」
カヨが10円玉に指を載せたまま目を閉じると、うっすらと体が光ったように見えた。剣はそれが、千草が妖術を使った時と同じだと気づくと、このコックリさんが妙に信ぴょう性のあるものに思えた。
「コックリさん、コックリさん。おいでください」
カヨがそう言った途端、光は一瞬強くなり、10円玉が微かに動いた。
「おい小娘、その紙の書き方間違ってるだろう」
聞いたことのある声に顔をあげると、そこには白髪に緑色の瞳、着流し姿に耳がぴょこっと見えている、剣が見慣れた妖かしの姿が浮いていた。。不機嫌なのか、彼の尻尾はビシビシと壁を叩いている。
「げ、常磐!!!」
「『げ』とはなんだ、犬。」
「犬じゃねぇよ!犬はお前だろう!」
「犬ではない。狼だ。いや、今は狗神代理だな。」
うっかり10円玉から指を離しそうになりながら、剣は盛大に吠えた。両隣の珊瑚やカヨにも常磐の姿は見えているようで、二人とも目を見開いて常磐を見ていた。次第にカヨは嬉しそうな表情になり、それから用紙を見てしょんぼりと眉を下げた。
紙の内容が間違っていると言われたのがショックだったのだろうが、剣からしてみれば常磐の言葉に耳を貸す必要など全くない。
「で、何が知りたいんだ、小娘よ」
常磐が側に居ない方が狗谷ミヤは悪さが出来ないのだろうかとか、側に居ないことで拗ねて何かしでかさないかだとか。そういったことが頭の中でぐるぐると回って整理できない。
ニンマリと笑ってみせた常磐に、剣は一抹の不安を感じながらもカヨの言葉を待つしか無かった。
2015/03/05 今昔
2015年3月2日月曜日
【仮想大江戸】番外編 親世代編「艶やかなる一族」
今は昔、竹取の翁よりもはるか昔の話である。
平安とよばれたまこと雅なる時代に入る前、日本という国はいくつかの家々が支配していた。江戸を治める嘉萩家とそれを守護する風魔一族。遠江(とおとうみ)に住まう一色家と七色家、さらに京を守護する紅家と親しい甲賀一族、東北の地を治める蒼天一族。その他にも大小様々な地方領主によって均衡を保っていた日本で、その薄い壁を破ろうとする者は少なくなかった。
いつしか、一色と七色はほとんど同じ血族となり、蒼天一族が勢いを弱め、嘉萩家が関東を集中に収めるようになり、紅家が江戸に分家を置くようになる。これが大江戸歴のはじめのお話である。
【 仮想大江戸 お伽話 親世代編「艶やかなる一族」 】
そんな竹取物語から時代は流れ、大江戸歴は1900年台も後半に入っていた。
一色、といえば、日本の中程に位置する遠江を治める一門の当主として有名な家柄である。大江戸歴が始まる前から続くとも言われるそれは、この大江戸歴1960年台でも変わらない栄誉を誇っている。一色絢音は、そのことに誇りを持っていると言っても良い。
一族特有の青い髪の毛と瞳は、どこにっても注目の的であり、ちょっとの問題であれば周囲が勝手に解決してくれる。それは一族が代々、統治や地方産業である農業に工業、繊維機械系を一手に守っていることからくるものであり、絢音がこれからも守らねばと思うものである。
と、周囲は絢音のことはそう信じてやまないだろう。
「馬鹿じゃないかしらねぇ、本当に」
大きなあくびとともにそう言うと、絢音は邪魔な前髪を耳にかけた。この河川敷は気持ち良い風が吹くのが好きで、学校帰りによくこうして暇をつぶすのだ。ここの辺りは近所では少し治安が悪いといわれていて、一族の人間は近寄らない。逆に絢音が居ても「いつも人に囲まれていて大変なのね」と変に気を使って誰も寄ってこない。
代々地方産業を行っている企業に出資していることは事実だし、一族の人間がそういった会社に多く務めているのも確かだ。しかしそれを誇りに思うのではなく、驕り己の私腹を肥やすことを考える人間が多い。政略結婚で愛のない夫婦も多く、かくいう絢音も双子である樹音も婚約者が居る。
そんな一族を好きになれ?誇りに思え?周りはいつも無茶なことを言うもので、絢音は17歳という年齢で既に諦めを覚えている。双子の樹音は伸ばし続けている一族の象徴とも言える青髪も、絢音はなんだか気に食わなくて切ってしまった。あの時の両親の顔を思い出すだけでも腹が捩れるほどに笑いがこみ上げてくる。
「馬鹿は絢音でしょう?そうやって皆をおちょくって遊んでばかり。」
ひざ上まで丈を短くした着物の裾を抑えながら、見た目は絢音にそっくりな少女が隣に座り込んだ。言うまでもなく仲の良い双子の樹音であり、地面にすりそうな丈の着物にスリットを入れている絢音とは正反対な性格は大変に好ましい。
「だって。先週末婚約者の方にお会いしたでしょう?何よあれ、気持ちの悪い声をして…ありえないわ」
「でも、収入が安定してるイケメンでしょう?良いじゃない。将来安泰」
「無理!あんな気味の悪い声の人と暮らしていくだなんて無理!ぜったいに嫌!」
「じゃぁ、誰なら良いの?」
「一族に居るわけがないでしょう?私のお眼鏡に叶う良い声の男性だなんて」
「あらあら、ふふっ。知ってるのよ?寺子屋の望月様、良い声だって言ってたでしょう?」
「同い年くらいの連中なら、って話よ。もっと低くて優しい声の人が良い。ついでに財力があって顔が悪くなければ良い」
はーあと盛大なため息をついて寝転がると、隣で樹音がまたもや声をあげて笑った。くすくすという笑い方は、樹音の穏やかな性格によく合っていると思う。双子だというのに、どちらかというと大人っぽいと言われることが多い絢音と、歳相応で清楚で純粋と言われる樹音とではタイプが違いすぎる。もちろん言い寄ってくる男性も違う。
そういえば最近は10も年上の男性に求婚されたっけなぁと思い出していると、歪な形の雲が流れていった。あの形、なんとなく気に食わない。
「でも望月様は良い候補なのね、覚えておくわ。ところで、絢音ってばよくここに来るみたいだけれど、この辺りは治安が悪いから気をつけた方が良いわよ。早く帰りましょう」
隣で樹音が立ち上がり、着物のおしりについた草をぽんぽんと払った。絢音も両親がうるさく言う前に帰ろうかと立ち上がり、そこで違和感を覚えた。
「一般人としてはなかなかだ」
そう言われたと気づいた時には、顔に何か麻袋のようなものを被せられたのか視界は塞がれ、両手両足を縛り上げられる感覚があった。何をするの!と叫んだが、地面から足が離れてお腹に衝撃が走った。
周囲で男性が「手厚く扱え」と言っているのが聞こえる。なかなかに良い声じゃないかと思った次の瞬間には自分の足の方向に進んでいくのを感じた。どうやら俵担ぎでどこかに運ばれているらしい。
絢音はしまったと思うと同時に、必死に足音を数えた。4人分だろうか。ということは、一緒に居た樹音も一緒にさらわれている可能性がたかい。地元でも名高い家の娘だ。身代金目的の誘拐があってもおかしくない。
試しに顔を蹴ってやろうかと足を動かしてみたが、膝裏に手を添えられて終わりだった。
「ちょっと、あの…降ろしていただくか、もう少しっ…丁寧に運んでくださいませんか?」
絢音の前方、進行方向の反対から樹音の声がした。すぐに「ありがとうございます。」と続いたので、何か抱えられ方に変わりがあったのだろう。絢音は樹音の声に少しだけ冷静さが戻るのを自覚しながら、どうにか息を吸い込んだ。それから出来る限り落ち着いて聞こえるよう、自分を運ぶ人間と並走している人間が居るあたりに向かって言った。
「貴方がた、私たちをどうするおつもりなのかしら?」
しばし考えるような間があったが、すぐに男性の声が返ってきた。
「一色樹音の方は平穏に埋もれていたかったようだが、お前はこういう異常事態を待ち望んで居たのだろう?ならばこの事態を喜んで受け入れるが良い。何、悪いようにはしないさ」
はじめに、二人のことを丁重に扱えと言った声と同じだ。
絢音は仕方なしに返事もせずに黙りこみ、彼らの目的地へつくのを待つことにした。
運ばれているうちに酔わなかったのは奇跡だと知ったのは、板の間六畳ほどの部屋へ投げ出された時に樹音が青い顔をしているのを見てからだった。目隠しはされなかったものの手足の拘束はそのままで、二人はひんやりとした床の上で身を寄せ合った。
降ろされた時に見えたのは、緑色の縁取りがされた忍び装束で、世間のことにあまり興味が無かった二人でも分かったことがあった。自分たちは風魔の忍びにさらわれたのだ。
「風魔一族、だよね」
「そうね、でもあの家って確か江戸の嘉萩家と密着しているんじゃなかったかしら?どうして私達を?嘉萩家の邪魔になるような存在なのかしら。江戸からこっちに向けて領地を広げたい、とか」
絢音の言う予想が正しいかどうかは分からないし、かと言って何か喋っていないと落ち着いて居ることは難しかった。
二人が他愛もないことを話しているうちに、忍び装束の女性がなになら竹で出来た衣装箱のようなものを持って入ってきた。彼女は間違うことなく絢音の方を見ると、懐から短刀を取り出して手足の拘束を切った。縛られていたところは少し赤くなっているものの、そう跡は残らなさそうだ。
「こちらに着替えて下さい。若様がお呼びです」
「……分かりました」
逆らっても良いことはないだろうと、差し出された衣装箱を開くと、中には深緑色の美しい着物が収められていた。深い青髪と合いそうな金色の簪も入っている。
「絢音、行くの?」
「行かなくちゃ何も始まらないじゃない」
「オカシイわ。だって……だって、相手は…」
オカシイのは樹音の方だ。
絢音はその言葉をすんでで飲み込むと、さっと着替えを済ませることにした。先ほどあの男性に言われたばかりだ。樹音は普通が一番だというが、絢音は一色家の普通を壊してやりたい。だったら、絢音が出て行って要求を聞き、樹音だけでも元の場所へ帰してやるのが正解だろう。
双子だからといって、何から何まで同じでなくてはならない道理はない。
着替え終えると、やはり全体的に落ち着いた色合いで大人っぽく、かつ質もなかなかに良いものであることが伺える。絢音は気が引き締まる思いで女性の後ろについて部屋を後にした。背後から樹音が呼ぶ声が聞こえたが、聞こえないフリを決め込んだ。
女性の後ろを歩いて行くと、この建物はちょっとした城と呼んでも良いほどに広い屋敷であるらしい。階段を登って長い廊下を歩き、右へ左へ歩くうちに、絢音は先ほど居た場所へ戻れる自信は早々に失った。
女性は1つの部屋の前で膝をつくと、中へ向かって声をかけた。s
「若様、一色絢音をお連れいたしました。」
無言で内側から襖が開けられ、部屋の中に二人の男性が居るのが見えた。一人は初老と言える、絢音の両親と同じくらいの年齢で、もう一人は絢音より少し年上であろう青年だった。
「一色絢音、手荒なマネをしてすまないな。息子にはキツく言い聞かせた、女性は丁重に扱えと」
初老の男性の言葉で、彼らが親子であるとわかると、絢音には二人がそっくりに見えてきた。もちろん、同じ忍び装束で同じような髪型をしているからかもしれない。
黒に緑色の縁取りがされた装束と、真っ白な白髪、それから緑色の瞳。どれも美しいと思わされる。それを言えばきっと樹音に「オカシイ」と言われるのだろうが、絢音にはそれらが美しく見えた。
「いえ、構いません。それよりも、わたくしをここへお呼びになった理由を伺えませんか。」
絢音の言葉に、初老の男性は楽しそうに笑うと対面にある座布団を進めてきた。絢音は逆らうこともなく、いつも家で言われる通りにそっと座った。
「私の名は風魔小太郎。これは息子の木賊(とくさ)だ。」
「一色絢音と申します。」
「我々が誰の依頼で動いているか、検討が付いているのではないかね?どうだい、お嬢さん」
風魔小太郎と名乗ったそれに、彼がこの一族の当主であることが分かり、絢音は自分の名前すら言うだけで声が裏返りそうになった。
「いえ…風魔は江戸の嘉萩と親しいと聞きますが、嘉萩が一色に手を出す理由が分かりません。」
「なるほど。正解は甲賀だ」
「……信じません」
「何故?」
「忍びがそう簡単に雇い主を明かすとは思えませんので。この場で私を殺すおつもりなら分かりませんが。」
シンと、静寂が耳に痛くなるほどに響いた。
背後の女性はいつの間に消えたのか気配は無く、癖のある白髪を後頭部で結わえた木賊と呼ばれた息子も動く気配はない。誰かが発する衣擦れの音も無く、ただ自分の呼吸音だけが大きく聞こえる。
相手からのプレッシャーがこんなにも辛いと感じたのは、自分のイタズラがバレて父親に怒られた10歳の誕生日以降はじめてだった。
「父上、俺が説明しよう」
沈黙を破ったのは、想定外にも木賊であった。座ったままで少し前へ出てくると、父親である風魔小太郎の返事も待たずに絢音と視線をあわせ、口を開く。
「今回の件、元凶は甲賀の一部と癒着している望月家だ。」
「…は?」
「あの家は甲賀忍者へ2つの命令を行っている。一色の娘二人を拉致すること。そして辱めて殺せと言われている。」
「あの望月家が?我が家を?呆れた。叔父上があの家の工場を僻地へ追いやったからって、本家筋の私達に手を出すだなんて、少し頭が足りないように思うわ」
「俺も同意見だ。そこで、本来甲賀を従えている紅家と甲賀本筋から依頼があった。風魔で二人を保護してくれと」
絢音は言葉の端々から、甲賀という一族が恐らく2つに割れているのだろうと考えた。紅の家は元より「色彩家」と呼ばれる色を家名に持つ家であり、一色とは交流がある。
「元の家へ戻すのは簡単だが、いつ甲賀に狙われるとも分からない。一旦は引くだろうが、問題はその後だ。忍びとの繋がりがない一族が撃退するには、甲賀はいささか大きすぎる」
「なるほど。…では、わたくしはここへ残りましょう」
木賊と風魔小太郎が驚いて目を見開いた様子が、絢音には愉快でならない。パッと思いついただけの案ではあるが、口にしてみる価値はあるだろうと、すっと伸ばした背中に誇りを精一杯に背負って言い放った。
「わたくしがここへ嫁入りすれば、一色の家も保護対象となりますね。それであれば、樹音の方は帰っても問題は有りますまい。見たところ、木賊様とわたくしは年の頃も近い様子。もちろん、風魔の長であらせられる小太郎様の元へと仰るのであれば、喜んでご奉仕いたしましょう」
「お前は…自分の身を差し出すのか?」
「くさっても血縁。我が一族を守るためなのであれば、わたくしはこの身を差し出すことに何の躊躇いもございません」
どうぞお側に置いてくださいまし、と丁寧に頭を下げる。相手が世間では恐れられる忍びの一族であるということは然程問題ではなく、それよりも絢音にとって重要なのは樹音を家へ帰してやることなのだ。こういった非現実的で愉快な出来事が好きな絢音とは違う。樹音は平穏を望む人間だ。だからこそ、絢音が残ることで樹音を家へ戻すのが最優先。
彼らが簡単に頷くとは思えないが、試して駄目なら次の手を試せば良い。次はどんな方法でここへ残ると言ってみようか。
「分かった。嫁に来い」
「木賊。お前は少し黙っておれ」
「親父、それは無理だ。身を挺してでも一族を守る。風魔に今必要な『感情』だと俺は思う。何よりこんなべっぴんさんが頭下げて頼んでるのに断るなんて、男がすたるぞ。あ、もう手遅れだったか?」
「青臭いガキが何を言う。」
絢音は二人にやりとりが想定の範囲外のそのまた外側であることに、笑うよりも唖然としてしまった。先ほどからずっと無表情だった木賊がそんな言い草をするとは思わなかったし、絢音の嫁入りという申し出を了承してくれたことも想定外だ。
「元より風魔は他族の血を入れぬ。そういう決まりだ。」
「ではその掟は俺が覆そう。桑染の家は俺がどうにかする。息子の晴れ姿が見たくないのか?」
まるで女の子のような言い分ではあるが、木賊の粘り強い言い訳に負けたのか、最終的に風魔小太郎も首を縦に振った。背後で女性の驚いた声があがり、絢音はまだ女性が居たのかと気づいた。何かと心臓に悪そうな一族ではあるが、これで一色の家を守ることができる。
今まで嫌っていた自分の家のためにどうしてここまでしてしまうのかは分からない。それでも絢音は今自分がしたことが、とても誇らしく感じるのだった。
◇ ◇ ◇
「ほら、次!……もう居ないのかしら?思ったよりも弱いのねぇ、風魔の中忍っていうのは。いいわ、上忍の方はいらっしゃいませんこと?私の実力が知りたいの、ご協力いただけませんかしら」
木賊は縁側に腰掛けて緑茶をすすりながら、どこか明後日の方向に目を向けた。
庭先では、一族の中でも平均的な能力を持っている「中忍」たちを相手に、絢音が手合わせを行っている。もちろん、本来忍びが得意とするような闇討ちや護衛ではなく、純粋な戦闘能力をぶつけあっている。
