「また妖かしに絡まれたのかい!これだから梔子の人間はお人好しがすぎるっていうんだよ、まったく。」
剣は朝から正座で食卓の椅子に座り、その膝の上に海里を載せた状態で朝食であるシリアルを食べていた。
「いいかい?妖かしっていうのは人間の弱い心に取り入る連中なんだ。特に狗谷の人間が操る妖かしはその辺りの容赦がない。絶対に近づいちゃ駄目だからね!」
「はい、ごめんなさい…」
「あと、戒愁の家もだめだ!」
「え?珊瑚の家?」
海里の言い分に思わずリアクションを示すと、海里は全身の毛を逆立てて剣の頬にねこぱんちを食らわせた。
「まさか!!戒愁珊瑚なんて名前の奴と関係があるんじゃないだろうね!!それだけは絶対に許しません!」
「痛い…」
【 仮想百鬼夜行 犬神奇譚 04 】
剣はその日、何故かご機嫌斜めになってしまった海里による傷跡を両腕にこさえて登校することになった。空気があたるだけで、少しピリピリする。
珊瑚の名前でどうしてあそこまで怒り出してしまったのか分からないが、ともかく彼女を怒らせないように頑張らなくてはならない。梔子家の権力は下から順に剣、徹、父、母、そして海里なのだから。
登校用のカバンを背負い直すと、剣はいつもどおりの通学を再び歩き出した。最近妖かしに出会ってしまった道は避けつつ、遠回りにはならないようにルートを変更する。狗谷ミヤにはじめて助けられた場所と、先日河童と呼ばれていた妖かしに襲われた場所だ。
もちろんそこにまだ何かが居ると思っているわけではないが、最近読んだ小説では「犯人は必ず現場に戻ってくる」と探偵が言っていた。ということは、通らないに越したことはない。
「あれ?おはよう、剣!」
いつもと違う道を通っている最中、背後から扉が閉まる音と聞き慣れた珊瑚の声が聞こえた。慌てて振り返ってみると、木製で横開きの門を閉めながら珊瑚がこちらに声をかけていた。
その背後は、このあたりでも一番大きな邸宅で、慌てて表札に目をやると達筆な文字で「戒愁」と書かれていた。
「ここ、珊瑚の家だったのか…」
「そうだよ。あれ、苗字で気づいてるかと思ってたんだけど…」
「いや、でもこの家ってずっとここにあるだろ?お前が引っ越してくる前からさ」
「昔、僕が病気したって言ったでしょう?あの時に病院の近くにあるマンションに引っ越したんだ。で、こっちはずっと祖父母が住んでて、通院しなくなったから帰ってきたんだよ」
確かに、剣の通う中学校付近には病院が少ない。体育の授業で捻挫した時も、教員の車に載せられてわざわざ出向く必要があるような距離だ。引っ越した方が効率が良いというのも分かるが、よくよく考えてみると、住宅地も多いのになぜ病院が少ないのかと気になるところだ。
二人はならんで歩き出すと、他の生徒たちの波にのった。
「このあたり、病院少ないんだよな。大きいモールとかはあるのに」
「そういえば、聞いたことあるよ、このあたりに病院が無い理由」
「理由?」
「そう。なんでも、猫憑きの影響らしいんだ」
剣は背中が震えるのが分かった。他の人が聞けばただ趣味の悪いオカルト話程度で流せただろうが、剣の場合は今までに妖かしと関わりすぎている。本当か嘘かは分からずとも、ただ恐怖を感じた。
「なんでも、昔この土地で猫憑きの術をやった人が居るらしくてね」
「犬神みたいに、猫で呪いするのか?」
「違うよ、人間と猫をくっつけるんだ」
「猫人間?」
「そうそう、よく映画とかに出てくる半獣人みたいなものになろうとしたんだね。それで、失敗してこの土地に呪いがかかった。だから、病人がこの辺りに居ると治らないらしいんだ。子供も生まれにくい」
背筋が、先ほどよりも冷えたような気がする。話している内容も信じがたく恐ろしいものだが、何よりもそれを話す珊瑚が楽しそうなのだ。猫という言葉が出た時から楽しげで、まるで猫憑きの話は喜ばしいことのように喋っている。