「おいおいおいおい!おねーさんが頑張ってるじゃねぇか!お前ら全員腰抜けかよ!オレがやってやらぁ!!」
確かあの者は愛染の家のものだっただろうか。絢音より年上の男性がノリノリで仕掛けていくも、軽く足払いされ背後を取られ、最後は「気づいたらこうなってました」というような顔で地面に転がっているのだ。
最初こそ、今さっき挑戦した男性のように、「里の外の人間と戦いたい」だの「一族以外がこの里に嫁ぐなんてありえない」だのと憤った連中が勝負を挑んでいた。しかし今は全員が全員遠巻きに絢音を見るばかりになっている。それもそうだ。中忍衆は決して弱くない。それをあっさり倒してしまう絢音の存在が非常識すぎて、どう関わって良いか分からなくなっているのだろう。
本来、風魔は忍びの三大勢力で唯一古い因習を守り続けている一族で、里の外の人間と比べると極端に感情が希薄だ。故に婚姻統制で愛情なき夫婦も多く、子供も義務感から産まれてくることが多い。木賊の両親のように恋愛結婚というのはごく稀だ。そしてその稀な両親を持つからこそ木賊も思う。出来るなら女性に惚れてみたいと。身を焦がすような思いを抱き、そんな相手を幸せにするために契りを交わしたいと。
絢音は強い。木賊が守る必要があるか分からい程度には実力を持っている。どうやってあの身体能力を身につけたのかはまだ知らないが、向かってくる相手を的確に倒す強さも、その横顔に感じる凛々しさもとても好ましく思える。出来るなら、手の届く場所に置いておきたい。
「木賊!」
庭先で絢音が声をあげた。
「貴方が手合わせしてくださらない?もう誰も相手をしてくれないのよ、少しだけ、駄目?」
これから先、側に置きたい以上の感情を彼女へ抱くのかどうかは全く予想が出来ない。それでも木賊は、今絢音が自分を頼ってくれることが嬉しい。彼女の願いを叶えたいと思えることが嬉しい。
幼い頃に殺された感情がこれからどうなっていくのか。絢音の隣で確かめたいと、そう願うばかりだ。
2015/03/02 今昔
平安とよばれたまこと雅なる時代に入る前、日本という国はいくつかの家々が支配していた。江戸を治める嘉萩家とそれを守護する風魔一族。遠江(とおとうみ)に住まう一色家と七色家、さらに京を守護する紅家と親しい甲賀一族、東北の地を治める蒼天一族。その他にも大小様々な地方領主によって均衡を保っていた日本で、その薄い壁を破ろうとする者は少なくなかった。
いつしか、一色と七色はほとんど同じ血族となり、蒼天一族が勢いを弱め、嘉萩家が関東を集中に収めるようになり、紅家が江戸に分家を置くようになる。これが大江戸歴のはじめのお話である。
【 仮想大江戸 お伽話 親世代編「艶やかなる一族」 】
そんな竹取物語から時代は流れ、大江戸歴は1900年台も後半に入っていた。
一色、といえば、日本の中程に位置する遠江を治める一門の当主として有名な家柄である。大江戸歴が始まる前から続くとも言われるそれは、この大江戸歴1960年台でも変わらない栄誉を誇っている。一色絢音は、そのことに誇りを持っていると言っても良い。
一族特有の青い髪の毛と瞳は、どこにっても注目の的であり、ちょっとの問題であれば周囲が勝手に解決してくれる。それは一族が代々、統治や地方産業である農業に工業、繊維機械系を一手に守っていることからくるものであり、絢音がこれからも守らねばと思うものである。
と、周囲は絢音のことはそう信じてやまないだろう。
「馬鹿じゃないかしらねぇ、本当に」
大きなあくびとともにそう言うと、絢音は邪魔な前髪を耳にかけた。この河川敷は気持ち良い風が吹くのが好きで、学校帰りによくこうして暇をつぶすのだ。ここの辺りは近所では少し治安が悪いといわれていて、一族の人間は近寄らない。逆に絢音が居ても「いつも人に囲まれていて大変なのね」と変に気を使って誰も寄ってこない。
代々地方産業を行っている企業に出資していることは事実だし、一族の人間がそういった会社に多く務めているのも確かだ。しかしそれを誇りに思うのではなく、驕り己の私腹を肥やすことを考える人間が多い。政略結婚で愛のない夫婦も多く、かくいう絢音も双子である樹音も婚約者が居る。
そんな一族を好きになれ?誇りに思え?周りはいつも無茶なことを言うもので、絢音は17歳という年齢で既に諦めを覚えている。双子の樹音は伸ばし続けている一族の象徴とも言える青髪も、絢音はなんだか気に食わなくて切ってしまった。あの時の両親の顔を思い出すだけでも腹が捩れるほどに笑いがこみ上げてくる。
「馬鹿は絢音でしょう?そうやって皆をおちょくって遊んでばかり。」
ひざ上まで丈を短くした着物の裾を抑えながら、見た目は絢音にそっくりな少女が隣に座り込んだ。言うまでもなく仲の良い双子の樹音であり、地面にすりそうな丈の着物にスリットを入れている絢音とは正反対な性格は大変に好ましい。
「だって。先週末婚約者の方にお会いしたでしょう?何よあれ、気持ちの悪い声をして…ありえないわ」
「でも、収入が安定してるイケメンでしょう?良いじゃない。将来安泰」
「無理!あんな気味の悪い声の人と暮らしていくだなんて無理!ぜったいに嫌!」
「じゃぁ、誰なら良いの?」
「一族に居るわけがないでしょう?私のお眼鏡に叶う良い声の男性だなんて」
「あらあら、ふふっ。知ってるのよ?寺子屋の望月様、良い声だって言ってたでしょう?」
「同い年くらいの連中なら、って話よ。もっと低くて優しい声の人が良い。ついでに財力があって顔が悪くなければ良い」
はーあと盛大なため息をついて寝転がると、隣で樹音がまたもや声をあげて笑った。くすくすという笑い方は、樹音の穏やかな性格によく合っていると思う。双子だというのに、どちらかというと大人っぽいと言われることが多い絢音と、歳相応で清楚で純粋と言われる樹音とではタイプが違いすぎる。もちろん言い寄ってくる男性も違う。
そういえば最近は10も年上の男性に求婚されたっけなぁと思い出していると、歪な形の雲が流れていった。あの形、なんとなく気に食わない。
「でも望月様は良い候補なのね、覚えておくわ。ところで、絢音ってばよくここに来るみたいだけれど、この辺りは治安が悪いから気をつけた方が良いわよ。早く帰りましょう」
隣で樹音が立ち上がり、着物のおしりについた草をぽんぽんと払った。絢音も両親がうるさく言う前に帰ろうかと立ち上がり、そこで違和感を覚えた。
「一般人としてはなかなかだ」
そう言われたと気づいた時には、顔に何か麻袋のようなものを被せられたのか視界は塞がれ、両手両足を縛り上げられる感覚があった。何をするの!と叫んだが、地面から足が離れてお腹に衝撃が走った。
周囲で男性が「手厚く扱え」と言っているのが聞こえる。なかなかに良い声じゃないかと思った次の瞬間には自分の足の方向に進んでいくのを感じた。どうやら俵担ぎでどこかに運ばれているらしい。
絢音はしまったと思うと同時に、必死に足音を数えた。4人分だろうか。ということは、一緒に居た樹音も一緒にさらわれている可能性がたかい。地元でも名高い家の娘だ。身代金目的の誘拐があってもおかしくない。
試しに顔を蹴ってやろうかと足を動かしてみたが、膝裏に手を添えられて終わりだった。
「ちょっと、あの…降ろしていただくか、もう少しっ…丁寧に運んでくださいませんか?」
絢音の前方、進行方向の反対から樹音の声がした。すぐに「ありがとうございます。」と続いたので、何か抱えられ方に変わりがあったのだろう。絢音は樹音の声に少しだけ冷静さが戻るのを自覚しながら、どうにか息を吸い込んだ。それから出来る限り落ち着いて聞こえるよう、自分を運ぶ人間と並走している人間が居るあたりに向かって言った。
「貴方がた、私たちをどうするおつもりなのかしら?」
しばし考えるような間があったが、すぐに男性の声が返ってきた。
「一色樹音の方は平穏に埋もれていたかったようだが、お前はこういう異常事態を待ち望んで居たのだろう?ならばこの事態を喜んで受け入れるが良い。何、悪いようにはしないさ」
はじめに、二人のことを丁重に扱えと言った声と同じだ。
絢音は仕方なしに返事もせずに黙りこみ、彼らの目的地へつくのを待つことにした。
運ばれているうちに酔わなかったのは奇跡だと知ったのは、板の間六畳ほどの部屋へ投げ出された時に樹音が青い顔をしているのを見てからだった。目隠しはされなかったものの手足の拘束はそのままで、二人はひんやりとした床の上で身を寄せ合った。
降ろされた時に見えたのは、緑色の縁取りがされた忍び装束で、世間のことにあまり興味が無かった二人でも分かったことがあった。自分たちは風魔の忍びにさらわれたのだ。
「風魔一族、だよね」
「そうね、でもあの家って確か江戸の嘉萩家と密着しているんじゃなかったかしら?どうして私達を?嘉萩家の邪魔になるような存在なのかしら。江戸からこっちに向けて領地を広げたい、とか」
絢音の言う予想が正しいかどうかは分からないし、かと言って何か喋っていないと落ち着いて居ることは難しかった。
二人が他愛もないことを話しているうちに、忍び装束の女性がなになら竹で出来た衣装箱のようなものを持って入ってきた。彼女は間違うことなく絢音の方を見ると、懐から短刀を取り出して手足の拘束を切った。縛られていたところは少し赤くなっているものの、そう跡は残らなさそうだ。
「こちらに着替えて下さい。若様がお呼びです」
「……分かりました」
逆らっても良いことはないだろうと、差し出された衣装箱を開くと、中には深緑色の美しい着物が収められていた。深い青髪と合いそうな金色の簪も入っている。
「絢音、行くの?」
「行かなくちゃ何も始まらないじゃない」
「オカシイわ。だって……だって、相手は…」
オカシイのは樹音の方だ。
絢音はその言葉をすんでで飲み込むと、さっと着替えを済ませることにした。先ほどあの男性に言われたばかりだ。樹音は普通が一番だというが、絢音は一色家の普通を壊してやりたい。だったら、絢音が出て行って要求を聞き、樹音だけでも元の場所へ帰してやるのが正解だろう。
双子だからといって、何から何まで同じでなくてはならない道理はない。
着替え終えると、やはり全体的に落ち着いた色合いで大人っぽく、かつ質もなかなかに良いものであることが伺える。絢音は気が引き締まる思いで女性の後ろについて部屋を後にした。背後から樹音が呼ぶ声が聞こえたが、聞こえないフリを決め込んだ。
女性の後ろを歩いて行くと、この建物はちょっとした城と呼んでも良いほどに広い屋敷であるらしい。階段を登って長い廊下を歩き、右へ左へ歩くうちに、絢音は先ほど居た場所へ戻れる自信は早々に失った。
女性は1つの部屋の前で膝をつくと、中へ向かって声をかけた。s
「若様、一色絢音をお連れいたしました。」
無言で内側から襖が開けられ、部屋の中に二人の男性が居るのが見えた。一人は初老と言える、絢音の両親と同じくらいの年齢で、もう一人は絢音より少し年上であろう青年だった。
「一色絢音、手荒なマネをしてすまないな。息子にはキツく言い聞かせた、女性は丁重に扱えと」
初老の男性の言葉で、彼らが親子であるとわかると、絢音には二人がそっくりに見えてきた。もちろん、同じ忍び装束で同じような髪型をしているからかもしれない。
黒に緑色の縁取りがされた装束と、真っ白な白髪、それから緑色の瞳。どれも美しいと思わされる。それを言えばきっと樹音に「オカシイ」と言われるのだろうが、絢音にはそれらが美しく見えた。
「いえ、構いません。それよりも、わたくしをここへお呼びになった理由を伺えませんか。」
絢音の言葉に、初老の男性は楽しそうに笑うと対面にある座布団を進めてきた。絢音は逆らうこともなく、いつも家で言われる通りにそっと座った。
「私の名は風魔小太郎。これは息子の木賊(とくさ)だ。」
「一色絢音と申します。」
「我々が誰の依頼で動いているか、検討が付いているのではないかね?どうだい、お嬢さん」
風魔小太郎と名乗ったそれに、彼がこの一族の当主であることが分かり、絢音は自分の名前すら言うだけで声が裏返りそうになった。
「いえ…風魔は江戸の嘉萩と親しいと聞きますが、嘉萩が一色に手を出す理由が分かりません。」
「なるほど。正解は甲賀だ」
「……信じません」
「何故?」
「忍びがそう簡単に雇い主を明かすとは思えませんので。この場で私を殺すおつもりなら分かりませんが。」
シンと、静寂が耳に痛くなるほどに響いた。
背後の女性はいつの間に消えたのか気配は無く、癖のある白髪を後頭部で結わえた木賊と呼ばれた息子も動く気配はない。誰かが発する衣擦れの音も無く、ただ自分の呼吸音だけが大きく聞こえる。
相手からのプレッシャーがこんなにも辛いと感じたのは、自分のイタズラがバレて父親に怒られた10歳の誕生日以降はじめてだった。
「父上、俺が説明しよう」
沈黙を破ったのは、想定外にも木賊であった。座ったままで少し前へ出てくると、父親である風魔小太郎の返事も待たずに絢音と視線をあわせ、口を開く。
「今回の件、元凶は甲賀の一部と癒着している望月家だ。」
「…は?」
「あの家は甲賀忍者へ2つの命令を行っている。一色の娘二人を拉致すること。そして辱めて殺せと言われている。」
「あの望月家が?我が家を?呆れた。叔父上があの家の工場を僻地へ追いやったからって、本家筋の私達に手を出すだなんて、少し頭が足りないように思うわ」
「俺も同意見だ。そこで、本来甲賀を従えている紅家と甲賀本筋から依頼があった。風魔で二人を保護してくれと」
絢音は言葉の端々から、甲賀という一族が恐らく2つに割れているのだろうと考えた。紅の家は元より「色彩家」と呼ばれる色を家名に持つ家であり、一色とは交流がある。
「元の家へ戻すのは簡単だが、いつ甲賀に狙われるとも分からない。一旦は引くだろうが、問題はその後だ。忍びとの繋がりがない一族が撃退するには、甲賀はいささか大きすぎる」
「なるほど。…では、わたくしはここへ残りましょう」
木賊と風魔小太郎が驚いて目を見開いた様子が、絢音には愉快でならない。パッと思いついただけの案ではあるが、口にしてみる価値はあるだろうと、すっと伸ばした背中に誇りを精一杯に背負って言い放った。
「わたくしがここへ嫁入りすれば、一色の家も保護対象となりますね。それであれば、樹音の方は帰っても問題は有りますまい。見たところ、木賊様とわたくしは年の頃も近い様子。もちろん、風魔の長であらせられる小太郎様の元へと仰るのであれば、喜んでご奉仕いたしましょう」
「お前は…自分の身を差し出すのか?」
「くさっても血縁。我が一族を守るためなのであれば、わたくしはこの身を差し出すことに何の躊躇いもございません」
どうぞお側に置いてくださいまし、と丁寧に頭を下げる。相手が世間では恐れられる忍びの一族であるということは然程問題ではなく、それよりも絢音にとって重要なのは樹音を家へ帰してやることなのだ。こういった非現実的で愉快な出来事が好きな絢音とは違う。樹音は平穏を望む人間だ。だからこそ、絢音が残ることで樹音を家へ戻すのが最優先。
彼らが簡単に頷くとは思えないが、試して駄目なら次の手を試せば良い。次はどんな方法でここへ残ると言ってみようか。
「分かった。嫁に来い」
「木賊。お前は少し黙っておれ」
「親父、それは無理だ。身を挺してでも一族を守る。風魔に今必要な『感情』だと俺は思う。何よりこんなべっぴんさんが頭下げて頼んでるのに断るなんて、男がすたるぞ。あ、もう手遅れだったか?」
「青臭いガキが何を言う。」
絢音は二人にやりとりが想定の範囲外のそのまた外側であることに、笑うよりも唖然としてしまった。先ほどからずっと無表情だった木賊がそんな言い草をするとは思わなかったし、絢音の嫁入りという申し出を了承してくれたことも想定外だ。
「元より風魔は他族の血を入れぬ。そういう決まりだ。」
「ではその掟は俺が覆そう。桑染の家は俺がどうにかする。息子の晴れ姿が見たくないのか?」
まるで女の子のような言い分ではあるが、木賊の粘り強い言い訳に負けたのか、最終的に風魔小太郎も首を縦に振った。背後で女性の驚いた声があがり、絢音はまだ女性が居たのかと気づいた。何かと心臓に悪そうな一族ではあるが、これで一色の家を守ることができる。
今まで嫌っていた自分の家のためにどうしてここまでしてしまうのかは分からない。それでも絢音は今自分がしたことが、とても誇らしく感じるのだった。
◇ ◇ ◇
「ほら、次!……もう居ないのかしら?思ったよりも弱いのねぇ、風魔の中忍っていうのは。いいわ、上忍の方はいらっしゃいませんこと?私の実力が知りたいの、ご協力いただけませんかしら」
木賊は縁側に腰掛けて緑茶をすすりながら、どこか明後日の方向に目を向けた。
庭先では、一族の中でも平均的な能力を持っている「中忍」たちを相手に、絢音が手合わせを行っている。もちろん、本来忍びが得意とするような闇討ちや護衛ではなく、純粋な戦闘能力をぶつけあっている。
「おいおいおいおい!おねーさんが頑張ってるじゃねぇか!お前ら全員腰抜けかよ!オレがやってやらぁ!!」
確かあの者は愛染の家のものだっただろうか。絢音より年上の男性がノリノリで仕掛けていくも、軽く足払いされ背後を取られ、最後は「気づいたらこうなってました」というような顔で地面に転がっているのだ。
最初こそ、今さっき挑戦した男性のように、「里の外の人間と戦いたい」だの「一族以外がこの里に嫁ぐなんてありえない」だのと憤った連中が勝負を挑んでいた。しかし今は全員が全員遠巻きに絢音を見るばかりになっている。それもそうだ。中忍衆は決して弱くない。それをあっさり倒してしまう絢音の存在が非常識すぎて、どう関わって良いか分からなくなっているのだろう。
本来、風魔は忍びの三大勢力で唯一古い因習を守り続けている一族で、里の外の人間と比べると極端に感情が希薄だ。故に婚姻統制で愛情なき夫婦も多く、子供も義務感から産まれてくることが多い。木賊の両親のように恋愛結婚というのはごく稀だ。そしてその稀な両親を持つからこそ木賊も思う。出来るなら女性に惚れてみたいと。身を焦がすような思いを抱き、そんな相手を幸せにするために契りを交わしたいと。
絢音は強い。木賊が守る必要があるか分からい程度には実力を持っている。どうやってあの身体能力を身につけたのかはまだ知らないが、向かってくる相手を的確に倒す強さも、その横顔に感じる凛々しさもとても好ましく思える。出来るなら、手の届く場所に置いておきたい。
「木賊!」
庭先で絢音が声をあげた。
「貴方が手合わせしてくださらない?もう誰も相手をしてくれないのよ、少しだけ、駄目?」
これから先、側に置きたい以上の感情を彼女へ抱くのかどうかは全く予想が出来ない。それでも木賊は、今絢音が自分を頼ってくれることが嬉しい。彼女の願いを叶えたいと思えることが嬉しい。
幼い頃に殺された感情がこれからどうなっていくのか。絢音の隣で確かめたいと、そう願うばかりだ。
2015/03/02 今昔
2015年2月9日月曜日
【仮想百鬼夜行】犬神奇譚 第05話
剣は少女の後ろを着いて歩きながら、彼女が向かう先について考えていた。ついてくれば良いと言われて歩いているものの、どこに行くのか何をしに行くのかは教えてくれないのだ。
仕方なしに道の左右をキョロキョロと見ていれば、どうやらここは、撮影所でもなんでもなく、普通の街であるらしい。ただ、和服の人と洋服の人が半々くらいで、目の前をあるく少女は洋服だ。ただし、剣が住んでいた時代のような格好ではなく、やはりどこか古めかしい。
少女はとある家の前で止まると、入ってと言って門をくぐっていった。表札には「狗谷」という文字が掘られている。
「おいおいおい…狗谷なのかよ……」
剣は置いて行かれないように一緒に玄関の中へ入ると、雷神の掛け軸がかかった玄関に圧倒されながらも部屋の中へと入っていった。ところどころに置かれているツボや瓶は、時折カタカタと揺れている。中には御札が貼られているものもあり、「いかにも」といった雰囲気に剣は心臓の音が大きくなったように感じた。
少女は屋敷の奥のほうへと行くと、障子戸をあけて一室に入った。続いて剣も入っていくと、中には6畳ほどの広さと更に億にウォークインになっている本棚がある。本棚には英語やら日本語やら剣には内容が想像も出来ない背表紙が並んでいた。
「おい、狗谷。」
「何?」
「お前、おれが見えるのはお前だけって言ったよな?あれ、何でだ?」
狗谷は本棚の前で振り返ると、小さく「おいで」とつぶやいた。それに答えるように彼女の周囲にふんわりと風が巻き起こり、そして空気の中から溶け出してくるように7匹の狼が現れた。
もはや驚くことも出来ずに彼らを見ていると、どうやら瞳の色だけがそれぞれ異なるようだということに気づいた。
「お嬢、コイツなにもんだ?人間でもねぇ、妖かしでもねぇ、まして神でもねぇ」
「黒、お前頭悪いな。コイツはきっとお嬢がオレたちの餌に持ってきてくれたんだ」
「黒も白も、お行儀が悪い。お嬢のお客様だったらどうするの?」
狼たちは口々に剣の存在を確認しあい、そして最後に赤い目をした狼が口を開いた。
「少し黙れお前たち。此奴はこの時間の人間じゃないのは見たら分かるだろ?」
重たい空気をまとった声に、剣にもその赤目の狼がリーダーなのだろうということが察せられた。他の狼たちよりも少しだけ大きい彼は、狗谷の隣にそっと寄り添って守るように座っている。
「人間だが、この世界の匂いがしない。人為的に生み出された人間か…はたまた時間遡行者か」
「やはり、木賊(とくさ)は分かるのね」
狗谷は赤い瞳の狼の頭を撫でると、しゃがみこんでその頬に唇を押し付けた。嬉しいのか尻尾を盛大に振り回す狼に、剣は彼らが犬なのか狼なのかよく分からなくなる。
「恐らくですが、あなた、犬神の能力で時間遡行…つまり、別の時代にやってきているのではなくて?」
「時間遡行?タイムスリップってことか?」
剣がそう問い返すと、狗谷は困ったように首を傾げた。タイムスリップという単語がよく分からなかったらしい。そこで剣は、そもそも本当にタイムスリップして過去に居るというのなら、確かに片仮名の言葉は通じにくいだろうということに思い当たった。
「私は狗谷絢音。狗谷家の人間で、今唯一彼ら…つまり、狼たちと触れ合うことの出来る者。あなたにかかっている犬神の呪いを浄化します。少し、じっとしていていただけますか?」
【 仮想百鬼夜行 犬神奇譚 05 】
彼女は走っていた。どこへ行くでもなく、ただただ走っているのだ。正確には、逃げているというべきだろう。どうしてか彼女のご主人様は暴力をふるうようになった。読んではならないと言われている、禁書を読むようになった。
そしてついには、彼女にも手をあげたのだ。怖くなった。もう死んでしまうのではないかと思った。その時、彼女を逃してくれた人が居た。出来るなら、その人にもう一度会いたい。
きっと叶わぬ願いを抱きながら、彼女はただひたすらに走った。
◇ ◇ ◇
ミヤが除霊を終えると、その両腕には可愛らしい犬が2匹抱かれていた。黒い豆柴のような犬種のその犬たちは、よもや犬神であるなどと信じたくないほどの愛らしさだ。もとより麗奈も同じイヌ科の狐である。犬神はある意味仲間であると言っても過言ではない。ただし常磐はノーカウントだ。
「狗谷ミヤ、あなた…その犬は?」
「剣さんに取り憑いていた犬神たちです。可愛いので私の式にならないかと誘ったら、あっさりオッケーしてくれました」
黒豆柴たちは尻尾をブンブンと振り回して、嬉しそうにミヤに擦り寄っている。その様子に、なんだか胸がぽかぽかとなるような気持ちになる。
「なにか、他の邪神に影響されていたようで、根はとても優しい子たちですよ」
「ふしゃー!」
「わん」
「っ!! どこが優しいんだい!」
海里と猫たちが一斉に威嚇すると、小さく黒豆柴が吠える。その吠え声1つですっかり猫又たちは萎縮したらしく、能力を使ったために現れていた麗奈の尻尾に隠れてしまった。くすぐったいので止めて欲しいのだが、肝心の海里までもが麗奈の背中に隠れてしまったので、麗奈はため息とともにミヤへ問いかけた。
「その犬神たちを、どうするのですか?祓い屋衆に所属する私としては、人間に害をなした以上、放置するわけにはいかないのですが…」
途端、黒豆柴の一匹がクーンと哀れな鳴き声をあげ、もう一匹は警戒するように唸り始めた。
「駄目です。朽葉(くちば)と檜皮(ひわだ)は渡せません。飼い主の責任だというのなら、何かしら私が罰則を受けましょう」
「おい待てミヤ、お前そいつらを連れて帰るのか…?」
「何か常磐に不都合が有りますか?大丈夫です、私がちゃんと世話をしますから」
「駄目だ!俺というものがありながら他の連中を家にあげるなど言語道断!」
「常磐は憑き物です、彼らは式です。何の問題もありません」
「ある!お前絶対そいつら自分の布団に入れて寝るだろ!そうしたら俺はどこで寝れば良いんだ!」
麗奈は、即座に名前が付いていることに突っ込むべきか、はたまた常磐の寝ている場所に突っ込むべきか、こめかみの辺りがズキズキと痛くなった。海里も呆れたのか猫たちを解散させ、自分も猫の姿へと戻っている。
猫に戻った海里を肩に乗せて、麗奈はまだ目を覚まさない剣を抱き上げた。体力を消耗しているせいで目を覚まさないのだろう。これは学校に行かせるのは諦めたほうが良い。ひとまず携帯で中学校に連絡を入れると、千草にも簡単に報告を入れた。心配して剣の顔を覗きこんでいる海里の頭を撫でてやると、麗奈は立ち上がった。
「では、私はこれで失礼します。あなたがた…えぇと、檜皮と朽葉…でしたか?彼らの処遇は追ってお伝えしますので。」
キャンキャンと吠える犬神たちと、大妖怪であるはずの常磐の口喧嘩を聞きながら、麗奈は梔子の家へと向かった。
◇ ◇ ◇
剣は絢音と名乗った少女に背中を捲って見せていた。ひんやりとした感触とともに、背中に何かが描かれていく。そういえば、あの戒愁珊瑚が白猫に同じことをしていたなと口にすれば、背中や体に文字を書くのは常套手段なのだと教えられた。
それから部屋の中にまた記号のようなものが書かれた紙切れを配置し、その中央に剣は立たされる。
「そういえば、絢音って何歳なんだ?見た目はおれと同じくらいだけど…」
「え?私は…そうねぇ、生い立ちが少し特殊だから。もう23歳になるわよ?」
背後に居る7匹の狼たちは口々に「女性に年齢を尋ねるなんて!」と言っているが、剣はそれにリアクションを返すことが出来なかった。
「は!?22!?」
「そうよ。私は生まれつき狼の物の怪が憑いてる。だから、人間と同じようには年を取らないの。」
絢音は小さくため息をつくと、憂いを帯びた仕草で髪の毛を耳にかけ直した。年頃の男子には少々刺激が強すぎる色気だと思ったが、剣は真剣に自分をセーブした。
「狗谷の家では、代々生まれつき憑き物を持って生まれてくる女がいる。その子は「絢音」と名付けられる風習でね。私もなるべくして狗谷絢音になったの。そして代々の絢音たちは、自分に付き従う式との間に子供を残してきた。」
「小さい頃から、物の怪が憑いてると…人間とは違うのか?」
「ええ。半分妖怪みたいなものだから。私と木賊の子供は、半人半妖の狼人間だわ」
「子供まで居るのか!」
「朽葉と檜皮(ひわだ)と言ってね、緑色の目をした可愛い息子たちよ」
剣はとても母親には見えない彼女をまじまじと見やった。そして唖然としているうちに、絢音は2回お辞儀をし、2回手を打ち鳴らし、そしてもう一度お辞儀をしてから「はじめるわよ」とつぶやいた。
『略法、急ぎ律令の如くせよ』
「あ、そうだ、助けてくれてありがとな!」
そう剣が叫んだ瞬間、手元に何やら勢い良く白いものが飛び込んできた。剣はそれを反射的に受け止めると、重力が無くなっていくような感覚を感じて目を閉じた。
「剣さん、大丈夫ですか?」
剣が目をあけると、そこには以前助けてくれた妖怪、麗奈が居た。どうやら絢音にかけられた術式はうまくいったらしい。そして落ち着いてよくよく見てみれば、今朝出たはずの自宅で、剣はリビングのソファに寝かされているらしかった。
「体調は大丈夫ですか?どこか、おかしなところは?」
「大丈夫です。海里は居ますか?」
「そこでお昼寝中ですよ。あれでも猫ですから、一日の大半は寝ていないと辛いようです」
見れば、テーブルのうえに出来た日向で丸くなっている海里が居た。剣はそれを見て安心すると、手のひらを閉じたり開いたりしてみる。
「実はおれ、なんか…江戸時代みたいなところに居ました。」
「江戸?」
「はい。戒愁珊瑚っていう男が、猫になんか術をかけようとしていて、それを狗谷絢音って女と一緒に止めたりしたんですけど…これってタイムスリップですか?」
「犬神にそんな能力があるとは思えませんが…憑き物によって弱っているあなたに何か手出しをした輩が居るのかもしれませんね。」
麗奈は眉を寄せて小さくうなると複雑な顔をした。
それから剣は麗奈が入れてくれたココアを飲み、買い込んできてくれた食事を摂って一日を安静に過ごすことになった。海里は久々に妖かしとしての能力を発揮したためなのか、疲れてずっと眠ってしまっている。麗奈に言わせればそれだけ剣を心配したらしい。
剣は犬神に憑かれたというよりも、ちょっとしたタイムスリップを体験した程度にしか思えず、少し腑に落ちない気もした。
「そんな顔をするものじゃありませんよ、剣さん」
「でも…本当に犬神が取り憑いていたんですか?おれ、確かに変なことになってましたけど、取り憑かれたって感じはしませんでした」
「実際がどうであれ、大した問題ではありません。海里にとって、身内である者が取り憑かれるというのは…少し、酷な話なのですよ」
「酷?」
「ええ。楽しい話ではありませんから、今日はぐっすり寝てください」
剣はソファに寝転がると、麗奈に頭を撫でられてあっさりと眠りについてしまった。自分で思っていたよりも、よほど疲れていたらしい。そういえば、タイムスリップした中でも走ったり気を使うことが多かった。
そんなことを考えて眠ったせいか、剣は不思議な夢を見た。
白い猫、ちょうどタイムスリップした先で「戒愁珊瑚」に何かされそうになっていた猫にそっくりな白猫が、街中を走っていた。そこはやはり江戸時代のような大河ドラマに出てきそうな町並みで、剣は白猫がどんな地名の場所を走っているのかは分からなかった。
<助けて…!>
白猫はとても怯えていた。まるで白猫の背中に乗っているような視線で見る夢は、白猫の気持ちもダイレクトに伝わってくる。
彼女は飼い主である戒愁珊瑚のことを恐れていた。あの狗谷絢音が邪魔をした儀式の時からずっと逃げているのだ。そしてあの時助けてくれた人間を頼りたくて、街中を探して走り回っている。
白猫の名前は莉李というらしい。戒愁珊瑚が呼んでいた通りの名前だ。白猫の莉李は、ひげをぴくりと動かして、何やら感じられた方向へと向きを変えた。そして視界に飛び込んできたのは、狗谷の表札がかかった邸宅である。そこへ莉李は躊躇いなく飛び込んでいき、開いていた窓から部屋の中へと飛び込んだ。
一瞬、何か人影に抱きとめられたのだが、すぐに4本の足は畳についてしまう。
「あらあら、可愛い猫ちゃんね。…戒愁家から逃げてきたのかしら」
<助けて!殺されちゃう!今、ここに誰か居ませんでしたか!>
「……ごめんなさいね、私じゃぁあなたの言いたいことが分からないのよ。木賊、あなたは?」
「生憎と猫の言いたいことは分からん。」
部屋の中にはまだ足元に筆とインクの入ったツボを置いたままにしている絢音が居て、狼たちは莉李を怯えさせないように小さく伏せの姿勢をとっている。
<どうしよう…困りました。早く、あの人のところへ逃げたいのに…>
莉李はしばし留まるかどうか悩んだ末に、トボトボと庭先へと降り立った。途端、狗谷家の塀を超えた道路から、「莉李ー、どこに居るんだーい?」という珊瑚の声が聞こえてきた。
足が震えてしまってうまく走れない。このままでは戒愁珊瑚がここへやってきてしまうかもしれない。高まっていく警戒心を止められずに居ると、ふいに莉李の体が持ち上がった。
「仕方ない、逃してやる」
「小豆、寄り道は駄目だよって黒と白が言ってる。ついでに木賊も」
「おう。行ってくる」
莉李はどうやら、狼のうちの一匹に咥えられているようだった。そして視界は一気に後ろへ流れだし、小豆と呼ばれた狼は勢い良く家々の屋根をつたって走っているようだった。遠くの方に雷門が見えた。どうやら浅草のあたりに居たらしい。
そしてその門も見えなくなると、狼はそっと道端に莉李を降ろし、「元気でやれよ」とだけ言うとサッと元来た方へと走り去ってしまう。莉李は途方に暮れながら、止まっていてもしょうがないと歩き出した。
すると、驚いたことにほんの数十歩も歩かぬうちに、莉李は何者かに抱き上げられた。
「兄ちゃん!にゃんこ居るで!にゃんこ!」
視界に映ったのは、淡い梔子色の着物を着た幼い少年と、
「なんだよ、今日はいやに捨て猫が多いなぁ…」
先ほど助けてくれた人間にそっくりな青年だった。
莉李が戒愁珊瑚の呪文に捕らわれた時、塀の隙間から覗いていた顔とそっくりな顔がそこにある。青年は黒っぽい毛並みの子猫を抱えていて、どうやらその猫のこともどこかで保護したらしかった。