猫が好きな人からすれば嬉しいことなのかもしれないが、珊瑚のそれは少し違うように見える。猫と暮らしているという話も聞かない。
「良いよね、猫。ふわふわで可愛くて、人間よりも土地につく。格好良い。本当、猫になりたいって思っちゃう人の気持ちがわかるよ」
「あ、あぁ。うん、そうだな」
「あ、剣、あれ見て!」
珊瑚は怪しげな空気をすっと消すと、通学路の前方を指さした。ダンボールが落ちている。その隙間から、薄茶色のもふもふっとした何かが飛び出していて、時折左右に揺れた。捨て犬らしい。
なんとなく、狗谷ミヤのお付である例の狗神(本人曰く狼だそうだが、剣には全くそう見えない)のことが思い出され、警戒しながら近づいてみた。
犬は比較的元気なようで、舌をだしてしっぽを振っている。
「なんだ、犬か…」
「犬も可愛いだろ?っていうか、捨て犬か…お前可哀想だな」
剣はがっかりした様子の珊瑚を尻目に、犬を抱き上げた。豆柴と何かの雑種に見えるが、別段くわしくもない剣には犬種の判断はつかなかった。ただ、ふわふわの尻尾がとても可愛らしい。
そんなことを思っているうち、視界はゆるやかにブラックアウトした。
◇ ◇ ◇
随分と清々しい朝だ。
麗奈はそんなことを思いながらいつものスーツに着替えるとベッドを整え、朝食にトーストとカフェオレを用意した。ブラックコーヒーならば格好がつくのだろうが、人間の飲んでいるブラックコーヒーというものは妖狐の口にはあわないらしい。断じて苦くて嫌いなわけではなく、種族的な問題である。断じて。
今日から主である千草は急遽入った表の仕事で出張中だ。式として仕えている以上は、本来であれば麗奈も付き従うべきなのだが、表の仕事という都合がある。社長秘書という立場に居るため、今日はオフィスで留守番だ。
確か午後には梔子議員との打ち合わせがある。それ以外はいつもどおりに書類仕事をこなすまで。人間と関わることが少ない秘書というポジションは、妖狐としての本分を欠いているような気もするが、麗奈には気楽に出来る天職に思えた。
「次のニュースです----」
ニュースを聞き流しながら、街一体、千草の自宅から分かる範囲で気配を探る。祓い屋として、この街の妖かしが暴走しないように見守り制御するという仕事がスムーズに進むのは、妖狐としての探知能力の高さ故だ。
ふと、麗奈は見慣れない気配を感じ、残っていたトーストを行儀を気にせず口に入れてカフェオレで押しこむと、上着を羽織って自宅を飛び出した。
「これは…犬、ですか」
動物の妖かし。どの土地にも多く居る妖かしではあるが、この周辺に住んでいる--いや東京付近に暮らす犬や狐、狼の類はほとんどが常磐の配下に居る。麗奈のように人間に仕えるか、はたまたそういった繋がりを嫌う者以外は全てと言えるだろう。
常磐が狗谷ミヤに付き従っている以上、人間に対してトラブルを起こすことはほとんど無いのだが、今感じられる気配はどうにもおかしい。
中野区付近を見渡すと、麗奈はにわかに信じがたい光景を目にした。
「梔子、剣…」
道端に倒れている梔子剣と、その周囲にこれでもかというほどの猫が集まってきていた。幸いにも付近を通りかかる人間はおらず、その光景の異様さは問題にはなっていない。
「海里!どこかに居るのですか?」
猫の群れに向かって呼びかけると、一斉にこちらを振り返った猫のうちの1匹が、ふわりとやわらかい風を起こして人間の姿へと転じた。
長い黒髪を低い位置で結び、上部の髪の毛は短めなのかところどころ跳ねている。薄紫のTシャツに黒いズボンは、最近人間の間で流行っている格好だろうか。
「麗奈、良いところに。剣が大変!あの駄犬に…」
「あの阿呆に何かされたのですか?」
「犬神に憑かれてる!今猫たちを集めて常磐を探させてるけど、見つからない…」