莉李は抱き上げてくれた少年の肩に乗って、青年に顔をしっかり見せるべく背伸びをした。
「兄ちゃん、リボンに名前書いてあるで。この子莉李ちゃんや」
<さっきはありがとうございます!>
「お、お前莉李って言うのか、見た目も名前も可愛いな。海里とも仲良くしてやってくれ…っておい、こいつ尻尾が2本あるぞ…」
莉李は深緑色の着物を着た青年に抱き上げられ、そのぬくもりに安心しながら目を閉じた。今日はずっと走り回ってしまって疲れたようだ。同じように、夢を通して莉李の視界を共有していた剣の視界もブラックアウトした。
そして次の瞬間には、また莉李の視界が飛び込んでくる。夢と同じように、何の脈絡もなく場面が変わっていく。
次は、白いふわふわの布団に寝かされた莉李が視界に映った。傍らには、黒っぽい色をした猫が不安げな表情で莉李を見下ろしている。
<莉李、大丈夫かい?>
<うん。暖かいから幸せ>
「莉李、火鉢持ってきたぞ」
莉李を拾った青年が火鉢を持ってやってくると、莉李の2本の尻尾がゆらゆらと揺れた。
夢を通して見ている剣にも分かったのは、今が冬だということ。それから莉李がとても弱っていて、この冬を越せるかどうかが分からないことだ。
「梔子の医者には動物のことが分かる奴は居ないからなぁ…もうちょっとなんとかしてやれるといいんだけど…」
<そうよ!アンタ、もうちょっと頑張りなさいな!>
「なんだ、海里も心配なのか?そうだよな、幼馴染みたいなもんだもんな」
<健(けん)、あんたの知り合いに猫のことが分かる連中は居ないのかい?>
「悪いな…おれじゃ、どうにもならないんだよ。動物の医者様が知り合いに居れば良かったんだが…今のご時世じゃ飼い猫の面倒を見てくれる医者様なんて居ないからな……」
健と呼ばれた青年は、海里と莉李の頭をそっと撫でると「火鉢に入るなよ」と言い残して部屋を出て行ってしまった。
海里は莉李を温めるように寄り添うと、莉李と同じように目を閉じた。
翌朝になっても、莉李が目を開けることはなかった。
今までよりもボンヤリとした視界の中で、海里が泣きじゃくっているのが見えた。お墓を作ってやろうという山吹とその弟を引っ掻いて追い払い、そしてまた莉李の体に頭をこすりつける。
見ている剣までもが鼻の奥がツンと痛くなってきた。
<嫌だ!地面に埋めたら冷たいだろう!こんな冬に外に出すなんて可哀想!>
「海里、頼むから言うこと聞いてくれ。莉李のことも放っておいたら可哀想だろう?」
<外に出す方が可哀想!>
ふしゃーっと怒る海里がたてた尻尾は、綺麗に2本に分かれていた。
寒い冬の日、鳴いて暴れる海里とそれから健と弟の3人は、莉李の葬儀を慎ましく執り行った。お供えには家にあったミカンと、それから味噌汁のだし取りに使った煮干しが置かれた。
剣は健の弟と一緒になって泣いた。
◇ ◇ ◇
狗谷ミヤはたいていのことには動じない。なぜなら、小学校にあがった頃から身の回りで様々な摩訶不思議なことが起きているからだ。しかしながら、こればかりは驚かざるを得なかった。
「おいこら!ミヤの布団に入るんじゃない!」
「良いだろう!お嬢が良いと言ったんだ!」
「そうだそうだ!常磐ばっかり若造のくせにずるいぞ!」
「若造言うな!というか、お前らも対して変わらんだろうが!」
ミヤの布団にくるまろうとしている男性が二人と、それを必死に止めている常磐。ミヤはぽかーんと口を半開きにして、自室のふすまから手を離せずに居た。
見知らぬ男性はどちらも常磐に良く似た狼の神のようで、違うところといえば毛並みの色合いが少し黒っぽいくらいだろうか。どちらも瞳は少し色合いは違うものの緑色で、毛並みは常磐とまったく同じで薄い灰色だ。
片方がミヤに気づくと、パァっと顔を明るくしてこちらに駆け寄ってきた。
「お嬢!常磐が煩いんだ、コイツ俺たちより若いくせして楯突くなんて、酷いだろう?あんまりだろう?」
「貴様…、ミヤの布団に潜るだけでは飽きたらず抱きつくとはどういう了見だ!!」
「まぁまぁ常磐落ち着いて、檜皮(ひわだ)も悪気があるわけじゃないって」
抱きついてきていない方の男性が言ったセリフに、ミヤは目を見開いた。どうやら見知らぬと思った彼らはミヤが拾ってきた犬神たちであったらしい。抱きついてきている方は檜皮、少しだけ落ち着いているほうが朽葉ということだろう。
「二人とも、擬人化できるんですか…」
朽葉と名づけた方は、髪の毛は落ち着いたストレートで、若干垂れた耳が頭の上でピョコンと揺れた。檜皮の方は強いくせっ毛でぴょんぴょん跳ねた髪の毛から、鋭い目とまっすぐに伸びた耳が覗いている。
「当たり前だろう!こう見えても常磐よりちょっとばかし古い魂の持ち主だからな!」
「僕と檜皮は、常磐より数年前に生まれた同族なんだ。だけど、直後に陰陽師たちとの戦いで死んだ。その後、また狗谷の一族によって生まれ変わらせてもらった。だから、ちょっとだけ僕たちのほうが年上なんだよ」
朽葉も檜皮も性格に差こそあれど、常磐と似ているのは見た目だけではないらしい。持っている雰囲気や声までもが兄弟だと言われれば納得する程に似ている。それは恐らく朽葉が簡単に説明してくれた出自に関わる部分だろう。
ミヤは良い声で俺が一緒に寝るのだと叫ぶ檜皮の頭を押さえつけ、それに怒った常磐を蹴り飛ばし、常磐を煽っていた朽葉に肘鉄をすると、1つ叫んだ。
「3人とも、お座り!!!」
ミヤは肌蹴た寝間着を整えながら、目の前に正座した大の男3人に女性の部屋で何を騒ぐのかと小一時間お説教することになるのだった。
終。
2015/02/09 今昔
仕方なしに道の左右をキョロキョロと見ていれば、どうやらここは、撮影所でもなんでもなく、普通の街であるらしい。ただ、和服の人と洋服の人が半々くらいで、目の前をあるく少女は洋服だ。ただし、剣が住んでいた時代のような格好ではなく、やはりどこか古めかしい。
少女はとある家の前で止まると、入ってと言って門をくぐっていった。表札には「狗谷」という文字が掘られている。
「おいおいおい…狗谷なのかよ……」
剣は置いて行かれないように一緒に玄関の中へ入ると、雷神の掛け軸がかかった玄関に圧倒されながらも部屋の中へと入っていった。ところどころに置かれているツボや瓶は、時折カタカタと揺れている。中には御札が貼られているものもあり、「いかにも」といった雰囲気に剣は心臓の音が大きくなったように感じた。
少女は屋敷の奥のほうへと行くと、障子戸をあけて一室に入った。続いて剣も入っていくと、中には6畳ほどの広さと更に億にウォークインになっている本棚がある。本棚には英語やら日本語やら剣には内容が想像も出来ない背表紙が並んでいた。
「おい、狗谷。」
「何?」
「お前、おれが見えるのはお前だけって言ったよな?あれ、何でだ?」
狗谷は本棚の前で振り返ると、小さく「おいで」とつぶやいた。それに答えるように彼女の周囲にふんわりと風が巻き起こり、そして空気の中から溶け出してくるように7匹の狼が現れた。
もはや驚くことも出来ずに彼らを見ていると、どうやら瞳の色だけがそれぞれ異なるようだということに気づいた。
「お嬢、コイツなにもんだ?人間でもねぇ、妖かしでもねぇ、まして神でもねぇ」
「黒、お前頭悪いな。コイツはきっとお嬢がオレたちの餌に持ってきてくれたんだ」
「黒も白も、お行儀が悪い。お嬢のお客様だったらどうするの?」
狼たちは口々に剣の存在を確認しあい、そして最後に赤い目をした狼が口を開いた。
「少し黙れお前たち。此奴はこの時間の人間じゃないのは見たら分かるだろ?」
重たい空気をまとった声に、剣にもその赤目の狼がリーダーなのだろうということが察せられた。他の狼たちよりも少しだけ大きい彼は、狗谷の隣にそっと寄り添って守るように座っている。
「人間だが、この世界の匂いがしない。人為的に生み出された人間か…はたまた時間遡行者か」
「やはり、木賊(とくさ)は分かるのね」
狗谷は赤い瞳の狼の頭を撫でると、しゃがみこんでその頬に唇を押し付けた。嬉しいのか尻尾を盛大に振り回す狼に、剣は彼らが犬なのか狼なのかよく分からなくなる。
「恐らくですが、あなた、犬神の能力で時間遡行…つまり、別の時代にやってきているのではなくて?」
「時間遡行?タイムスリップってことか?」
剣がそう問い返すと、狗谷は困ったように首を傾げた。タイムスリップという単語がよく分からなかったらしい。そこで剣は、そもそも本当にタイムスリップして過去に居るというのなら、確かに片仮名の言葉は通じにくいだろうということに思い当たった。
「私は狗谷絢音。狗谷家の人間で、今唯一彼ら…つまり、狼たちと触れ合うことの出来る者。あなたにかかっている犬神の呪いを浄化します。少し、じっとしていていただけますか?」
【 仮想百鬼夜行 犬神奇譚 05 】
彼女は走っていた。どこへ行くでもなく、ただただ走っているのだ。正確には、逃げているというべきだろう。どうしてか彼女のご主人様は暴力をふるうようになった。読んではならないと言われている、禁書を読むようになった。
そしてついには、彼女にも手をあげたのだ。怖くなった。もう死んでしまうのではないかと思った。その時、彼女を逃してくれた人が居た。出来るなら、その人にもう一度会いたい。
きっと叶わぬ願いを抱きながら、彼女はただひたすらに走った。
◇ ◇ ◇
ミヤが除霊を終えると、その両腕には可愛らしい犬が2匹抱かれていた。黒い豆柴のような犬種のその犬たちは、よもや犬神であるなどと信じたくないほどの愛らしさだ。もとより麗奈も同じイヌ科の狐である。犬神はある意味仲間であると言っても過言ではない。ただし常磐はノーカウントだ。
「狗谷ミヤ、あなた…その犬は?」
「剣さんに取り憑いていた犬神たちです。可愛いので私の式にならないかと誘ったら、あっさりオッケーしてくれました」
黒豆柴たちは尻尾をブンブンと振り回して、嬉しそうにミヤに擦り寄っている。その様子に、なんだか胸がぽかぽかとなるような気持ちになる。
「なにか、他の邪神に影響されていたようで、根はとても優しい子たちですよ」
「ふしゃー!」
「わん」
「っ!! どこが優しいんだい!」
海里と猫たちが一斉に威嚇すると、小さく黒豆柴が吠える。その吠え声1つですっかり猫又たちは萎縮したらしく、能力を使ったために現れていた麗奈の尻尾に隠れてしまった。くすぐったいので止めて欲しいのだが、肝心の海里までもが麗奈の背中に隠れてしまったので、麗奈はため息とともにミヤへ問いかけた。
「その犬神たちを、どうするのですか?祓い屋衆に所属する私としては、人間に害をなした以上、放置するわけにはいかないのですが…」
途端、黒豆柴の一匹がクーンと哀れな鳴き声をあげ、もう一匹は警戒するように唸り始めた。
「駄目です。朽葉(くちば)と檜皮(ひわだ)は渡せません。飼い主の責任だというのなら、何かしら私が罰則を受けましょう」
「おい待てミヤ、お前そいつらを連れて帰るのか…?」
「何か常磐に不都合が有りますか?大丈夫です、私がちゃんと世話をしますから」
「駄目だ!俺というものがありながら他の連中を家にあげるなど言語道断!」
「常磐は憑き物です、彼らは式です。何の問題もありません」
「ある!お前絶対そいつら自分の布団に入れて寝るだろ!そうしたら俺はどこで寝れば良いんだ!」
麗奈は、即座に名前が付いていることに突っ込むべきか、はたまた常磐の寝ている場所に突っ込むべきか、こめかみの辺りがズキズキと痛くなった。海里も呆れたのか猫たちを解散させ、自分も猫の姿へと戻っている。
猫に戻った海里を肩に乗せて、麗奈はまだ目を覚まさない剣を抱き上げた。体力を消耗しているせいで目を覚まさないのだろう。これは学校に行かせるのは諦めたほうが良い。ひとまず携帯で中学校に連絡を入れると、千草にも簡単に報告を入れた。心配して剣の顔を覗きこんでいる海里の頭を撫でてやると、麗奈は立ち上がった。
「では、私はこれで失礼します。あなたがた…えぇと、檜皮と朽葉…でしたか?彼らの処遇は追ってお伝えしますので。」
キャンキャンと吠える犬神たちと、大妖怪であるはずの常磐の口喧嘩を聞きながら、麗奈は梔子の家へと向かった。
◇ ◇ ◇
剣は絢音と名乗った少女に背中を捲って見せていた。ひんやりとした感触とともに、背中に何かが描かれていく。そういえば、あの戒愁珊瑚が白猫に同じことをしていたなと口にすれば、背中や体に文字を書くのは常套手段なのだと教えられた。
それから部屋の中にまた記号のようなものが書かれた紙切れを配置し、その中央に剣は立たされる。
「そういえば、絢音って何歳なんだ?見た目はおれと同じくらいだけど…」
「え?私は…そうねぇ、生い立ちが少し特殊だから。もう23歳になるわよ?」
背後に居る7匹の狼たちは口々に「女性に年齢を尋ねるなんて!」と言っているが、剣はそれにリアクションを返すことが出来なかった。
「は!?22!?」
「そうよ。私は生まれつき狼の物の怪が憑いてる。だから、人間と同じようには年を取らないの。」
絢音は小さくため息をつくと、憂いを帯びた仕草で髪の毛を耳にかけ直した。年頃の男子には少々刺激が強すぎる色気だと思ったが、剣は真剣に自分をセーブした。
「狗谷の家では、代々生まれつき憑き物を持って生まれてくる女がいる。その子は「絢音」と名付けられる風習でね。私もなるべくして狗谷絢音になったの。そして代々の絢音たちは、自分に付き従う式との間に子供を残してきた。」
「小さい頃から、物の怪が憑いてると…人間とは違うのか?」
「ええ。半分妖怪みたいなものだから。私と木賊の子供は、半人半妖の狼人間だわ」
「子供まで居るのか!」
「朽葉と檜皮(ひわだ)と言ってね、緑色の目をした可愛い息子たちよ」
剣はとても母親には見えない彼女をまじまじと見やった。そして唖然としているうちに、絢音は2回お辞儀をし、2回手を打ち鳴らし、そしてもう一度お辞儀をしてから「はじめるわよ」とつぶやいた。
『略法、急ぎ律令の如くせよ』
「あ、そうだ、助けてくれてありがとな!」
そう剣が叫んだ瞬間、手元に何やら勢い良く白いものが飛び込んできた。剣はそれを反射的に受け止めると、重力が無くなっていくような感覚を感じて目を閉じた。
「剣さん、大丈夫ですか?」
剣が目をあけると、そこには以前助けてくれた妖怪、麗奈が居た。どうやら絢音にかけられた術式はうまくいったらしい。そして落ち着いてよくよく見てみれば、今朝出たはずの自宅で、剣はリビングのソファに寝かされているらしかった。
「体調は大丈夫ですか?どこか、おかしなところは?」
「大丈夫です。海里は居ますか?」
「そこでお昼寝中ですよ。あれでも猫ですから、一日の大半は寝ていないと辛いようです」
見れば、テーブルのうえに出来た日向で丸くなっている海里が居た。剣はそれを見て安心すると、手のひらを閉じたり開いたりしてみる。
「実はおれ、なんか…江戸時代みたいなところに居ました。」
「江戸?」
「はい。戒愁珊瑚っていう男が、猫になんか術をかけようとしていて、それを狗谷絢音って女と一緒に止めたりしたんですけど…これってタイムスリップですか?」
「犬神にそんな能力があるとは思えませんが…憑き物によって弱っているあなたに何か手出しをした輩が居るのかもしれませんね。」
麗奈は眉を寄せて小さくうなると複雑な顔をした。
それから剣は麗奈が入れてくれたココアを飲み、買い込んできてくれた食事を摂って一日を安静に過ごすことになった。海里は久々に妖かしとしての能力を発揮したためなのか、疲れてずっと眠ってしまっている。麗奈に言わせればそれだけ剣を心配したらしい。
剣は犬神に憑かれたというよりも、ちょっとしたタイムスリップを体験した程度にしか思えず、少し腑に落ちない気もした。
「そんな顔をするものじゃありませんよ、剣さん」
「でも…本当に犬神が取り憑いていたんですか?おれ、確かに変なことになってましたけど、取り憑かれたって感じはしませんでした」
「実際がどうであれ、大した問題ではありません。海里にとって、身内である者が取り憑かれるというのは…少し、酷な話なのですよ」
「酷?」
「ええ。楽しい話ではありませんから、今日はぐっすり寝てください」
剣はソファに寝転がると、麗奈に頭を撫でられてあっさりと眠りについてしまった。自分で思っていたよりも、よほど疲れていたらしい。そういえば、タイムスリップした中でも走ったり気を使うことが多かった。
そんなことを考えて眠ったせいか、剣は不思議な夢を見た。
白い猫、ちょうどタイムスリップした先で「戒愁珊瑚」に何かされそうになっていた猫にそっくりな白猫が、街中を走っていた。そこはやはり江戸時代のような大河ドラマに出てきそうな町並みで、剣は白猫がどんな地名の場所を走っているのかは分からなかった。
<助けて…!>
白猫はとても怯えていた。まるで白猫の背中に乗っているような視線で見る夢は、白猫の気持ちもダイレクトに伝わってくる。
彼女は飼い主である戒愁珊瑚のことを恐れていた。あの狗谷絢音が邪魔をした儀式の時からずっと逃げているのだ。そしてあの時助けてくれた人間を頼りたくて、街中を探して走り回っている。
白猫の名前は莉李というらしい。戒愁珊瑚が呼んでいた通りの名前だ。白猫の莉李は、ひげをぴくりと動かして、何やら感じられた方向へと向きを変えた。そして視界に飛び込んできたのは、狗谷の表札がかかった邸宅である。そこへ莉李は躊躇いなく飛び込んでいき、開いていた窓から部屋の中へと飛び込んだ。
一瞬、何か人影に抱きとめられたのだが、すぐに4本の足は畳についてしまう。
「あらあら、可愛い猫ちゃんね。…戒愁家から逃げてきたのかしら」
<助けて!殺されちゃう!今、ここに誰か居ませんでしたか!>
「……ごめんなさいね、私じゃぁあなたの言いたいことが分からないのよ。木賊、あなたは?」
「生憎と猫の言いたいことは分からん。」
部屋の中にはまだ足元に筆とインクの入ったツボを置いたままにしている絢音が居て、狼たちは莉李を怯えさせないように小さく伏せの姿勢をとっている。
<どうしよう…困りました。早く、あの人のところへ逃げたいのに…>
莉李はしばし留まるかどうか悩んだ末に、トボトボと庭先へと降り立った。途端、狗谷家の塀を超えた道路から、「莉李ー、どこに居るんだーい?」という珊瑚の声が聞こえてきた。
足が震えてしまってうまく走れない。このままでは戒愁珊瑚がここへやってきてしまうかもしれない。高まっていく警戒心を止められずに居ると、ふいに莉李の体が持ち上がった。
「仕方ない、逃してやる」
「小豆、寄り道は駄目だよって黒と白が言ってる。ついでに木賊も」
「おう。行ってくる」
莉李はどうやら、狼のうちの一匹に咥えられているようだった。そして視界は一気に後ろへ流れだし、小豆と呼ばれた狼は勢い良く家々の屋根をつたって走っているようだった。遠くの方に雷門が見えた。どうやら浅草のあたりに居たらしい。
そしてその門も見えなくなると、狼はそっと道端に莉李を降ろし、「元気でやれよ」とだけ言うとサッと元来た方へと走り去ってしまう。莉李は途方に暮れながら、止まっていてもしょうがないと歩き出した。
すると、驚いたことにほんの数十歩も歩かぬうちに、莉李は何者かに抱き上げられた。
「兄ちゃん!にゃんこ居るで!にゃんこ!」
視界に映ったのは、淡い梔子色の着物を着た幼い少年と、
「なんだよ、今日はいやに捨て猫が多いなぁ…」
先ほど助けてくれた人間にそっくりな青年だった。
莉李が戒愁珊瑚の呪文に捕らわれた時、塀の隙間から覗いていた顔とそっくりな顔がそこにある。青年は黒っぽい毛並みの子猫を抱えていて、どうやらその猫のこともどこかで保護したらしかった。
莉李は抱き上げてくれた少年の肩に乗って、青年に顔をしっかり見せるべく背伸びをした。
「兄ちゃん、リボンに名前書いてあるで。この子莉李ちゃんや」
<さっきはありがとうございます!>
「お、お前莉李って言うのか、見た目も名前も可愛いな。海里とも仲良くしてやってくれ…っておい、こいつ尻尾が2本あるぞ…」
莉李は深緑色の着物を着た青年に抱き上げられ、そのぬくもりに安心しながら目を閉じた。今日はずっと走り回ってしまって疲れたようだ。同じように、夢を通して莉李の視界を共有していた剣の視界もブラックアウトした。
そして次の瞬間には、また莉李の視界が飛び込んでくる。夢と同じように、何の脈絡もなく場面が変わっていく。
次は、白いふわふわの布団に寝かされた莉李が視界に映った。傍らには、黒っぽい色をした猫が不安げな表情で莉李を見下ろしている。
<莉李、大丈夫かい?>
<うん。暖かいから幸せ>
「莉李、火鉢持ってきたぞ」
莉李を拾った青年が火鉢を持ってやってくると、莉李の2本の尻尾がゆらゆらと揺れた。
夢を通して見ている剣にも分かったのは、今が冬だということ。それから莉李がとても弱っていて、この冬を越せるかどうかが分からないことだ。
「梔子の医者には動物のことが分かる奴は居ないからなぁ…もうちょっとなんとかしてやれるといいんだけど…」
<そうよ!アンタ、もうちょっと頑張りなさいな!>
「なんだ、海里も心配なのか?そうだよな、幼馴染みたいなもんだもんな」
<健(けん)、あんたの知り合いに猫のことが分かる連中は居ないのかい?>
「悪いな…おれじゃ、どうにもならないんだよ。動物の医者様が知り合いに居れば良かったんだが…今のご時世じゃ飼い猫の面倒を見てくれる医者様なんて居ないからな……」
健と呼ばれた青年は、海里と莉李の頭をそっと撫でると「火鉢に入るなよ」と言い残して部屋を出て行ってしまった。
海里は莉李を温めるように寄り添うと、莉李と同じように目を閉じた。
翌朝になっても、莉李が目を開けることはなかった。
今までよりもボンヤリとした視界の中で、海里が泣きじゃくっているのが見えた。お墓を作ってやろうという山吹とその弟を引っ掻いて追い払い、そしてまた莉李の体に頭をこすりつける。
見ている剣までもが鼻の奥がツンと痛くなってきた。
<嫌だ!地面に埋めたら冷たいだろう!こんな冬に外に出すなんて可哀想!>
「海里、頼むから言うこと聞いてくれ。莉李のことも放っておいたら可哀想だろう?」
<外に出す方が可哀想!>
ふしゃーっと怒る海里がたてた尻尾は、綺麗に2本に分かれていた。
寒い冬の日、鳴いて暴れる海里とそれから健と弟の3人は、莉李の葬儀を慎ましく執り行った。お供えには家にあったミカンと、それから味噌汁のだし取りに使った煮干しが置かれた。
剣は健の弟と一緒になって泣いた。
◇ ◇ ◇
狗谷ミヤはたいていのことには動じない。なぜなら、小学校にあがった頃から身の回りで様々な摩訶不思議なことが起きているからだ。しかしながら、こればかりは驚かざるを得なかった。
「おいこら!ミヤの布団に入るんじゃない!」
「良いだろう!お嬢が良いと言ったんだ!」
「そうだそうだ!常磐ばっかり若造のくせにずるいぞ!」
「若造言うな!というか、お前らも対して変わらんだろうが!」
ミヤの布団にくるまろうとしている男性が二人と、それを必死に止めている常磐。ミヤはぽかーんと口を半開きにして、自室のふすまから手を離せずに居た。
見知らぬ男性はどちらも常磐に良く似た狼の神のようで、違うところといえば毛並みの色合いが少し黒っぽいくらいだろうか。どちらも瞳は少し色合いは違うものの緑色で、毛並みは常磐とまったく同じで薄い灰色だ。
片方がミヤに気づくと、パァっと顔を明るくしてこちらに駆け寄ってきた。
「お嬢!常磐が煩いんだ、コイツ俺たちより若いくせして楯突くなんて、酷いだろう?あんまりだろう?」
「貴様…、ミヤの布団に潜るだけでは飽きたらず抱きつくとはどういう了見だ!!」
「まぁまぁ常磐落ち着いて、檜皮(ひわだ)も悪気があるわけじゃないって」
抱きついてきていない方の男性が言ったセリフに、ミヤは目を見開いた。どうやら見知らぬと思った彼らはミヤが拾ってきた犬神たちであったらしい。抱きついてきている方は檜皮、少しだけ落ち着いているほうが朽葉ということだろう。
「二人とも、擬人化できるんですか…」
朽葉と名づけた方は、髪の毛は落ち着いたストレートで、若干垂れた耳が頭の上でピョコンと揺れた。檜皮の方は強いくせっ毛でぴょんぴょん跳ねた髪の毛から、鋭い目とまっすぐに伸びた耳が覗いている。
「当たり前だろう!こう見えても常磐よりちょっとばかし古い魂の持ち主だからな!」
「僕と檜皮は、常磐より数年前に生まれた同族なんだ。だけど、直後に陰陽師たちとの戦いで死んだ。その後、また狗谷の一族によって生まれ変わらせてもらった。だから、ちょっとだけ僕たちのほうが年上なんだよ」
朽葉も檜皮も性格に差こそあれど、常磐と似ているのは見た目だけではないらしい。持っている雰囲気や声までもが兄弟だと言われれば納得する程に似ている。それは恐らく朽葉が簡単に説明してくれた出自に関わる部分だろう。
ミヤは良い声で俺が一緒に寝るのだと叫ぶ檜皮の頭を押さえつけ、それに怒った常磐を蹴り飛ばし、常磐を煽っていた朽葉に肘鉄をすると、1つ叫んだ。
「3人とも、お座り!!!」
ミヤは肌蹴た寝間着を整えながら、目の前に正座した大の男3人に女性の部屋で何を騒ぐのかと小一時間お説教することになるのだった。
終。
2015/02/09 今昔
2015年2月6日金曜日
【仮想百鬼夜行】犬神奇譚 第04話
「また妖かしに絡まれたのかい!これだから梔子の人間はお人好しがすぎるっていうんだよ、まったく。」
剣は朝から正座で食卓の椅子に座り、その膝の上に海里を載せた状態で朝食であるシリアルを食べていた。
「いいかい?妖かしっていうのは人間の弱い心に取り入る連中なんだ。特に狗谷の人間が操る妖かしはその辺りの容赦がない。絶対に近づいちゃ駄目だからね!」
「はい、ごめんなさい…」
「あと、戒愁の家もだめだ!」
「え?珊瑚の家?」
海里の言い分に思わずリアクションを示すと、海里は全身の毛を逆立てて剣の頬にねこぱんちを食らわせた。
「まさか!!戒愁珊瑚なんて名前の奴と関係があるんじゃないだろうね!!それだけは絶対に許しません!」
「痛い…」
【 仮想百鬼夜行 犬神奇譚 04 】
剣はその日、何故かご機嫌斜めになってしまった海里による傷跡を両腕にこさえて登校することになった。空気があたるだけで、少しピリピリする。
珊瑚の名前でどうしてあそこまで怒り出してしまったのか分からないが、ともかく彼女を怒らせないように頑張らなくてはならない。梔子家の権力は下から順に剣、徹、父、母、そして海里なのだから。
登校用のカバンを背負い直すと、剣はいつもどおりの通学を再び歩き出した。最近妖かしに出会ってしまった道は避けつつ、遠回りにはならないようにルートを変更する。狗谷ミヤにはじめて助けられた場所と、先日河童と呼ばれていた妖かしに襲われた場所だ。
もちろんそこにまだ何かが居ると思っているわけではないが、最近読んだ小説では「犯人は必ず現場に戻ってくる」と探偵が言っていた。ということは、通らないに越したことはない。
「あれ?おはよう、剣!」
いつもと違う道を通っている最中、背後から扉が閉まる音と聞き慣れた珊瑚の声が聞こえた。慌てて振り返ってみると、木製で横開きの門を閉めながら珊瑚がこちらに声をかけていた。
その背後は、このあたりでも一番大きな邸宅で、慌てて表札に目をやると達筆な文字で「戒愁」と書かれていた。
「ここ、珊瑚の家だったのか…」
「そうだよ。あれ、苗字で気づいてるかと思ってたんだけど…」
「いや、でもこの家ってずっとここにあるだろ?お前が引っ越してくる前からさ」
「昔、僕が病気したって言ったでしょう?あの時に病院の近くにあるマンションに引っ越したんだ。で、こっちはずっと祖父母が住んでて、通院しなくなったから帰ってきたんだよ」
確かに、剣の通う中学校付近には病院が少ない。体育の授業で捻挫した時も、教員の車に載せられてわざわざ出向く必要があるような距離だ。引っ越した方が効率が良いというのも分かるが、よくよく考えてみると、住宅地も多いのになぜ病院が少ないのかと気になるところだ。
二人はならんで歩き出すと、他の生徒たちの波にのった。
「このあたり、病院少ないんだよな。大きいモールとかはあるのに」
「そういえば、聞いたことあるよ、このあたりに病院が無い理由」
「理由?」
「そう。なんでも、猫憑きの影響らしいんだ」
剣は背中が震えるのが分かった。他の人が聞けばただ趣味の悪いオカルト話程度で流せただろうが、剣の場合は今までに妖かしと関わりすぎている。本当か嘘かは分からずとも、ただ恐怖を感じた。
「なんでも、昔この土地で猫憑きの術をやった人が居るらしくてね」
「犬神みたいに、猫で呪いするのか?」
「違うよ、人間と猫をくっつけるんだ」
「猫人間?」
「そうそう、よく映画とかに出てくる半獣人みたいなものになろうとしたんだね。それで、失敗してこの土地に呪いがかかった。だから、病人がこの辺りに居ると治らないらしいんだ。子供も生まれにくい」
背筋が、先ほどよりも冷えたような気がする。話している内容も信じがたく恐ろしいものだが、何よりもそれを話す珊瑚が楽しそうなのだ。猫という言葉が出た時から楽しげで、まるで猫憑きの話は喜ばしいことのように喋っている。
猫が好きな人からすれば嬉しいことなのかもしれないが、珊瑚のそれは少し違うように見える。猫と暮らしているという話も聞かない。
「良いよね、猫。ふわふわで可愛くて、人間よりも土地につく。格好良い。本当、猫になりたいって思っちゃう人の気持ちがわかるよ」
「あ、あぁ。うん、そうだな」
「あ、剣、あれ見て!」
珊瑚は怪しげな空気をすっと消すと、通学路の前方を指さした。ダンボールが落ちている。その隙間から、薄茶色のもふもふっとした何かが飛び出していて、時折左右に揺れた。捨て犬らしい。
なんとなく、狗谷ミヤのお付である例の狗神(本人曰く狼だそうだが、剣には全くそう見えない)のことが思い出され、警戒しながら近づいてみた。
犬は比較的元気なようで、舌をだしてしっぽを振っている。
「なんだ、犬か…」
「犬も可愛いだろ?っていうか、捨て犬か…お前可哀想だな」
剣はがっかりした様子の珊瑚を尻目に、犬を抱き上げた。豆柴と何かの雑種に見えるが、別段くわしくもない剣には犬種の判断はつかなかった。ただ、ふわふわの尻尾がとても可愛らしい。
そんなことを思っているうち、視界はゆるやかにブラックアウトした。
◇ ◇ ◇
随分と清々しい朝だ。
麗奈はそんなことを思いながらいつものスーツに着替えるとベッドを整え、朝食にトーストとカフェオレを用意した。ブラックコーヒーならば格好がつくのだろうが、人間の飲んでいるブラックコーヒーというものは妖狐の口にはあわないらしい。断じて苦くて嫌いなわけではなく、種族的な問題である。断じて。
今日から主である千草は急遽入った表の仕事で出張中だ。式として仕えている以上は、本来であれば麗奈も付き従うべきなのだが、表の仕事という都合がある。社長秘書という立場に居るため、今日はオフィスで留守番だ。
確か午後には梔子議員との打ち合わせがある。それ以外はいつもどおりに書類仕事をこなすまで。人間と関わることが少ない秘書というポジションは、妖狐としての本分を欠いているような気もするが、麗奈には気楽に出来る天職に思えた。
「次のニュースです----」
ニュースを聞き流しながら、街一体、千草の自宅から分かる範囲で気配を探る。祓い屋として、この街の妖かしが暴走しないように見守り制御するという仕事がスムーズに進むのは、妖狐としての探知能力の高さ故だ。
ふと、麗奈は見慣れない気配を感じ、残っていたトーストを行儀を気にせず口に入れてカフェオレで押しこむと、上着を羽織って自宅を飛び出した。
「これは…犬、ですか」
動物の妖かし。どの土地にも多く居る妖かしではあるが、この周辺に住んでいる--いや東京付近に暮らす犬や狐、狼の類はほとんどが常磐の配下に居る。麗奈のように人間に仕えるか、はたまたそういった繋がりを嫌う者以外は全てと言えるだろう。
常磐が狗谷ミヤに付き従っている以上、人間に対してトラブルを起こすことはほとんど無いのだが、今感じられる気配はどうにもおかしい。
中野区付近を見渡すと、麗奈はにわかに信じがたい光景を目にした。
「梔子、剣…」
道端に倒れている梔子剣と、その周囲にこれでもかというほどの猫が集まってきていた。幸いにも付近を通りかかる人間はおらず、その光景の異様さは問題にはなっていない。
「海里!どこかに居るのですか?」
猫の群れに向かって呼びかけると、一斉にこちらを振り返った猫のうちの1匹が、ふわりとやわらかい風を起こして人間の姿へと転じた。
長い黒髪を低い位置で結び、上部の髪の毛は短めなのかところどころ跳ねている。薄紫のTシャツに黒いズボンは、最近人間の間で流行っている格好だろうか。
「麗奈、良いところに。剣が大変!あの駄犬に…」
「あの阿呆に何かされたのですか?」
「犬神に憑かれてる!今猫たちを集めて常磐を探させてるけど、見つからない…」
海里の言葉と、にゃーにゃーと盛大に泣き喚く猫たちの言葉とを合わせてみると、どうやら剣に犬神がとり憑いた。このあたりで犬神を使役できるのは祓い屋か常磐くらいである。あの駄犬を呼び出して懲らしめてやる。ということらしい。
ともかく全員が焦っていてはしょうがないと、麗奈は剣の状態を確認すべく彼に手をかざした。