海里の言葉と、にゃーにゃーと盛大に泣き喚く猫たちの言葉とを合わせてみると、どうやら剣に犬神がとり憑いた。このあたりで犬神を使役できるのは祓い屋か常磐くらいである。あの駄犬を呼び出して懲らしめてやる。ということらしい。
ともかく全員が焦っていてはしょうがないと、麗奈は剣の状態を確認すべく彼に手をかざした。
『 六根清浄 』
両手に霊力をあつめ、スキャンをかけるように剣の全身にかざしていく。生物学的には体内に異常は見られないようだが、人間ではありえない量の霊力が溜まっている。もともとが霊を見れるだけで能力の無い肉体に、こんなにも他人の気が溜まってしまってはいつ意識をも乗っ取られるか分からない。何より、そうなった時に海里が負うダメージも気になる。
麗奈はよりによって千草の居ない日に起きたトラブルに、絶望しか感じ得なかった。
「麗奈、治るんでしょう?」
「私では無理です。若ならばどうにかなるのでしょうが…私はたしかに除霊も行えます。しかし本職ではありません…こうも深く結びついてしまった犬神を除去するのは無理です。」
あくまでも、出来る限り冷静に言うと、周囲に居た猫たちがぐりぐりと剣の体に頭をすりつけはじめた。彼ら彼女らも心配しているらしい。
海里はといえば、ズボンをぎゅっと握りしめて過呼吸でも起こすのではないかという浅い息をしている。
「海里、落ち着いてください。他の祓い屋を要請します」
「それで間に合うの?」
「分かりませんがやらなくては」
「間に合わなかったらどうするの!!」
甲高い悲鳴に、耳にキーンと響いた。麗奈が怯んでいる隙に、海里が大きく息を吸ったのが見えた。
『彼方より此方、此方より彼方。名のある神よ、生ける力から立ち去られよ!』
海里の呼びかけに、びくりと犬神の霊力が震えたのが手のひらに感じられた。しかしそれだけで、海里が言ったようにそれらが立ち去ることはなかった。
言霊と呼ばれる能力は使う者の思いの強さや思念の強さによって、はたまた場所との相性によっても発動する威力は異なる。今この状況で海里の能力が効かないとなれば、二人のどちらの能力も効かないことは明白だ。海里が地面にぱたんと座り込んだのが視界の隅に写った。
◇ ◇ ◇
剣は明るい場所に居た。
見慣れた街と似てはいるが、大河ドラマでも見ているような古めかしい町並みの中に、剣は何故かぽつんと立っている。瓦屋根の平屋ばかりが立ち並び、時折猫が通り過ぎ、そして和服の子どもたちが走り去っていく。
目の前にあった横開きで木製の門が開き、中から紺色の着流しを着こなした男性が出てきた。薄桃色が混じったような独特な色合いの髪色をしている。どこかで見たような髪色だなと思いよくよく見てみれば、珊瑚の髪色に似ているのだ。
「莉李(りい)、どこに居るんだい?」
目の前に居る剣を無視して、その男性はキョロキョロと周囲を見渡しはじめた。
「あれ?ごはんの時間だから帰ってきてると思ったんだけど……」
言い草からすると、ペットの話なのだろう。
まだ周囲を見ている男性の方へ、よたよたと野良犬らしき小さな犬が歩いてきた。だいぶ弱っているらしく、ふらふらと足取りは覚束ない。男性はその犬が足元へやってきて悲しげな鳴き声をあげると、足をすっと引いた。
剣がまさかと思った次の瞬間には、犬はやって来た方向へと蹴り飛ばされていた。地面にペタンと倒れこんだ犬は、震えているので生きているのは分かるが立ち上がる気配はない。
「おい、お前!!何しやがる!」
「……あれ、莉李おかえり。やっぱりアイツが居たから帰ってこれなかったんだね」
剣の怒鳴り声も聞こぬフリなのか、男性は自宅の塀を歩いてきた子猫に声をかけた。白い子猫は可愛らしいすみれ色のリボンを首に結んでいる。猫は男性を視界に入れると、ピタリと足を止めた。
「おかえり。さぁ、ごはんにしようか」