『 六根清浄 』
両手に霊力をあつめ、スキャンをかけるように剣の全身にかざしていく。生物学的には体内に異常は見られないようだが、人間ではありえない量の霊力が溜まっている。もともとが霊を見れるだけで能力の無い肉体に、こんなにも他人の気が溜まってしまってはいつ意識をも乗っ取られるか分からない。何より、そうなった時に海里が負うダメージも気になる。
麗奈はよりによって千草の居ない日に起きたトラブルに、絶望しか感じ得なかった。
「麗奈、治るんでしょう?」
「私では無理です。若ならばどうにかなるのでしょうが…私はたしかに除霊も行えます。しかし本職ではありません…こうも深く結びついてしまった犬神を除去するのは無理です。」
あくまでも、出来る限り冷静に言うと、周囲に居た猫たちがぐりぐりと剣の体に頭をすりつけはじめた。彼ら彼女らも心配しているらしい。
海里はといえば、ズボンをぎゅっと握りしめて過呼吸でも起こすのではないかという浅い息をしている。
「海里、落ち着いてください。他の祓い屋を要請します」
「それで間に合うの?」
「分かりませんがやらなくては」
「間に合わなかったらどうするの!!」
甲高い悲鳴に、耳にキーンと響いた。麗奈が怯んでいる隙に、海里が大きく息を吸ったのが見えた。
『彼方より此方、此方より彼方。名のある神よ、生ける力から立ち去られよ!』
海里の呼びかけに、びくりと犬神の霊力が震えたのが手のひらに感じられた。しかしそれだけで、海里が言ったようにそれらが立ち去ることはなかった。
言霊と呼ばれる能力は使う者の思いの強さや思念の強さによって、はたまた場所との相性によっても発動する威力は異なる。今この状況で海里の能力が効かないとなれば、二人のどちらの能力も効かないことは明白だ。海里が地面にぱたんと座り込んだのが視界の隅に写った。
◇ ◇ ◇
剣は明るい場所に居た。
見慣れた街と似てはいるが、大河ドラマでも見ているような古めかしい町並みの中に、剣は何故かぽつんと立っている。瓦屋根の平屋ばかりが立ち並び、時折猫が通り過ぎ、そして和服の子どもたちが走り去っていく。
目の前にあった横開きで木製の門が開き、中から紺色の着流しを着こなした男性が出てきた。薄桃色が混じったような独特な色合いの髪色をしている。どこかで見たような髪色だなと思いよくよく見てみれば、珊瑚の髪色に似ているのだ。
「莉李(りい)、どこに居るんだい?」
目の前に居る剣を無視して、その男性はキョロキョロと周囲を見渡しはじめた。
「あれ?ごはんの時間だから帰ってきてると思ったんだけど……」
言い草からすると、ペットの話なのだろう。
まだ周囲を見ている男性の方へ、よたよたと野良犬らしき小さな犬が歩いてきた。だいぶ弱っているらしく、ふらふらと足取りは覚束ない。男性はその犬が足元へやってきて悲しげな鳴き声をあげると、足をすっと引いた。
剣がまさかと思った次の瞬間には、犬はやって来た方向へと蹴り飛ばされていた。地面にペタンと倒れこんだ犬は、震えているので生きているのは分かるが立ち上がる気配はない。
「おい、お前!!何しやがる!」
「……あれ、莉李おかえり。やっぱりアイツが居たから帰ってこれなかったんだね」
剣の怒鳴り声も聞こぬフリなのか、男性は自宅の塀を歩いてきた子猫に声をかけた。白い子猫は可愛らしいすみれ色のリボンを首に結んでいる。猫は男性を視界に入れると、ピタリと足を止めた。
「おかえり。さぁ、ごはんにしようか」
尻尾を下げて嫌がる様子を見せる猫を、男性は無理やり塀の上から抱き上げると、また木製の門の中へと入っていってしまった。あまりの横暴さに剣が唖然としていると、門の中から「照れ屋さんだなぁ」「大丈夫だよ、僕はどんな君も好きだから」といった男性の声が聞こえてくる。
「おいおい、まじかよ……」
剣が呆然と門を眺めていると、先ほど蹴られた犬がクーンと鳴いた。見やれば、見知らぬ少女が犬を抱き上げている。
少女が小さく口を動かした瞬間、犬は光り始め、みすぼらしかった毛並みが整っていく。
「おい、その犬…」
「……あなた、多分、私以外には見えてない。」
「は?」
「今の貴方は犬憑き。だから、私にしか見えてない。多分、この時間に居るべきじゃない人」
少女は犬を抱き直すと、踵を返して歩き出した。
剣は全く状況が飲み込めなかったが、彼女の言う「時間に居るべきでない」という話が気になり、すぐに追いかけることを決めた。
◇ ◇ ◇
狗谷ミヤはふと空を見上げた。登校中にめずらしく葵と柳に遭遇しなかったため、今日は一人で歩いている。ように周りには見えているだろう。実際には常に常磐が傍らに控えているため、ミヤは今まで「一人ぼっちで登校した」ということはない。それどころか、初めて常磐に会った日から、一人で居たことは無いのではないだろうか。
お風呂に入っているときなどは扉を数枚挟んだ場所に居るが、その程度でお互いに気配を探れなくなることはなく、一人でいるという感覚は分からない。
だからこそなのか、誰かの孤独に触れることはとても心が痛む。自分の経験したことのない未知の痛みを感じている誰かが居ると思うと、助けずにはいられない。
「常磐、どこかでワンコが鳴いてる」
「…犬神か。哀れだな」
珍しくミヤの意見を聞く前に足の向き先を変えて歩き出した常磐に、ミヤも学校へ行くことは諦めた。ミヤを主として認めている常磐が指示を仰がないということは、彼の意思がそれだけ強いということだろう。
「ワンコ、強くなってる」
「人間に取り憑いたか。愚か者め、俺の土地で人間に手を出すとは良い度胸だ。」
人間の肉体や精気を食らって成長しているであろう犬神を思ってか、走りだした常磐の顔は複雑だ。同じ妖かしとして人間を食らってしまえと思うだろうし、ミヤという人間に取り憑いている以上は人間の味方でもある。しかし自分が取り憑いているが故に、今どこか近くに現れた犬神に取り憑くなとも言えない。
ミヤは常磐に抱き上げられたままでその首にしっかり掴まり、ふわふわと風になびいている髪の毛に顔をうずめた。くすぐったいのか、耳がひょこりと動いた。
「ワンコ、大丈夫かな」
言葉を無視して家々の屋根づたいに走っていた常磐が、ぴたりと止まった。にゃーにゃーと盛大な猫の鳴き声と、よく知った霊力を感じる。そっと下を覗き見れば、大量の猫と麗奈、海里、それから地面に倒れこんでいる梔子剣が居る。
自分以外の人間が犬神に取り憑かれているのを見るのは初めてで、ミヤはどうして良いのか分からなかった。自分は幼い頃から常磐という狼神に取り憑かれているうえに、もともとの素質もあったのだろう、特に体調を崩したり不便をしたことはない。だが、剣のような一般人が取りつかれた場合にどうなるか分からないのだ。
恐らく、早く対処をして除霊しなければ、体力も精気も底をついて死んでしまうのだろうということは分かる。
常磐が少し離れた地面に降り立つと、一斉に猫がこちらを向いて毛を逆立てた。海里が呼び出した猫たちだろうか。
「少し、よろしいでしょうか?」
常磐の腕から降り立って言うと、猫又が一匹飛びかかってくる。右手で受け止めてそのまま流れで地面へおろしてやると、今度は足首に噛み付いてきた。流石に痛いと思うが、犬神に取り憑かれている人間が居る目の前で、別の狗神を連れた人間を疑うなという方が無理な話だ。
背後の常磐が毛を逆立てて猫又を警戒しているのが分かるが、ミヤは止めることもなく言い放った。
「除霊をさせてください」
「馬鹿を言うんじゃないよ!常磐が消えれば、使役されてるこっちの犬神だって消えるんだろう!」
「何を言っているんです?」
「剣を助ける気があるなら、その駄犬を始末しろって話!」
海里の決めつけた悲鳴にカチンとときたが、ミヤはいくらか冷静な様子の麗奈を見て「どうしますか」とだけ続けた。無視されたことに猫たちまでもが怒っているようだが、今は一刻を争う状態に見える。
剣の体はぐったりと力が抜けていて、肌の色もよくない。ミヤは躊躇うことなく剣に近寄ると、腹に、肺に、喉に、そして口に己の力を載せるべく深く呼吸を整え、その場の空気を除霊するために二回の礼、二拍手、そして一礼をしてから両手を前方で1つ打ち鳴らした。
『かつて、ここかしこに賢き女衆座せり。ある者は戒めの鎖をととのえ、ある者は敵の兵をおさえ、ある者は鎖をむしりとれり。「戒めを脱し、敵を逃れよ!」』
◇ ◇ ◇
少女の後をついていって気がついたのは、さきほど男性が出てきた場所が裏口だということだった。表側の門扉にはきちんと「戒愁」という表札がかかっている。そして少女は犬を抱き上げたままで、塀の板が少しずれているところから、家の中の様子を覗きこんだ。
犬は抱かれたまま静かにしているので、剣もそれを見習って静かに他の隙間を覗きこんでみた。
「見てて。多分、今から戒愁家のご当主がしでかすから」
「しでかす?」
「そう、あの戒愁珊瑚は猫狂い。多分、禁術に手をだす。って、うちのワンコたちが教えてくれた」
庭には、なにやら大きな紙が広げられていて、墨汁で書かれたらしいよく分からない記号がたくさん書いてある。以前、麗奈や千草が妖術を使った時に見えた御札にも似たような文字が書いてあったように思う。
それにしても、と、剣は首を傾げた。戒愁家には男性に珊瑚という名前をつける風習でもあるのだろうか。
「来た」
少女のつぶやきに視線をずらすと、先ほどの紺色の着流しの男性が白猫を抱っこしていた。やはり嫌がる様子を見せている白猫に、剣はふつふつと腸が煮えてくるのを感じた。
白猫を抱き上げたままで男性は草履を脱ぐと、庭に広がった紙の上に乗り、中央に白猫をおろした。もはや怯えて動けないという様子の白猫に、懐からとりだした筆で背中になにやら書き込んでいく。赤いインクらしく、白猫の背中にはこれまた見慣れない記号が描かれた。
「さぁ、はじめようか。」
当主だという男性が言うと、紙に描かれた記号たちがにわかに輝き出す。
『おいでませ、おいでませ。彼の者に宿りし力と念を、我もとへ、我に宿りし力と念を、彼の者へ。天霊霊地霊霊十二神将急急如律令』
呪文が終わると、たちまち記号たちは輝きを増して、怯える白猫へと光が集まっていく。剣が思わず拳で塀を殴ると、隣で少女がつぶやいた。
『戒めを脱し、敵を逃れよ』
途端、白猫は弾かれたように走りだし、剣たちが居るのとは逆方向へと走りだした。当主は怒り狂ったように白猫の名前を叫びながら走りだし、剣はあっけにとられて少女をみやった。
少女はさも当然だと言う風に髪の毛を耳にかけなおし、それから犬を抱き直した。よくよく犬を見てみれば、犬よりも牙が鋭く顔が長い。
「さて、帰ろうか。狼を連れて歩くなんて、不審者だって通報されかねない。ただでさえ死ねない一族って言われてるのに、これ以上何か言われるのは面倒」
マジカヨ。という剣の呟きは、街角に溶けて消えた。
◇ ◇ ◇
それは麗奈も聞いたことのある呪文だった。
北欧神話に登場する精霊たちの呪文。囚われの身になったものを逃がすための呪文は、口から飛び出した瞬間には光に姿を変えて剣を包み込むように広がっていく。
日本に生まれ、日本の神々の能力を借り受ける妖術師である狗谷ミヤが、北欧の術式を使うことに、麗奈は全身が凍りつくような錯覚を覚えた。普通ならばありえないのだ。北欧につたわる万物の精霊たちがミヤの指示に従い、剣に取り憑く犬神を引き離しにかかるなど。
言ってしまえば、熱心なイスラム教信者がクリスマスを盛大に祝わないのと同じで、その者の心持ち次第で使役できる神々や妖かしは異なる。ミヤは以前、日本神話の神であるカグツチノミコトの能力を駆使してみせた。本来であれば、生まれ持った性質に合わせたものを使役するのが精一杯だというのに、炎を守護する神と、それとは全く別の能力を駆使してみせた。
背後に立ち除霊の様子を見ている常磐は、特に驚いた様子もない。恐らく、これがミヤの持って生まれたセンスか、はたまた常磐が取り憑くことによって増大されたものだと予測される。
「恐ろしい子」
「その恐ろしい子供を生み出したのは、狗谷の古い習わしだ。代々犬神に魂を喰らわれながら、呪いを背負い続ける。そしてミヤは、その肉体までもを贄として差し出すことになった」
常磐の静かな発言に、麗奈は違和感を覚えて振り返った。
「狗谷の家は、代々大きな神を祀っていると聞きました。常磐のことではなかったのですか?」
「俺は知らん。百三十年前にお前と清白のガキに封じられてから、ミヤの祖父母に叩き起こされる8年前まで、俺はずっと眠りっぱなしだ。封じられていなかったとしても、あんな不味いジジイどもの魂なんぞ、食う気にもならん」
「では…狗谷の家は一体何を……」
「大方、前回の腐れ神のように人為的に生み出した…いや、神から化け物に貶した連中を祭りあげていたんだろう。そりゃ、祓い屋連中から嫌われるのも納得だ」
前回の腐れ神は、確かにとても力のある神であった。それこそ、あのテリトリーの内側では千草も逃げることが精一杯になるほどに。あんなものを量産していたとしたら、今後どこにどんな化け物が現れるか分からない。
麗奈は心の中でなるほどと頷いた。
確かに都内の立地は良いが、それでも千草の会社がわざわざ23区にオフィスを置く理由はないとばかり思っていた。狗谷一族が生み出したあの化け物の存在を、祓い屋衆のお偉方は知っていたのだろう。
「人間とは、本当に面倒な生き物だ」
「ええ。全くです、せめて同じ生き物なのですから助け合えば良いというのに。ましてあんな幼い子に何をさせようというのか。」
「狗谷の家が腐っているのは大昔からじゃないか」
不思議そうに除霊の様子を見つめながら、海里がつぶやいた。
「常磐。あんたが取り憑いているせいで、あの子は人間とはかけ離れた存在になってるね?」
「何が言いたい」
「あの子を普通の人間と同じように生きて死なせてやりたいと思うのなら、今すぐ魂を分離しろって言ってるのさ。」
取り憑く、つまり憑依している状態とは、憑依された側の精神や運命に変化をもたらすことだ。霊力の増大や能力の開花をもたらすことから、魂が直結していると考える者も多い。海里とその飼い主である梔子の家は、憑依をそう考えているのだろう。
逆に、麗奈のように式として呼び出されている場合には、お互いが納得する何かしらの対価があっての協力だ。憑依のように人間側に不都合もなければ、肉体を乗っ取られるというようなことも、妖術師の能力に見合った式であれば発生しえない。
今回のように、力の無いものが憑依されてしまえば、命さえも落としかねない。そんなことを、狗谷の家は小学校にもあがらない子供にやらせたというのだ。
「狗谷ミヤは、死ねない。」
麗奈は小さく下唇を噛みしめる常磐を見た。歴史上に何度も名を出す大妖怪が、たかだか一人の人間にこんなにも感情を揺さぶられているという事実に、どこか共感を覚えざるを得なかったのだ。
「あのこはもう、人間じゃないから」
終。
2015/02/06 今昔
2015年2月3日火曜日
【仮想百鬼夜行】犬神奇譚 第03話
中学生というのは、とても複雑なお年ごろである。
「はじめまして、戒愁珊瑚(かしゅう さんご)です。どうぞ、よろしくお願いいたします。」
例えば、転校生がやってきたとしよう。その転校生が外見で男女の区別がつかず、名前でも区別がつかず。そんな子であった場合に周囲の輪に溶け込める確率というのは、中学二年生ではとても低いと思われる。
案の定、剣が二年生になった春に転校してきたこの少年も、どこか教室か浮いてしまっていた。勿論それが良いことではないが、そこをどうにかする術を学ぶのが学校という場所だ。狗谷ミヤのように浮いていることを気にすることもなく、中学校へ進学してくるような人間も居るわけだが、そのような道はたどるべきでない。剣は強く感じることになった。
休み時間になれば、中性的な見た目と相まって女子からの熱い視線を受けている珊瑚に、剣は他の男子の静止も聞かずに声をかけた。
「なぁ、戒愁…であってるか?」
「うん、あってるよ。戒愁珊瑚。」
「おれは梔子剣。お前細いよな、ちゃんと食ってるのか?」
そう聞くと、珊瑚は驚いて目を見開き、それからにっこりと笑ってみせた。
「ありがとう、梔子。実は小さいころに病気して、それ以来あんまり運動ってしたことないんだ。」
「じゃ、昼休みになったらおれたちと一緒にサッカーやってみようぜ」
「ありがとう…!」
【 仮想百鬼夜行 犬神奇譚 03 】
それからあっという間に1年が過ぎ去り、剣は三年生へと進級した。