尻尾を下げて嫌がる様子を見せる猫を、男性は無理やり塀の上から抱き上げると、また木製の門の中へと入っていってしまった。あまりの横暴さに剣が唖然としていると、門の中から「照れ屋さんだなぁ」「大丈夫だよ、僕はどんな君も好きだから」といった男性の声が聞こえてくる。
「おいおい、まじかよ……」
剣が呆然と門を眺めていると、先ほど蹴られた犬がクーンと鳴いた。見やれば、見知らぬ少女が犬を抱き上げている。
少女が小さく口を動かした瞬間、犬は光り始め、みすぼらしかった毛並みが整っていく。
「おい、その犬…」
「……あなた、多分、私以外には見えてない。」
「は?」
「今の貴方は犬憑き。だから、私にしか見えてない。多分、この時間に居るべきじゃない人」
少女は犬を抱き直すと、踵を返して歩き出した。
剣は全く状況が飲み込めなかったが、彼女の言う「時間に居るべきでない」という話が気になり、すぐに追いかけることを決めた。
◇ ◇ ◇
狗谷ミヤはふと空を見上げた。登校中にめずらしく葵と柳に遭遇しなかったため、今日は一人で歩いている。ように周りには見えているだろう。実際には常に常磐が傍らに控えているため、ミヤは今まで「一人ぼっちで登校した」ということはない。それどころか、初めて常磐に会った日から、一人で居たことは無いのではないだろうか。
お風呂に入っているときなどは扉を数枚挟んだ場所に居るが、その程度でお互いに気配を探れなくなることはなく、一人でいるという感覚は分からない。
だからこそなのか、誰かの孤独に触れることはとても心が痛む。自分の経験したことのない未知の痛みを感じている誰かが居ると思うと、助けずにはいられない。
「常磐、どこかでワンコが鳴いてる」
「…犬神か。哀れだな」
珍しくミヤの意見を聞く前に足の向き先を変えて歩き出した常磐に、ミヤも学校へ行くことは諦めた。ミヤを主として認めている常磐が指示を仰がないということは、彼の意思がそれだけ強いということだろう。
「ワンコ、強くなってる」
「人間に取り憑いたか。愚か者め、俺の土地で人間に手を出すとは良い度胸だ。」
人間の肉体や精気を食らって成長しているであろう犬神を思ってか、走りだした常磐の顔は複雑だ。同じ妖かしとして人間を食らってしまえと思うだろうし、ミヤという人間に取り憑いている以上は人間の味方でもある。しかし自分が取り憑いているが故に、今どこか近くに現れた犬神に取り憑くなとも言えない。
ミヤは常磐に抱き上げられたままでその首にしっかり掴まり、ふわふわと風になびいている髪の毛に顔をうずめた。くすぐったいのか、耳がひょこりと動いた。
「ワンコ、大丈夫かな」
言葉を無視して家々の屋根づたいに走っていた常磐が、ぴたりと止まった。にゃーにゃーと盛大な猫の鳴き声と、よく知った霊力を感じる。そっと下を覗き見れば、大量の猫と麗奈、海里、それから地面に倒れこんでいる梔子剣が居る。
自分以外の人間が犬神に取り憑かれているのを見るのは初めてで、ミヤはどうして良いのか分からなかった。自分は幼い頃から常磐という狼神に取り憑かれているうえに、もともとの素質もあったのだろう、特に体調を崩したり不便をしたことはない。だが、剣のような一般人が取りつかれた場合にどうなるか分からないのだ。
恐らく、早く対処をして除霊しなければ、体力も精気も底をついて死んでしまうのだろうということは分かる。
常磐が少し離れた地面に降り立つと、一斉に猫がこちらを向いて毛を逆立てた。海里が呼び出した猫たちだろうか。
「少し、よろしいでしょうか?」
常磐の腕から降り立って言うと、猫又が一匹飛びかかってくる。右手で受け止めてそのまま流れで地面へおろしてやると、今度は足首に噛み付いてきた。流石に痛いと思うが、犬神に取り憑かれている人間が居る目の前で、別の狗神を連れた人間を疑うなという方が無理な話だ。