近頃は剣の尽力というよりもゴリ押しの成果が出たようで、他のクラスだった生徒たちにも珊瑚の存在は受け入れられつつある。それが嬉しくもあり、少しだけ複雑でもある。もっとも、剣も相変わらずクラスの中心グループに居るので不満はない。
不満だったり腑に落ちないことといえば、例の狗谷ミヤの存在であった。
今朝も珊瑚と並んで登校していると、背後からきゃんきゃんと楽しげな笑い声が聞こえてくる。
「でね!ミヤに言われた通りにしたら、玄関にナメクジ来なくなったよ!」
「そう、それは良かった」
「お母さんが、今度お菓子でも食べにお出でって言ってる!」
「ありがとう、それじゃぁ…二人の習い事が無い日に遊ぼう?私もお菓子作ってくから」
「「やったー!!」」
狗谷ミヤと、その囲いである。同学年の双子と仲良くなったらしい狗谷ミヤは、最近見る度にその双子と行動を共にしている。元より騒がしい双子と共に居るせいか、ミヤも少しだけ喋るようになったらしく、見ていてなんだかいらいらするのだ。
珊瑚はそんな剣の頭を拳で軽く小突くと、にっこりと笑ってみせた。
「後輩の女の子になんて顔してるの?」
「わ、悪い…でもなんていうか、あいつすっげー暗い奴だったのにあんな風になって。気に食わん」
その発言さえも珊瑚に笑い飛ばされながら、教室へ入っていく。黒板の右下に書かれた日直の欄に、自分と女子生徒の名前があるのを見つけ、剣は盛大にゲッと声をあげた。中学3年生ともなれば、日直などサボる生徒も多い。しかし、なんとなくではあるが与えられた仕事を無視するというのは納得が出来ない。
時計を見上げれば、朝のホームルームまでは15分ほど残っている。これは急いで向かうしかないなと思っていると、背後から勢い良く体当たりをくらった。
「剣、大丈夫…?」
「いてぇな、おい」
「ごめんごめんごー!剣っちのために日直の仕事しておいてあげたから、許してよー」
つんのめって振り返ると、日直の欄に同じように名前が書かれているクラスメイト、天宮カヨが当番日誌と出席簿を抱えて立っていた。着崩すわけでもなく校則通りに着ている制服は、とてもよく似合っていると剣も思う。
カヨはふと小首をかしげると、剣の右肩を軽く叩いてからにっこりと笑って見せた。
「ほら、早く席付かないと。1限目の支度しておかないと、今日は数学だから剣っちの列が当たるんじゃない?」
授業の度に日付通りの出席番号の生徒が居る列をあてる数学教師のことを指摘され、剣と、ついでに珊瑚はゲッと声をあげた。二人の座席は前後なので、剣が当たるとなれば当然ながら珊瑚も当たる。
剣は後で珊瑚の宿題を見せてもらおうと決心しながら、カヨにお礼を言うと、彼女のつけているお守りに目がいった。ミサンガのように手首に巻かれたそれには、見たこともない文字が刻まれた木製のビーズが1つついている。
「天宮、そのブレスレットかっけーな」
「あぁ、これ?いいでしょ。最近は不思議なことを起こす名人が居るからねー。こういうので身を守らないと」
「「不思議なことを起こす名人?」」
剣と珊瑚は綺麗にシンクロすると、二人そろって首をかしげた。
「あぁ、男子は知らないかもしれないね。今の二年生にさ、狗谷ミヤって女の子が居るの、知ってる?」
「知ってるよ。日本人形みたいな女の子だよね」
「そういう戒愁くんは西洋人形だけど…ってそうじゃなくて。その子が周りに居るとね、変なことがたくさん起きるんだってさ」
「例えば?」
「理科の実験で使ってたアルコールランプが、狗谷さんの居る班だけ爆発したりとか。調理実習で突然カレーの鍋が転がったりとか」
カヨの口から飛び出した内容に、剣も珊瑚も目をまるくした。筆箱が無くなるだとか、机が移動しているだとか。もうちょっと、小さい出来事を想像していたのだ。確かにそんなことが起きているというのなら、狗谷ミヤに近づきたくないという気持ちもよく分かる。
ただ、剣の頭によぎったのは妖かしのことだ。彼女も妖かしが見えて、妖かしたちと深く関わって生きている。もしかしたら、お供の妖かしが悪さをしているのかもしれない。全く関係ない妖かしが悪さをしているのかもしれない。
剣はそんなことを考えながら、もし狗谷と出会うことがあれば気をつけようと思った。彼女が指示しているにしても、そうでないにしても、彼女の周りが危険であるということに変わりはないのだから。
◇ ◇ ◇
ミヤが居る学年は、理科の実験でアルコールランプを使うことはなくなったし、ガスバーナーも使わないことになった。それはきっと、ミヤが居る場所でだけ起きる怪奇現象が影響している。そう教師たちが思ったからだ。
そんなことは考えなくたって分かるし、他人にいちいち言われなくても分かっている。
「お前のせいで授業できないんだけどー」
「学校来る意味あんの?気味悪い」
理科の授業中だというのに、コッソリというにはだいぶ大きい声で男子生徒が言っている。その男子生徒と同じ班に居た友人が、男子の背中をシャーペンでチクチクやっているのが見える。
学校でわざわざミヤに絡んでくるのは、同じクラスにいる風間葵と風間柳という双子の少女たちだけだった。彼女たちは妖かしの存在を信じているらしく、それらに詳しいミヤと仲良くなりたいと思ってくれたようだ。常磐も彼女たちのことは気に入っているようで、姿を見てもらうことは出来ないが時折周囲の妖かしを追い払ってやっているようだ。
そんなことを考えているうちに、クラスの中にざわめきが広がっていた。そのほとんどがミヤを非難する声で、理科の教師は困ったように笑って「静かにしてください」とだけ繰り返している。そんな教師の目線はミヤに向いていて、正直転校でもしてほしいと言いたげだ。
「人間とは厄介だな」
背後に居た常磐が小さく呟いた。気遣わしげにミヤの頭を撫でる手に、なんだか涙が出そうになる。
「常磐が封印される前の時代は、こういうのはなかったの?」
「あぁ。もう少し…肉体的だったな。昔のものも、このような陰湿なものも気に食わん。どちらにしても、標的がお前だと思うだけで腸が煮えくり返る」
台詞は裏腹に呆れたように言うと、常磐は教室の中をうろちょろしていた小さな妖かしを捕まえて、窓から外へと放り出した。弱くとも、ただの人間には害になることがある。人間は好きではないという彼がこうした行動をとるのは、ミヤがお願いしているからだ。
ミヤは先ほどから進んでいない黒板の内容に溜息をつくと、教科書を開いた。この授業でやるはずのプリントと同じ範囲を開いて、分からない単語の意味や授業で言われそうな場所をプリントにメモしていく。言われている側がリアクションを示さなければ、このざわめきもじきにおさまるだろう。
やはり人間は嫌いだな。そう心の中で呟きながら、ミヤはプリントの空欄を埋めることに専念した。
チャイムが鳴ると、すぐに生徒たちは教室を出て行った。
ミヤはのんびりとプリントや教科書を片付けると、教師も出て行ったのを確認してから、よしと1つ頷いた。いつも持ち歩くようにしているポシェットから御札を取り出すと、教室の中央に向かって投げる。
するとその紙切れは空中にペタリと張り付くように止まった。しばらく待っていると、その御札が触れた場所から少しずつ空気から溶け出してくるように一体の妖かしが現れる。土色の肌をした鬼のような姿が現れた。
「貴様、土地神か?」
常磐は特に禍々しい様子でもないその妖かしに問うた。ミヤに危害を加える気がない様子の鬼は、頷いて見せるとその場に座り込んで口を開いた。
「あなたは獣の神のようだ。土地につかぬ神に理解してもらおうとは思わぬ」
「待てジジイ。お前が人間に手を出す度に俺の主に被害がくる。やるなら他所でやってくれ」
「人間に仕えているのか。……私はこの土地に住まうもの。神などと呼ばれたことはない。ただ、我々が収めていた土地をほじくってこの学校とやらを建てた人間が居る。まこと遺憾。この娘ならば我々の声も聞こえるだろうと、どうにか気づいてもらおうとしておったのだ」
土の鬼はしみじみと言うと、常磐の顔色を伺いながら言葉を続けた。
「どうにかして、この建物をどかしては貰えまいか。柱が地脈を刺激し、良くないことばかりが起きる」
「もうちょっと頭使え。なんだって爆発させたり、鍋を転がす必要があった?返答次第では貴様も土地も枯らすぞ」
ミヤは常磐の剣幕に恐れおののく土鬼を見つめながら考えた。
この学校が出来たのはもう何十年も昔のことだ。それ以来ずっと地脈がおかしなことになっていたと彼は言いたいのだろう。しかしその何十年もの間、ミヤのように妖かしが見える子供は一人も現れなかったのだろうか。それとも祓い屋と同等の力を持つ子供や教師が居なかったということだろうか。
どちらにしても、地脈の乱れなんてこの東京ではいくらでも起きている。人によっては電車が封印の鍵となる場所を分断しているのが悪いだの、ビルが建っている場所が悪いだのとも言う。
その割に日本が崩壊するような大災害が起こらないのは、人間たちが地脈やら妖かしたちの影響を受けにくくなっているからだとミヤは考える。昔の人間ほど信心深くない現代人は、神を敬わない分ご利益も受けづらい。もともとが日本の神々は人間と疎遠だというのに、こちらが信じていなければ向こうから関わってくれるはずもないのだ。
「常磐、学校の周りの地脈は本当に乱れているの?いつもどおりすぎて、私には分からない」
「…あぁ、若干歪んではいるが……今どきこの程度の乱れを気にしていたら暮らして行けんぞ」
「我々土地に着く者にとっては、居心地が悪いのですぞ!以前話題になった、床にビー玉を置くと転がっていく家のような居心地の悪さです!」
人間事情に妙に詳しい土鬼は、いかに住み心地が悪くなったのかを力説している。ミヤはこりゃ駄目だと溜息をつくと、話を遮るために手で制してから言った。
「申し訳ないですが、この建物をどかすことは出来ません。」
「何故でございますか!!」
「ここは多くの人間が生活をしている場所。そう簡単に動かすことなんて出来ません。柱を1本抜いただけでもこの建物は脆くなる。地脈を安定させたいのであれば、何かしら対策を練ることは出来ますが、建物をどかすのは無理です。」
背後から常磐にも同じようなことを繰り返し言われた土鬼は、諦めたようにまた姿を空中に溶かして消えた。ミヤはあっけなく諦めてくれたことに肩透かしをくらったような気分になりながらも、時計を見ると慌てて教科書とノートを持った。
あと数分で次の授業が始まってしまう。このタイミングで始業に居なければまたありもしないことを言われるかもしれない。
「そもそも、学校に来ないという手もあるんだぞ?」
「嫌。それって試合放棄で不戦敗でしょ?ありえない」
ミヤは教室に走って行く自分の後ろ姿を、常磐が複雑そうに見つめていたことに気づかなかった。
◇ ◇ ◇
その日の下校時間。習い事に行っている珊瑚を見送り、剣は一人で通学路を歩いていた。中学校の部活といえど、それなりに暗くなるまで活動はしている。以前海里に教えてもらった逢魔が時という妖かしが活発になる時間はとうに過ぎており、少しは安心して帰れるというものだ。
もちろん、昼間よりも夜の方が危ないのではと思うのだが、海里曰く、祓い屋という連中は妖かし専門の警察のようなもので、見回りを行っている地区もあるのだそうだ。剣が住んでいるあたりもその見回りの範囲内なので、妖かし関連のトラブルが起きたとしても、誰か祓い屋が現れるだろう。
「ところでさ」
「うん?」
左側から話しかけられて振り返ると、誰も居ない。気のせいだったのだろうかと思い止っていた足をまた動かすと、今度は右側から
「だからさぁ…」
「………まじかよ」
「まじだよ!」
自分と同い年くらいの少年の声が左から右から、時折下や上から聞こえてくるのだ。何事かと四方八方を見てみるも、特に見た目の異常は見受けられない。生憎と周囲に人間の姿も見当たらず、ここから自宅まで全力で走ったとしても、まだまだ時間がかかる。
「こんな早々に祓い屋の世話になるとか…」
剣ははぁーっと溜息をついた。妖かし相手に構うと、相手は調子にのってどんどんと悪戯をしかけてくる。こういう時は適当に無視して先に進むのが一番だろう。
「あれ?無視するの?君ってば酷いなぁ」
無視するのが一番なのだ。
「ところで君って狗谷ミヤのことが大嫌いなんだねぇ。そうだよね、人間のくせに妖かしの味方するんだもの。人間の君が嫌うのは当然だよねぇ。あれ?でも、おっかしぃなぁ…君の家に居る猫って、たしか妖かしだよねぇ?」
間延びした口調が多少鬱陶しいと感じても、無視するのが一番なのだ。
「どうして自分の飼い猫は許せるのに、他人になると許せないのかなぁ?あはっ!人間って気持ち悪いよねぇ。自分が大好きでさぁ、闇なんて抱えてませんって顔してるくせに、他人を貶めることを躊躇しない!そんな君のこと、飼い猫の猫又さんも、嫌いになっちゃうんじゃないかなぁ?」
「うるさい!!」
「あ、ようやく反応してくれたー!」
剣はうっかり振り向いて叫んだ自分を殴りたい気持ちにかられながら、諦めてため息をついた。
妖かしがそこに居るのであろう中空へ向かって視線をなげる。
「何の用事だよ」
「え?別に何でもないよ。ただ絡んだら面白そうだから声かけちゃった!」
「……はぁ…。帰る」
「駄目だよぉ!僕と遊ぶんだからさぁ!!」
歩き出そうとした体が、カクンと動かなくなった。自分の意思に反して、指先すらも動かない。まばたきも出来ない。嫌な汗が背中をつーっと滑っていって、剣は改めて自分を殴りたくなった。
「君って面白いよね。祓い屋でもなんでも無いくせに妖かしが見える。別に美味しそうってわけでもないのに、妖かしが寄ってくる。君に釣られた弱い妖かしを食べたら、僕のお腹も膨れるかなぁ…」
「……」
人間を食う妖かしが居るのだろうか。心臓がやけにうるさく鳴っている。手のひらがジンジンと脈打って、呼吸が浅くなっているのかとても息苦しい。
「人間って女のほうが美味しいっていうけど、やっぱ食べ比べてみるべきかなぁ…」
「試してみますか?」
背後から、最近聞き慣れた声がした。
「私に勝てたら、食べても構いませんよ。あなた、このあたりの川に住んでいる妖かしですね。人間の姿ですが、もともとは河童でしょうか。あなたが川から逃げたせいで、困ってるんです。」
「人間のくせに口うるさいなぁ!」
「困っているのは、あなたと同じ妖かしですよ。」
いつもどおり、抑揚はあるのに感情が読めない不思議な声で言う狗谷ミヤに、剣は内心で感謝した。うまくすれば、彼女がこの妖かしを退けてくれるかもしれない。
「ほら、勝負が怖いならおとなしく逃げ帰ってください。ちなみに私は人間なので、代理で下僕(しもべ)のワンコが戦います」
「だから、俺は犬ではないと何度言わせるつもり
「おすわり!」
「わん」
「というわけで、河童さん。尻子玉取られたくなければさっさと川に帰りやがれ、です」
その瞬間、剣の体を止めていた何かがカクっと開放され、危うく転びそうになった。剣が振り返ると、狗谷ミヤの隣に大人しく従ったらしい常磐がお座りしている。頭を撫でられてご満悦な表情をしていた常磐は、剣の視線に気づくとハッと慌てて立ち上がり、いつもの上から目線な笑顔を浮かべた。とてもわかり易い。
「小僧、貴様はだいぶ妖かしに狙われやすい体質になったらしいな」
「おかげさまで」
「せいぜい…清白千草あたりにでも弟子入りするんだな」
「常磐、口が過ぎる。清白さんはお忙しい方だから。…さ、帰ろう?」
剣が自分の身に起こったことを振り返っているうちに、常磐はミヤを抱き上げるとひょいと民家の屋根の上に飛び乗り、そこから軽々と跳躍を繰り返してどこかへ去っていった。
剣はまたしても妖かし絡みのトラブルに巻き込まれてしまったことを憂いながら、帰りが遅くなった理由を説明しなくてはと重たい足取りで自宅へと向かうのであった。
終。
2015/02/03 今昔
「はじめまして、戒愁珊瑚(かしゅう さんご)です。どうぞ、よろしくお願いいたします。」
例えば、転校生がやってきたとしよう。その転校生が外見で男女の区別がつかず、名前でも区別がつかず。そんな子であった場合に周囲の輪に溶け込める確率というのは、中学二年生ではとても低いと思われる。
案の定、剣が二年生になった春に転校してきたこの少年も、どこか教室か浮いてしまっていた。勿論それが良いことではないが、そこをどうにかする術を学ぶのが学校という場所だ。狗谷ミヤのように浮いていることを気にすることもなく、中学校へ進学してくるような人間も居るわけだが、そのような道はたどるべきでない。剣は強く感じることになった。
休み時間になれば、中性的な見た目と相まって女子からの熱い視線を受けている珊瑚に、剣は他の男子の静止も聞かずに声をかけた。