背後の常磐が毛を逆立てて猫又を警戒しているのが分かるが、ミヤは止めることもなく言い放った。
「除霊をさせてください」
「馬鹿を言うんじゃないよ!常磐が消えれば、使役されてるこっちの犬神だって消えるんだろう!」
「何を言っているんです?」
「剣を助ける気があるなら、その駄犬を始末しろって話!」
海里の決めつけた悲鳴にカチンとときたが、ミヤはいくらか冷静な様子の麗奈を見て「どうしますか」とだけ続けた。無視されたことに猫たちまでもが怒っているようだが、今は一刻を争う状態に見える。
剣の体はぐったりと力が抜けていて、肌の色もよくない。ミヤは躊躇うことなく剣に近寄ると、腹に、肺に、喉に、そして口に己の力を載せるべく深く呼吸を整え、その場の空気を除霊するために二回の礼、二拍手、そして一礼をしてから両手を前方で1つ打ち鳴らした。
『かつて、ここかしこに賢き女衆座せり。ある者は戒めの鎖をととのえ、ある者は敵の兵をおさえ、ある者は鎖をむしりとれり。「戒めを脱し、敵を逃れよ!」』
◇ ◇ ◇
少女の後をついていって気がついたのは、さきほど男性が出てきた場所が裏口だということだった。表側の門扉にはきちんと「戒愁」という表札がかかっている。そして少女は犬を抱き上げたままで、塀の板が少しずれているところから、家の中の様子を覗きこんだ。
犬は抱かれたまま静かにしているので、剣もそれを見習って静かに他の隙間を覗きこんでみた。
「見てて。多分、今から戒愁家のご当主がしでかすから」
「しでかす?」
「そう、あの戒愁珊瑚は猫狂い。多分、禁術に手をだす。って、うちのワンコたちが教えてくれた」
庭には、なにやら大きな紙が広げられていて、墨汁で書かれたらしいよく分からない記号がたくさん書いてある。以前、麗奈や千草が妖術を使った時に見えた御札にも似たような文字が書いてあったように思う。
それにしても、と、剣は首を傾げた。戒愁家には男性に珊瑚という名前をつける風習でもあるのだろうか。
「来た」
少女のつぶやきに視線をずらすと、先ほどの紺色の着流しの男性が白猫を抱っこしていた。やはり嫌がる様子を見せている白猫に、剣はふつふつと腸が煮えてくるのを感じた。
白猫を抱き上げたままで男性は草履を脱ぐと、庭に広がった紙の上に乗り、中央に白猫をおろした。もはや怯えて動けないという様子の白猫に、懐からとりだした筆で背中になにやら書き込んでいく。赤いインクらしく、白猫の背中にはこれまた見慣れない記号が描かれた。
「さぁ、はじめようか。」
当主だという男性が言うと、紙に描かれた記号たちがにわかに輝き出す。
『おいでませ、おいでませ。彼の者に宿りし力と念を、我もとへ、我に宿りし力と念を、彼の者へ。天霊霊地霊霊十二神将急急如律令』
呪文が終わると、たちまち記号たちは輝きを増して、怯える白猫へと光が集まっていく。剣が思わず拳で塀を殴ると、隣で少女がつぶやいた。
『戒めを脱し、敵を逃れよ』
途端、白猫は弾かれたように走りだし、剣たちが居るのとは逆方向へと走りだした。当主は怒り狂ったように白猫の名前を叫びながら走りだし、剣はあっけにとられて少女をみやった。
少女はさも当然だと言う風に髪の毛を耳にかけなおし、それから犬を抱き直した。よくよく犬を見てみれば、犬よりも牙が鋭く顔が長い。
「さて、帰ろうか。狼を連れて歩くなんて、不審者だって通報されかねない。ただでさえ死ねない一族って言われてるのに、これ以上何か言われるのは面倒」
マジカヨ。という剣の呟きは、街角に溶けて消えた。
◇ ◇ ◇
それは麗奈も聞いたことのある呪文だった。
北欧神話に登場する精霊たちの呪文。囚われの身になったものを逃がすための呪文は、口から飛び出した瞬間には光に姿を変えて剣を包み込むように広がっていく。