「なぁ、戒愁…であってるか?」
「うん、あってるよ。戒愁珊瑚。」
「おれは梔子剣。お前細いよな、ちゃんと食ってるのか?」
そう聞くと、珊瑚は驚いて目を見開き、それからにっこりと笑ってみせた。
「ありがとう、梔子。実は小さいころに病気して、それ以来あんまり運動ってしたことないんだ。」
「じゃ、昼休みになったらおれたちと一緒にサッカーやってみようぜ」
「ありがとう…!」
【 仮想百鬼夜行 犬神奇譚 03 】
それからあっという間に1年が過ぎ去り、剣は三年生へと進級した。
近頃は剣の尽力というよりもゴリ押しの成果が出たようで、他のクラスだった生徒たちにも珊瑚の存在は受け入れられつつある。それが嬉しくもあり、少しだけ複雑でもある。もっとも、剣も相変わらずクラスの中心グループに居るので不満はない。
不満だったり腑に落ちないことといえば、例の狗谷ミヤの存在であった。
今朝も珊瑚と並んで登校していると、背後からきゃんきゃんと楽しげな笑い声が聞こえてくる。
「でね!ミヤに言われた通りにしたら、玄関にナメクジ来なくなったよ!」
「そう、それは良かった」
「お母さんが、今度お菓子でも食べにお出でって言ってる!」
「ありがとう、それじゃぁ…二人の習い事が無い日に遊ぼう?私もお菓子作ってくから」
「「やったー!!」」
狗谷ミヤと、その囲いである。同学年の双子と仲良くなったらしい狗谷ミヤは、最近見る度にその双子と行動を共にしている。元より騒がしい双子と共に居るせいか、ミヤも少しだけ喋るようになったらしく、見ていてなんだかいらいらするのだ。
珊瑚はそんな剣の頭を拳で軽く小突くと、にっこりと笑ってみせた。
「後輩の女の子になんて顔してるの?」
「わ、悪い…でもなんていうか、あいつすっげー暗い奴だったのにあんな風になって。気に食わん」
その発言さえも珊瑚に笑い飛ばされながら、教室へ入っていく。黒板の右下に書かれた日直の欄に、自分と女子生徒の名前があるのを見つけ、剣は盛大にゲッと声をあげた。中学3年生ともなれば、日直などサボる生徒も多い。しかし、なんとなくではあるが与えられた仕事を無視するというのは納得が出来ない。
時計を見上げれば、朝のホームルームまでは15分ほど残っている。これは急いで向かうしかないなと思っていると、背後から勢い良く体当たりをくらった。
「剣、大丈夫…?」
「いてぇな、おい」
「ごめんごめんごー!剣っちのために日直の仕事しておいてあげたから、許してよー」
つんのめって振り返ると、日直の欄に同じように名前が書かれているクラスメイト、天宮カヨが当番日誌と出席簿を抱えて立っていた。着崩すわけでもなく校則通りに着ている制服は、とてもよく似合っていると剣も思う。
カヨはふと小首をかしげると、剣の右肩を軽く叩いてからにっこりと笑って見せた。
「ほら、早く席付かないと。1限目の支度しておかないと、今日は数学だから剣っちの列が当たるんじゃない?」
授業の度に日付通りの出席番号の生徒が居る列をあてる数学教師のことを指摘され、剣と、ついでに珊瑚はゲッと声をあげた。二人の座席は前後なので、剣が当たるとなれば当然ながら珊瑚も当たる。
剣は後で珊瑚の宿題を見せてもらおうと決心しながら、カヨにお礼を言うと、彼女のつけているお守りに目がいった。ミサンガのように手首に巻かれたそれには、見たこともない文字が刻まれた木製のビーズが1つついている。
「天宮、そのブレスレットかっけーな」
「あぁ、これ?いいでしょ。最近は不思議なことを起こす名人が居るからねー。こういうので身を守らないと」
「「不思議なことを起こす名人?」」
剣と珊瑚は綺麗にシンクロすると、二人そろって首をかしげた。
「あぁ、男子は知らないかもしれないね。今の二年生にさ、狗谷ミヤって女の子が居るの、知ってる?」
「知ってるよ。日本人形みたいな女の子だよね」
「そういう戒愁くんは西洋人形だけど…ってそうじゃなくて。その子が周りに居るとね、変なことがたくさん起きるんだってさ」
「例えば?」
「理科の実験で使ってたアルコールランプが、狗谷さんの居る班だけ爆発したりとか。調理実習で突然カレーの鍋が転がったりとか」
カヨの口から飛び出した内容に、剣も珊瑚も目をまるくした。筆箱が無くなるだとか、机が移動しているだとか。もうちょっと、小さい出来事を想像していたのだ。確かにそんなことが起きているというのなら、狗谷ミヤに近づきたくないという気持ちもよく分かる。
ただ、剣の頭によぎったのは妖かしのことだ。彼女も妖かしが見えて、妖かしたちと深く関わって生きている。もしかしたら、お供の妖かしが悪さをしているのかもしれない。全く関係ない妖かしが悪さをしているのかもしれない。
剣はそんなことを考えながら、もし狗谷と出会うことがあれば気をつけようと思った。彼女が指示しているにしても、そうでないにしても、彼女の周りが危険であるということに変わりはないのだから。
◇ ◇ ◇
ミヤが居る学年は、理科の実験でアルコールランプを使うことはなくなったし、ガスバーナーも使わないことになった。それはきっと、ミヤが居る場所でだけ起きる怪奇現象が影響している。そう教師たちが思ったからだ。
そんなことは考えなくたって分かるし、他人にいちいち言われなくても分かっている。
「お前のせいで授業できないんだけどー」
「学校来る意味あんの?気味悪い」
理科の授業中だというのに、コッソリというにはだいぶ大きい声で男子生徒が言っている。その男子生徒と同じ班に居た友人が、男子の背中をシャーペンでチクチクやっているのが見える。
学校でわざわざミヤに絡んでくるのは、同じクラスにいる風間葵と風間柳という双子の少女たちだけだった。彼女たちは妖かしの存在を信じているらしく、それらに詳しいミヤと仲良くなりたいと思ってくれたようだ。常磐も彼女たちのことは気に入っているようで、姿を見てもらうことは出来ないが時折周囲の妖かしを追い払ってやっているようだ。
そんなことを考えているうちに、クラスの中にざわめきが広がっていた。そのほとんどがミヤを非難する声で、理科の教師は困ったように笑って「静かにしてください」とだけ繰り返している。そんな教師の目線はミヤに向いていて、正直転校でもしてほしいと言いたげだ。
「人間とは厄介だな」
背後に居た常磐が小さく呟いた。気遣わしげにミヤの頭を撫でる手に、なんだか涙が出そうになる。
「常磐が封印される前の時代は、こういうのはなかったの?」
「あぁ。もう少し…肉体的だったな。昔のものも、このような陰湿なものも気に食わん。どちらにしても、標的がお前だと思うだけで腸が煮えくり返る」
台詞は裏腹に呆れたように言うと、常磐は教室の中をうろちょろしていた小さな妖かしを捕まえて、窓から外へと放り出した。弱くとも、ただの人間には害になることがある。人間は好きではないという彼がこうした行動をとるのは、ミヤがお願いしているからだ。
ミヤは先ほどから進んでいない黒板の内容に溜息をつくと、教科書を開いた。この授業でやるはずのプリントと同じ範囲を開いて、分からない単語の意味や授業で言われそうな場所をプリントにメモしていく。言われている側がリアクションを示さなければ、このざわめきもじきにおさまるだろう。
やはり人間は嫌いだな。そう心の中で呟きながら、ミヤはプリントの空欄を埋めることに専念した。
チャイムが鳴ると、すぐに生徒たちは教室を出て行った。
ミヤはのんびりとプリントや教科書を片付けると、教師も出て行ったのを確認してから、よしと1つ頷いた。いつも持ち歩くようにしているポシェットから御札を取り出すと、教室の中央に向かって投げる。
するとその紙切れは空中にペタリと張り付くように止まった。しばらく待っていると、その御札が触れた場所から少しずつ空気から溶け出してくるように一体の妖かしが現れる。土色の肌をした鬼のような姿が現れた。
「貴様、土地神か?」
常磐は特に禍々しい様子でもないその妖かしに問うた。ミヤに危害を加える気がない様子の鬼は、頷いて見せるとその場に座り込んで口を開いた。
「あなたは獣の神のようだ。土地につかぬ神に理解してもらおうとは思わぬ」
「待てジジイ。お前が人間に手を出す度に俺の主に被害がくる。やるなら他所でやってくれ」
「人間に仕えているのか。……私はこの土地に住まうもの。神などと呼ばれたことはない。ただ、我々が収めていた土地をほじくってこの学校とやらを建てた人間が居る。まこと遺憾。この娘ならば我々の声も聞こえるだろうと、どうにか気づいてもらおうとしておったのだ」
土の鬼はしみじみと言うと、常磐の顔色を伺いながら言葉を続けた。
「どうにかして、この建物をどかしては貰えまいか。柱が地脈を刺激し、良くないことばかりが起きる」
「もうちょっと頭使え。なんだって爆発させたり、鍋を転がす必要があった?返答次第では貴様も土地も枯らすぞ」
ミヤは常磐の剣幕に恐れおののく土鬼を見つめながら考えた。
この学校が出来たのはもう何十年も昔のことだ。それ以来ずっと地脈がおかしなことになっていたと彼は言いたいのだろう。しかしその何十年もの間、ミヤのように妖かしが見える子供は一人も現れなかったのだろうか。それとも祓い屋と同等の力を持つ子供や教師が居なかったということだろうか。
どちらにしても、地脈の乱れなんてこの東京ではいくらでも起きている。人によっては電車が封印の鍵となる場所を分断しているのが悪いだの、ビルが建っている場所が悪いだのとも言う。
その割に日本が崩壊するような大災害が起こらないのは、人間たちが地脈やら妖かしたちの影響を受けにくくなっているからだとミヤは考える。昔の人間ほど信心深くない現代人は、神を敬わない分ご利益も受けづらい。もともとが日本の神々は人間と疎遠だというのに、こちらが信じていなければ向こうから関わってくれるはずもないのだ。
「常磐、学校の周りの地脈は本当に乱れているの?いつもどおりすぎて、私には分からない」
「…あぁ、若干歪んではいるが……今どきこの程度の乱れを気にしていたら暮らして行けんぞ」
「我々土地に着く者にとっては、居心地が悪いのですぞ!以前話題になった、床にビー玉を置くと転がっていく家のような居心地の悪さです!」
人間事情に妙に詳しい土鬼は、いかに住み心地が悪くなったのかを力説している。ミヤはこりゃ駄目だと溜息をつくと、話を遮るために手で制してから言った。
「申し訳ないですが、この建物をどかすことは出来ません。」
「何故でございますか!!」
「ここは多くの人間が生活をしている場所。そう簡単に動かすことなんて出来ません。柱を1本抜いただけでもこの建物は脆くなる。地脈を安定させたいのであれば、何かしら対策を練ることは出来ますが、建物をどかすのは無理です。」
背後から常磐にも同じようなことを繰り返し言われた土鬼は、諦めたようにまた姿を空中に溶かして消えた。ミヤはあっけなく諦めてくれたことに肩透かしをくらったような気分になりながらも、時計を見ると慌てて教科書とノートを持った。
あと数分で次の授業が始まってしまう。このタイミングで始業に居なければまたありもしないことを言われるかもしれない。
「そもそも、学校に来ないという手もあるんだぞ?」
「嫌。それって試合放棄で不戦敗でしょ?ありえない」
ミヤは教室に走って行く自分の後ろ姿を、常磐が複雑そうに見つめていたことに気づかなかった。
◇ ◇ ◇
その日の下校時間。習い事に行っている珊瑚を見送り、剣は一人で通学路を歩いていた。中学校の部活といえど、それなりに暗くなるまで活動はしている。以前海里に教えてもらった逢魔が時という妖かしが活発になる時間はとうに過ぎており、少しは安心して帰れるというものだ。
もちろん、昼間よりも夜の方が危ないのではと思うのだが、海里曰く、祓い屋という連中は妖かし専門の警察のようなもので、見回りを行っている地区もあるのだそうだ。剣が住んでいるあたりもその見回りの範囲内なので、妖かし関連のトラブルが起きたとしても、誰か祓い屋が現れるだろう。
「ところでさ」
「うん?」
左側から話しかけられて振り返ると、誰も居ない。気のせいだったのだろうかと思い止っていた足をまた動かすと、今度は右側から
「だからさぁ…」
「………まじかよ」
「まじだよ!」
自分と同い年くらいの少年の声が左から右から、時折下や上から聞こえてくるのだ。何事かと四方八方を見てみるも、特に見た目の異常は見受けられない。生憎と周囲に人間の姿も見当たらず、ここから自宅まで全力で走ったとしても、まだまだ時間がかかる。
「こんな早々に祓い屋の世話になるとか…」
剣ははぁーっと溜息をついた。妖かし相手に構うと、相手は調子にのってどんどんと悪戯をしかけてくる。こういう時は適当に無視して先に進むのが一番だろう。
「あれ?無視するの?君ってば酷いなぁ」
無視するのが一番なのだ。
「ところで君って狗谷ミヤのことが大嫌いなんだねぇ。そうだよね、人間のくせに妖かしの味方するんだもの。人間の君が嫌うのは当然だよねぇ。あれ?でも、おっかしぃなぁ…君の家に居る猫って、たしか妖かしだよねぇ?」
間延びした口調が多少鬱陶しいと感じても、無視するのが一番なのだ。
「どうして自分の飼い猫は許せるのに、他人になると許せないのかなぁ?あはっ!人間って気持ち悪いよねぇ。自分が大好きでさぁ、闇なんて抱えてませんって顔してるくせに、他人を貶めることを躊躇しない!そんな君のこと、飼い猫の猫又さんも、嫌いになっちゃうんじゃないかなぁ?」
「うるさい!!」
「あ、ようやく反応してくれたー!」
剣はうっかり振り向いて叫んだ自分を殴りたい気持ちにかられながら、諦めてため息をついた。
妖かしがそこに居るのであろう中空へ向かって視線をなげる。
「何の用事だよ」
「え?別に何でもないよ。ただ絡んだら面白そうだから声かけちゃった!」
「……はぁ…。帰る」
「駄目だよぉ!僕と遊ぶんだからさぁ!!」
歩き出そうとした体が、カクンと動かなくなった。自分の意思に反して、指先すらも動かない。まばたきも出来ない。嫌な汗が背中をつーっと滑っていって、剣は改めて自分を殴りたくなった。
「君って面白いよね。祓い屋でもなんでも無いくせに妖かしが見える。別に美味しそうってわけでもないのに、妖かしが寄ってくる。君に釣られた弱い妖かしを食べたら、僕のお腹も膨れるかなぁ…」
「……」
人間を食う妖かしが居るのだろうか。心臓がやけにうるさく鳴っている。手のひらがジンジンと脈打って、呼吸が浅くなっているのかとても息苦しい。
「人間って女のほうが美味しいっていうけど、やっぱ食べ比べてみるべきかなぁ…」
「試してみますか?」
背後から、最近聞き慣れた声がした。
「私に勝てたら、食べても構いませんよ。あなた、このあたりの川に住んでいる妖かしですね。人間の姿ですが、もともとは河童でしょうか。あなたが川から逃げたせいで、困ってるんです。」
「人間のくせに口うるさいなぁ!」
「困っているのは、あなたと同じ妖かしですよ。」
いつもどおり、抑揚はあるのに感情が読めない不思議な声で言う狗谷ミヤに、剣は内心で感謝した。うまくすれば、彼女がこの妖かしを退けてくれるかもしれない。
「ほら、勝負が怖いならおとなしく逃げ帰ってください。ちなみに私は人間なので、代理で下僕(しもべ)のワンコが戦います」
「だから、俺は犬ではないと何度言わせるつもり
「おすわり!」
「わん」
「というわけで、河童さん。尻子玉取られたくなければさっさと川に帰りやがれ、です」
その瞬間、剣の体を止めていた何かがカクっと開放され、危うく転びそうになった。剣が振り返ると、狗谷ミヤの隣に大人しく従ったらしい常磐がお座りしている。頭を撫でられてご満悦な表情をしていた常磐は、剣の視線に気づくとハッと慌てて立ち上がり、いつもの上から目線な笑顔を浮かべた。とてもわかり易い。
「小僧、貴様はだいぶ妖かしに狙われやすい体質になったらしいな」
「おかげさまで」
「せいぜい…清白千草あたりにでも弟子入りするんだな」
「常磐、口が過ぎる。清白さんはお忙しい方だから。…さ、帰ろう?」
剣が自分の身に起こったことを振り返っているうちに、常磐はミヤを抱き上げるとひょいと民家の屋根の上に飛び乗り、そこから軽々と跳躍を繰り返してどこかへ去っていった。
剣はまたしても妖かし絡みのトラブルに巻き込まれてしまったことを憂いながら、帰りが遅くなった理由を説明しなくてはと重たい足取りで自宅へと向かうのであった。
終。
2015/02/03 今昔
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