日本に生まれ、日本の神々の能力を借り受ける妖術師である狗谷ミヤが、北欧の術式を使うことに、麗奈は全身が凍りつくような錯覚を覚えた。普通ならばありえないのだ。北欧につたわる万物の精霊たちがミヤの指示に従い、剣に取り憑く犬神を引き離しにかかるなど。
言ってしまえば、熱心なイスラム教信者がクリスマスを盛大に祝わないのと同じで、その者の心持ち次第で使役できる神々や妖かしは異なる。ミヤは以前、日本神話の神であるカグツチノミコトの能力を駆使してみせた。本来であれば、生まれ持った性質に合わせたものを使役するのが精一杯だというのに、炎を守護する神と、それとは全く別の能力を駆使してみせた。
背後に立ち除霊の様子を見ている常磐は、特に驚いた様子もない。恐らく、これがミヤの持って生まれたセンスか、はたまた常磐が取り憑くことによって増大されたものだと予測される。
「恐ろしい子」
「その恐ろしい子供を生み出したのは、狗谷の古い習わしだ。代々犬神に魂を喰らわれながら、呪いを背負い続ける。そしてミヤは、その肉体までもを贄として差し出すことになった」
常磐の静かな発言に、麗奈は違和感を覚えて振り返った。
「狗谷の家は、代々大きな神を祀っていると聞きました。常磐のことではなかったのですか?」
「俺は知らん。百三十年前にお前と清白のガキに封じられてから、ミヤの祖父母に叩き起こされる8年前まで、俺はずっと眠りっぱなしだ。封じられていなかったとしても、あんな不味いジジイどもの魂なんぞ、食う気にもならん」
「では…狗谷の家は一体何を……」
「大方、前回の腐れ神のように人為的に生み出した…いや、神から化け物に貶した連中を祭りあげていたんだろう。そりゃ、祓い屋連中から嫌われるのも納得だ」
前回の腐れ神は、確かにとても力のある神であった。それこそ、あのテリトリーの内側では千草も逃げることが精一杯になるほどに。あんなものを量産していたとしたら、今後どこにどんな化け物が現れるか分からない。
麗奈は心の中でなるほどと頷いた。
確かに都内の立地は良いが、それでも千草の会社がわざわざ23区にオフィスを置く理由はないとばかり思っていた。狗谷一族が生み出したあの化け物の存在を、祓い屋衆のお偉方は知っていたのだろう。
「人間とは、本当に面倒な生き物だ」
「ええ。全くです、せめて同じ生き物なのですから助け合えば良いというのに。ましてあんな幼い子に何をさせようというのか。」
「狗谷の家が腐っているのは大昔からじゃないか」
不思議そうに除霊の様子を見つめながら、海里がつぶやいた。
「常磐。あんたが取り憑いているせいで、あの子は人間とはかけ離れた存在になってるね?」
「何が言いたい」
「あの子を普通の人間と同じように生きて死なせてやりたいと思うのなら、今すぐ魂を分離しろって言ってるのさ。」
取り憑く、つまり憑依している状態とは、憑依された側の精神や運命に変化をもたらすことだ。霊力の増大や能力の開花をもたらすことから、魂が直結していると考える者も多い。海里とその飼い主である梔子の家は、憑依をそう考えているのだろう。
逆に、麗奈のように式として呼び出されている場合には、お互いが納得する何かしらの対価があっての協力だ。憑依のように人間側に不都合もなければ、肉体を乗っ取られるというようなことも、妖術師の能力に見合った式であれば発生しえない。
今回のように、力の無いものが憑依されてしまえば、命さえも落としかねない。そんなことを、狗谷の家は小学校にもあがらない子供にやらせたというのだ。
「狗谷ミヤは、死ねない。」
麗奈は小さく下唇を噛みしめる常磐を見た。歴史上に何度も名を出す大妖怪が、たかだか一人の人間にこんなにも感情を揺さぶられているという事実に、どこか共感を覚えざるを得なかったのだ。
「あのこはもう、人間じゃないから」
終。
2015/02/06 今昔